第18話 誘引

「江崎さん! 話がある!」


 両手を挙げたハルカはゆっくりと昇降口を通り過ぎ、校舎の西側を進む。一歩を踏み出す度に心臓が大きく脈打つ。血液が勢いよく身体を巡っているにも関わらず呼吸は苦しく、手足の末端が痺れてくるようだった。


 通り過ぎた教室の扉から背後から襲われるかもしれない。そうやって気を後ろに取られたら正面から斬られるかもしれない。相手は既に一人、殺している。余談を許さぬ極度の緊張が胃を締め上げ、吐きそうだった。

 けれどハルカは胸を張って進んだ。汗を滴らせながらも、顔を歪めるのを必死に堪えた。

 出口という光明を見つけたのだ。安全に脱出するためには、凶器を振り回すエリを放っておくわけにはいかない。


「江崎さん! どこ!?」


 反応はなく、呼びかけは虚しく木霊する。だがエリは聞き耳を立てている筈だ。

 ハルカは肌で空気の流れを感じ、微かな変化でも見逃さない。疲れ果て、傷も癒えていない身体なのに感覚だけは研ぎ澄まされている。

 ひとつずつ、教室の中を確認していく。自分が使っていた教室。ニィナが使っていた教室。マリアが使っていた教室。

 そして、エリの使っていた教室に入ったとき床に投げ捨てられた黒い物体が目に留まった。拾ってみると黒いポーチだった。「真壁マリア」と名前が入っている。

 ここにインスリンの注射器が入っていたのだろう。それがエリの根城にあったということは……


(この校舎に最初に現れたのは江崎さん。マリアを発見したのも彼女)


 今となっては、エリに記憶があったのかは定かではない。だが、マリアが関わると彼女の様子はおかくなっていた。発言に取り合わなかったり、病死で異様に取り乱したり……

 マリアの『顔見知り』は江崎エリだと確信する。

 その顔見知りが誰なのかを話したくなかった理由も察する。


(ミカの話を両方とも信じるなら、殺されてここに来た人間の生前の記憶は残ったままになる。そしてミカが在学していた何年も前に糖尿病の生徒がいじめ殺され、屋上から落とされた。犯行がバレた江崎エリという生徒は自殺……)


 血が滲むほど唇を噛んだ。

 怒りが恐怖に上書きされ、教室を出る。

 脱出の安全を確保すると同時に、エリに問い詰めなければならない。

 まだ調べていないのは機械室と調理室だ。

 廊下には誘うように血の跡が続いている。その向かう先は調理室だった。


(誘き出すつもりだ。調理室に)


 無言で調理室の扉を開け放つと、濃厚な鉄の臭いが鼻へと叩き込まれる。うめき声を上げて口元を覆ったハルカは、仰向けに倒れる少女を見つけた。

 葛川クミが血塗れになっている。胸部には分かりやすく包丁が突き立てられ、恐怖に歪んだ表情のまま事切れていた。


「っ!?」


 胃酸が逆流してハルカの喉を焼いた。嘔吐を堪えながらよろめくと、堪えていた涙が奥底から滲み出てくる。

 殺した。二人も。

 最悪の選択をした女がこの近くに潜んでいる!

 頭の片隅で警報が鳴るとハルカは僅かな風切音を捉えた。

 真横を振り向くとボールが飛んでくる。ボールは虚ろな目でハルカを眺めながら、放物線を描いている。ハルカが避けるとボールはバウンドせずに床を転がった。べしゃりと濡れた音を立てて壁際で止まる。


 マリアの生首だった。

 頭蓋がひどく歪んでいて、傷だらけで、見る影もない。端正だった目鼻立ちは不恰好な粘土細工の如く潰れ、艶やかな髪はべっとりと血糊が付着して固まっていた。どこか作り物めいていて、ハルカの中で一気に現実感が遠退いていく。


「江崎ぃっ!!」


 ハルカは威嚇するように吠えてボールの発射地点を睨みつける。調理実習室の机の側で誰かが蹲っていた。黒い泥濘が人間の形をしている。輪郭は確かにエリのものだが、染み込んだ血に何もかも塗り潰されていた。そいつの暗く沈んだ瞳がハルカの姿を捉え、銀の光が閃く。

 また包丁を握っていた。もう言葉は通じそうにない。


「あなたは、どこまでっ!!」


 激昂したハルカは調理台の上に積んであった皿を掴み、力一杯投げつける。躙り寄るエリにぶつかるが、まるで効いていない。次々に食器や調理器具が当たっても何ら反応を示さなかった。痛がらないし、止まりもしない。陶器の割れる音がタイミングのズレた効果音のように思えるほどに。

 息を切らしたハルカは手を止め、相手の出方を伺う。一方のエリはのっそりとした動きでクミの死体の前に出る。それからクミ、マリア、ハルカと順に視線を巡らせた。

 襲いかかってくるのではなく、品定めをするような動作である。

 のっそりと移動したエリは、マリアの頭部が転がっている部屋の端まで辿り着く。ドス黒い悪意はマリアの髪を乱暴に掴むと、ハルカに向かって再び投げつけてきた。

 身体を失ったマリアが空中で回転している。こんな辱めを受けるべき人じゃなかったのに。


 ハルカは両腕でマリアの頭部を受け止めた。重く、冷たい。でも怖くはない。

 このときのエリの狙いはハルカを動揺させることだった。仲良しだった相手の生首を投げつけられたら冷静でいられるわけがない。だが、狙いは虚しく打ち砕かれる。エリ自身は的外れな行動をしてしまったことに気付いていない。

