第十七話 もちろん小学生は飲んじゃダメだからね

「あっ、ワイルド巡査、大変なことって何だったんですか?」


 それでもダニエルは渡りに船とばかりに尋ねた。ベンは再びどっかとイスに腰を下ろし、


「クソみてぇなことさ」


 吐き捨てるように言う。


「うちのバカ犬が散歩中に脱走したんだと。そんなことで亭主の職場に電話をかけてくるヤツがあるか。しかもオレは警官だぞ、け、い、か、ん」


 犬好きな倫子は、そのことばで決定的にベンのことが嫌いになった。だが、ベンはもちろん倫子の心情など知る由もなく、


「で?」


 スーザンを見てあごを上下させる。


「あ、あのぅ……」


 ダニエルが割って入り、


「ああ!?」


 ベンは噛みつかんばかりの目つきでダニエルを睨みつけた。ダニエルはびくりとしたが、


「す、すみません。実は……もうぼくが聞いちゃったんです」


 勇気を振りしぼった様子で言う。


「はぁ!? 何でそんな勝手なことしやがったんだ!」


「だ、だからすみませんってば! その……なりゆきでしかたなく……」


 ベンはまたしても舌打ちをして、


「もういい! じゃ、おまえの口から話せ」


 投げやりに言った。


「は、はい! えーと、そのぅ……スーザンはチェリーパイに殺されかけたらしいんです」


「……いま、何に殺されかけたって言った?」


「チェ、チェリーパイです。それも、チェリーパイを喉に詰まらせたとかチェリーパイで滑って転んだとかいう意味じゃありません。チェリーパイが空を飛んで口を開けて、スーザンを噛み殺そうとしたらしいんです」


 ベンは怖いほど静かに立ち上がり、鼻と鼻がくっつきそうなほどダニエルに顔を寄せた。


「おまえはそんな、さっきのオレの女房の話より何百倍もクソみてぇな話を信じたのか?」


「し、信じたなんて言ってませんよ! このひとたちの話をそのまま伝えただけで……」


「つまり、おまえは伝える価値のある話とない話の区別もつかねぇんだな?」


「す、すみませんすみません! すぐお引き取り願いますから!」


 そうだ。もともとのストーリーでは、ダニエルはたしかにイヴリンに一目惚れするが、だからといってイヴリンのために一肌脱いでくれるわけではないのだ。スーザン殺害事件と、それに続く三件の殺人事件を捜査してはくれるが、それはイヴリンのためにというよりは単に仕事だからである。


「ほら、みなさん帰って帰って! 大丈夫、一杯やってぐっすり眠ればもう幻覚なんて見なくなりますよ。あっ、もちろん小学生は飲んじゃダメだからね」


 小学生って――このひとはイヴリンの話を聞いていなかったのだろうか。


 だが、怒ったりあきれたりしている場合ではなかった。そのとき、またしても窓の外が暗くなったからだ。


 どうして……!?


 う、ううん、きっと何か理由があるんだ。「もともとのストーリーから外れすぎた」って理由じゃないものが……。


 パニックになりそうな頭に、深呼吸で酸素を送りこむ。その理由がどんなものかは見当もつかないが、ひとつだけわかっていることがある。このままおとなしく帰ってはいけないということだ。


 とはいえ、ベンは決して聞く耳を持ってはくれないだろう。何とかしてダニエルと倫子たちだけにならなければ。


「いやです。信じてくれないかぎり、私たちテコでも動きませんから」


 倫子がそっぽを向いてみせると、ダニエルとベンだけではなく、栞とイヴリンとスーザンも驚いて倫子を見た。


「君ねぇ、そんなふうに駄々をこねたって……」


「駄々をこねてるんじゃありません。正当な主張をしてるんです」


 ダニエルは困り果て、交互に倫子とベンを見ていたが、二人とも全く折れる気がないことがわかったらしい。遠慮がちに倫子に近づいてきて、腕をつかんで引っぱった。その力は強くはなかったが、倫子はわざとおとなしく立ち上がる。ダニエルがそのまま歩き出したので、倫子も引きずられていく格好になった。


「鈴鹿さん!」


「ちょっと、乱暴はやめてよ!」


「そうだよ、アメリカの恥だ!」


 栞とイヴリンとスーザンも立ち上がり、ダニエルを取り囲んだ。だが倫子が小さくかぶりを振ると、三人とも察してくれたらしく一歩後ろに下がる。


 ダニエルは怪訝な顔をしながらも歩きつづけ、栞たちもついてきた。全員が外に出た瞬間、


「ダニ……いえ、刑事さん!」


 倫子はダニエルの手をほどき、まっすぐ彼に向き直る。


「な、何だい?」


「お願いします。この事件を公的に捜査してくださいとは言いません。でも、こっそり信じてはほしいんです。そしてほかでも同じような事件が起こってないか気にかけてて、もしも起こったら連絡してほしいんです。刑事さんだって少しはおかしいと思ってるでしょう? 幽霊とかUFOならともかく、ひとを襲うチェリーパイの幻覚を三人で見るなんて……」


 訴えているあいだに、空を覆っていた黒雲がどこへともなく去りはじめた。


 よし、この行動は間違ってないんだ!


 本当は、次の犠牲者がメアリーという名前の中年女性だということも教えたかったが、たとえその行動が正しかったとしても、絶対に正気を疑われてしまうだろう。


「う……そりゃまぁ、ちょっとはね……」


 ダニエルは目を逸らして頬をかいた。


「じゃあ、私のお願いを聞いてくれますか?」


「まぁ、それくらいのことなら……」


「ありがとうございます!」


 倫子が深く頭を下げると、


「ありがとうございます!」


 栞もあとに続いた。イヴリンとスーザンも、頭は下げなかったものの礼を言う。そのころにはもう、黒雲は一片も残っていなかった。


「じゃあ、連絡先を交換しておいたほうがいいわね。刑事さん、Looksbookメッセンジャーはやってる?」


 イヴリンが尋ねたとたん、ダニエルは直立不動の姿勢をとった。


「は、はい、やっております! あっ、申し遅れましたが、わたくしの名前はダニエル・ロビンソンであります!」


「ロビンソン刑事ね。じゃあ、あたしの電話番号を教えるから検索してくれる?」


 二人は無事Looksbookメッセンジャーでつながり、四人はスーザンの家に帰ることになった。


「ところで、あなたたち、これから行く当てはあるの?」


 イヴリンが車を運転しながら尋ねる。


「い、いえ……」


「だと思った。じゃあ母さんちに泊まりなさいよ。あたしも数日はそうするつもりだったんだし……。母さん、いいでしょ?」


「もちろんだよ。行く当てのない若い女の子をほっぽり出すなんて極悪非道なマネ、誰がするもんかね」


 スーザンが胸を張ってどんと叩いた。


「ありがとうございます……!」

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