尋陽周氏の「益州四十一年」とその系譜②―周楚
周楚は、その字「元孫」の「元」が、太子を「元子」とする如く、嫡長の義であるから、周撫の長子と思われ、「周馥」の父とも推定される。
周訪の生年から推定した周楚の生年は、それぞれ永熙元年(290)・永康元年(300)・永嘉四年(310)・太興三年(320)前後となり、周撫が咸寧・太康年間(275~289)の生まれであれば元康年間(291~299)以降、周馥が周撫の孫ではなく、「七十帖」に從って、周撫の生年が元康年間であれば、周楚の生年も永嘉年間(307~312)以降と推定される。
周楚傳の冒頭には「起家參征西軍事、從父入蜀、拜鷹揚將軍・犍爲太守。」と、「參征西軍事」で起家したとある。
「征西」は周楚の存命中では、戴淵(戴若思)・陶侃・庾亮・庾翼・桓溫の五名が確認できるが、「從父入蜀」と続く事を考えれば、周撫傳に「桓溫征蜀、進撫督梁州之漢中巴西梓潼陰平四郡軍事、鎮彭模。」とあり、永和二年(346)から三年に掛けて「伐蜀」を行っている桓溫と見るのが妥当である。
桓溫傳にも「及軍次彭模、乃命參軍周楚・孫盛守輜重、自將步卒直指成都。」と、周撫が鎮した彭模にて、「參軍周楚」の名が見える。
但し、桓溫が「征西」と為ったのは永和四年(348)八月の「進安西將軍桓溫爲征西大將軍・開府儀同三司」時であり、「伐蜀」の時点では安西將軍である。
從って、「參征西軍事」で起家したのはそれ以前であり、或いは、建元二年(344)八月に「進安西將軍庾翼爲征西將軍」とある庾翼の參軍と為り、翌永和元年(345)七月のその死を受けて、後任となった桓溫の參軍に転じたとも考えられる。
ただ、この場合、周楚の年齢は元康初の生まれでは、五十代半ば前後となり、「起家」には遅く、「子」の周馥が王敦の掾と為っているにも拘らず、これ以前の経歴が不明となる。
從って、或いは周楚は周撫の長子ではなく、周馥の父は別にいるとも考えられる。また、「起家參征西軍事」と「從父入蜀」は直接には関連せず、それ以前に征西將軍であった陶侃・庾亮の參軍と為ったとも考えられる。なお、戴淵については時期も短く、活動地域からして可能性は低いと思われる。
生年が永嘉年間の場合、やはり起家が四十前後となり、やや遅いが、それ以降の建興年間(313~317)・太興年間(318~321)の生まれであれば、二十代後半から三十代で、一応不自然ではなくなる。
周楚が周撫の嫡子であれ、長子でないとすれば、その生年は不詳で、年長で子を生した推定に近づく。庾翼が征西將軍と為った建元二年(344)に弱冠程度とすれば、その生年は太寧年間(323~325)頃となる。
これは周撫が元康年間の生まれである場合、三十代での子となり、周訪・周撫の年齢差とも近似し妥当性がある。
「征西」を太寧三年(325)五月の陶侃、或いは咸和九年(334)六月の庾亮とした場合、周楚が元康初の生まれならば、三十代半ば、又は四十代半ばで「參征西軍事」として起家した事になる。
後者はなお、やや遅いと言えるが、前者であれば、不自然とまでは言えなくなる。一方で、永嘉年間の生まれならば二十代での起家となり、妥当であるが、それ以降の生まれでは十代以下と、逆に早過ぎるという事になる。
また、「征西」が陶侃であれば、父周撫が王導の從事中郎から、寧遠將軍・江夏相と為った時期であり、荊州(征西)との関連がある。そもそも、陶侃の子陶瞻には周撫の姉妹(周訪女)が嫁いでおり、周楚にとって陶侃は姑の夫の父で、縁戚関係にある。その点では周楚が陶侃の征西大將軍府の參軍事と為った、というのは妥当性がある。
ただ、この場合、官歴が略されている可能性はあるが、周楚は二十年余に亘って、參軍に留まっていた事になり、やや不合理な推定になる。從って、以下は「征西」が陶侃・庾亮である可能性も考慮しつつ、桓溫、或いはそれ以前の庾翼であると推定して、周楚の経歴を見ていく。