 チャンスと誤認したエリは陽炎のようにゆらりと動いた。

 包丁が粉を描きながら閃き、ハルカの肩を掠める。

 続けて真っ直ぐに突き、腕と脇の間を刃がすり抜ける。

 ハルカはマリアの頭を抱えたまま懸命に逃げた。

 薄皮を裂く際どい交錯を繰り返し、ハルカは少しずつ時計回りにポジションを変えていた。足元に気をつけながらジリジリと後退し、追い詰められる素振りを見せる。

 エリは残った体力を吐き出すかのように攻撃を繰り出し続けた。上半身の勢いに下半身が振り回され、派手に揺れている。


 狂気に染まったエリの顔は恐ろしく、見た者の心を挫く。下弦の月の如く裂けた口と、虚無の瞳から悦楽を垣間見せる。抑圧されてきた校舎での生活から理性を解き放ち、明らかに楽しんでいた。

 だが、それだけの恐怖でもハルカを押し潰すことができない。マリアを抱えている重みはそのまま心の支えとなる。


(かかった)


 位置は狙い通り。

 二人の間には、胸に包丁を突き立てられたクミの死体がある。

 その死体の爪先はエリの進路上に投げ出されていた。

 けれど視線はずっとハルカだけを捉えたまま、足元を疎かにしている。

 ハルカがわざともたついてみせると、エリは嬉々として前へ踏み出した。


「っ!?」


 クミの脚を踏んだエリは大きくバランスを崩す。持ち直そうと身体を引き起こすと今度は血溜まりに足を取られた。

 狙って隙を作りにいったハルカは当然見逃さない。

 腰を落として肩口からエリの胸目掛けて体当たりをかまし、全体重をかけて一緒に倒れ込む。たまらずエリの手から離れた包丁が床を転がって金属音が響いた。先に立ち上がったハルカはサッカーボールのようにエリの側頭部を蹴って追い打ちを仕掛ける。

 頭蓋骨の固さで指が折れそうになるも、受けたダメージは向こうのほうが大きい。脳を揺さぶられて起き上がれず、身体が痙攣している。一瞥すると鼻が折れたか、顔のあたりから出血していた。

 今なら、いくらでも攻撃を加えられる。

 エリは倒れていて動けない。こいつは、やってはいけないことをやったのだ。


(こいつは、許しちゃいけない)


 太ももに力が籠って、再び足を振り抜こうとした。

 けれど、そのとき、抱き締めたマリアの首が何かを訴えてきた。言語ではない見えも聞こえもしないものがハルカの胸を過ぎる。おかげで熱は一気に冷めた。

 足を引っ込め、踵を返す。追い打ちは必要ない。


「う……らぎ……り……もの……」

「あっ……!?」


 うつ伏せに倒れたままのエリがハルカの左の足首を掴んでくる。尋常でない力に引き寄せられ、ハルカは転んでしまった。その勢いでマリアの頭部を落としてしまう。

 ハルカは残った右足でエリを引き剥がそうと蹴りを入れる。何度も、何度も当たっているのに握力は一向に弱まらない。


「わた……しは……ただ……しいの……」

「人を殺しておいて、どこが正しい!?」

「わた……し……は……」

「ぐぅっ!?」


 指が骨にまで食い込んでくる。万力で潰されたような痛みに、ハルカは歯を食いしばった。

 ズルズルとエリの方へと手繰り寄せられていく。エリはいつの間にか包丁を拾い、逆手に持っていた。

 鼻は潰れ、前歯も欠けている。醜悪な形相から、かつてのエリを連想することはできない。

 膝で立ち上がった彼女はハルカの胴体を跨ぎ、刃を真下に振り下ろした。


「し……ねぇ……!!」

「ハルカ!!」


 硬く目を瞑って覚悟したとき、ミカの声が調理実習室に響く。

 開いたままの扉から飛び込んできたミカは踏み込みと同時に状態を捻り、力強くスィングした。その手に握られたずんぐりとした円柱上の物体はエリの顔面を直撃し、ミシッと骨が軋む音がハルカの耳にも届く。

 ワンテンポ遅れてエリの身体は吹っ飛び、錐揉みしながら落下していく。桁外れの衝撃が頭部を砕いたらしく、もうピクリとも動かない。


「大丈夫!?」

「あなた…… 昇降口で待機している筈じゃ……」

「あんまりにも遅いから来ちゃったよ~ 間一髪だったねぇ♡」


 焦れたミカは自分の判断で調理実習室に踏み込んできたのである。

 勝手に動いたことを怒る気も起きなかった。実際、このタイミングで現れなければハルカは殺されていただろう。


「とりあえず、ありがと」

「うわぁ、何拾ってんのぉ? 生首抱えたままお礼されても引くんですけど~」

「放っておいて。ところで何故、それなの?」

「え? だって、防災訓練で先生たちが使うやつってコレっしょ?」


 ミカが手に持っていたのは真っ赤なボディの消化器である。こんなもので殴られたのではひとたまりもない。しかし、ハルカが想定していた武器とは異なっていた。


「先端が割れた槍みたいなのがある。不法侵入者を取り押さえるやつ」

「なんだぁ、それなら名前で言ってくれないとわかんないよぉ」

「……名前を知らない」

「あれ? ハルカって意外と……?」

「うるさい」

「アレはね、刺股って言うんだよ♡」

「うるさい」

「ま、細かいことはいいっしょ。それで、出口ってドコなの?」

「……」


 無邪気に笑うミカから目を逸らし、もう動かなくなったエリを見る。

 静かに目を瞑り、祈るのも烏滸がましいと知りながら、心の中で弔った。


「ハルカぁ? どーしたのぉ?」

「案内する」

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