周楚は「平蜀」後、鷹揚將軍・犍爲太守を拜しており、鷹揚將軍・太守というのは、周撫が永昌元年(322)頃、つまり、三十代から四十代で就いた地位と同等である。この点では「入蜀」時、永和(345~356)初に弱冠前後とすると若過ぎ、逆に五十代半ば前後であれば、やや遅いが父と同様と言える。
ただ、「拜鷹揚將軍・犍爲太守」に続くのは、興寧三年(365)の「父卒」であり、この時点で鷹揚將軍・犍爲太守であったならば、周楚は太寧年間(323~326)の生まれでも、当時四十前後という事になり、相応の年齢と言える。
參軍から、二十年の間に何らかの官を経て、鷹揚將軍・犍爲太守と為ったと見るのは、一応合理的である。一方で、元康年間(291~299)の生まれで、七十前後というのは高齢に過ぎ、その間二十年近くの事績が不詳であるのは不審であり、推定から外すべきである。
興寧三年(365)六月に周撫が卒すると、周楚は建城公を襲爵し、「監梁益二州・假節」と為っている。因みに、周撫は都督益寧二州諸軍事・益州刺史であったから、益州に於ける、その後繼となっている。寧州については、「興寧初督寧州軍事・振武將軍・寧州刺史」とある從兄弟の周仲孫が繼承したと思われる。
なお、本傳には見えないが、廢帝紀興寧三年十一月条に「益州刺史周楚」とあるので、周楚は刺史も繼いでいる。但し、太和六年(371)三月の死去時には「監益寧二州諸軍事・冠軍將軍・益州刺史・建城公周楚卒」と、「益寧二州」とある。
そして、周撫の死から程無い同年十月、梁州刺史司馬勳が反し、成都王を稱すると、周楚は桓溫が派遣した鷹揚將軍・江夏相朱序と共にこれを討ち、翌太和元年(366)五月に平定している。
「監梁(州)」と為ったのは、この司馬勳平定後とも考えられ、その功によって冠軍將軍に進んでいる。なお、司馬勳は元より「僭偽之意」を抱いていたが、周撫を憚り自重しており、その死を受けて挙兵したと云う。
また、朱序は父の朱燾が周撫と同時期に活動しているが、明らかに立場が下位である事や、朱序自身が太元十八年(393)に卒している事を考慮すれば、四十代前後ではないかと思われる。
この後、周楚は「太和中」に蜀盜李金銀・廣漢妖賊李弘及び、隴西人李高詐等が反すると「其子」を派遣してこれを平定しているが、それは廢帝紀太和五年(370)九月に「廣漢妖賊李弘與益州妖賊李金根聚眾反、弘自稱聖王、眾萬餘人、梓潼太守周虓討平之。」として見える。
なお、李金銀(李金根)、或いは李弘は「李勢子」と、李高詐は「李雄子」と稱しており、李勢・李雄は桓溫が平定した「蜀」(成・漢)の主である。
本傳では「是歲」とあるが、廢帝紀に依れば翌太和六年(371)三月に周楚は卒している。或いは、平定が翌年まで及んだのであろう。この年、周楚は五十代から七十代と推定される。
周楚の享年が五十前後である場合、李弘等の平定に派遣された「其子」は年長であっても三十前後であり、やや若い気もするが、七十代であれば四十代以上である可能性があり、問題は無くなる。
この「其子」は順当に考えれば、「子瓊嗣」とある周瓊と思われるが、廢帝紀には「梓潼太守周虓」とあり、周虓は周瓊の子、つまり、周楚の孫とされている。これは、後に詳しく見る。
以上から、周楚の生年は元康初などの早い推定であると、「平蜀」前後共に二十年程、経歴の空白が生じ、父の後繼となった時点で既に高齢であった事になる。その点では早くとも永嘉年間(307~313)以降、おそらくは太興年間(318~321)以降の生まれと推定する事に妥当性があると思われる。
なお問題が残るが、一先ず措いて、周瓊以下の経歴を見ていきたい。
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