ひっく、ひっく、ひっく、ひっく……

 ひっく、ひっく、ひっく、ひっく……

 夜の小道に赤ちゃんお母さんの声が響く。


 この時間帯。出てきたばっかりの満ち欠けの月はただひたすらに大きくって、わたしはぼんやりと上だけを見上げていたい衝動に駆られるが、人の目が気になって今はそれどころじゃない。

「ひっく、ひっく、」

「しつけーな。いい加減泣き止めよ」

「痛かったわねえ。痛かったよねえ」

「わたしの方が痛かったんだけど! ねえ!」


 バチーン!

 コミちゃんが大声上げながら赤ちゃんお母さんの背中をで叩いた。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「うるっせー!」

「おーよしよし。コミちゃん?」

「ふんっ」


 冷や汗、だらだらである。


 やばい。やばい。

 マズい。

 冷や汗しか出てこない。

 見られたら――。

 首をぐるりと巡らせたとき、通行人が目に入った。あ。やば。

「……」

 通行人はスマホをいじって歩いている。歩きスマホだ。大学生くらいの男の人で肩にスーパーのものと思しきビニール袋をぶら下げている。エコバッグじゃない。なんとなくずぼらに見えた。

 男の人はチラリと騒がしいお母さん集団を見ると、一瞬怪訝な顔をみせた。が、お母さん集団の影に隠れるようにして歩くわたしと目が合うと気まずそうに視線をスマホに戻した。

 通り過ぎる。

「ふう」

 なおもぎゃーぎゃー喚くお母さん集団にわたしは声をあげた。

「ちょっと!!」

「あァ!?」

「あァ!? じゃねーよ! くそ馬鹿!」

「なんっ」

「うるさいって言ってんの。近所迷惑だよ」

 お姉さんはそこでぐっと喉を詰まらせると今更みたいに周囲を気にし始めた。わたしは思う。今のこの人にとって周囲はどう映るのだろう? タメダは未来人がどうとか言っていた。だったらこの人は過去――と考えたところで、べつに十年前でも二十年前でも住宅街の風景なんて変わらないかと思う。

 ふと赤ちゃんお母さんが言った。

「おんぶ」

「……は?」

「おんぶっ!」

「……」

 赤ちゃんお母さんはその場から一歩も動こうとしない。そりゃそうか? だって、今日歩き始めたばっかりだって言ってたもんね? 昼間あんだけ騒いでたんだから、疲れちゃうのも当たり前か。まだひくひくだし。

「わたしは無理だからね」

「誰もお前に頼まねーよ。ばあさんは……」

 おばあちゃんはふるふると首を振った。

 コミちゃんは一人前をずんずん歩く。ああ、先行っちゃうっ。

「コミちゃん。先行っちゃダメだよ」

「……」

 ぐるり。じっと見られる。やがておずおずと手を繋いできた。安心して溜息を吐いた。この溜息が久しぶりに、いや、実際大して久しぶりじゃないけど、感覚として遠い昔みたいに感じられる――久しぶりにお母さんと手を繋げた(とも違うけど)に、よるものなのか分からない。でもとにかくわたしは安堵している。ひとりで先行っちゃ危ないんだよ。コミちゃん。ね?

 こくり。

「はあ~っ。しゃあねえなあ~っ。あたしかよ。最悪」

「お母さ……お姉さんしかいないでしょ」

「はいはい。ほら。背中乗れよ」

 赤ちゃんお母さんがひくひくしながらお姉さんの背中に乗った。人差し指の第二関節のとこおしゃぶりしている。流石にお母さんにそんな癖はなかった。


 ともすれば、その姿は介抱されている酔っ払いにしか映らない。駅前とかだったらよく見かけるけど、住宅街だとどうかな……。まあ、家飲みしたばかりの女学生の酔っ払い集団に見えないこともないか。




「車は?」

 というお姉さんの言葉に一様に皆が顔を見合わせた。

 お姉さんはいつの間にかこの家族(?)のまとめ役となっている。

「コミは無理だよな」

 わたしの付けたあだ名が定着している。いや、あだ名ってか本名なんだけど。ん? 本名か?

「怪我してるしな」

「怪我してなくても無理でしょ」

「免許はあるぜ。ほら。お前の母親の財布」

 お母さんのお財布が、お母さんの顔した別人(同一人物?)に好きにされているのは些か気分の悪いものだったが、でもわたしたちはお母さんのお金がないとこの先どうにもできない。

「待って。わたしが管理する」

「……」

 お姉さんは一瞬何かを考える素振りを見せた。

 お財布を掲げたまんま。

 バチバチと、まるでわたしが喧嘩する前の再現みたく、わたしとお姉さんとの間で火花が走った。

 先に折れたのはお姉さんの方だ。

「ほらよ」


 そうして今に至る。


 子供にお金の管理を任せていいかどうか、いーやあたしらが信用されていないんだな、とか――

 あの時のお姉さんの心に葛藤があったどうかは知らない。けど、わたしはあの時お姉さんをちょっと信用できないなって思った。できないじゃない。しきれない。ちょっと格好いいなって思っていたけれど、未だわたしの心の中に、お母さんの顔した昔のお母さんに似てるだけの正体不明の何かであることは確かなんだ。

 お姉さんは「ばあさんは?」とは聞かなかった。車の運転ができるかどうかそのくらいの会話はわたしが学校いる間にしてたっておかしくない。するとコミちゃんに確認したのが変だってなるけど、会話の流れ的に冗談で聞いたとも取れる。

 わからない。

 わたしはお母さん集団が何であるかが分からない。


 そんなこんなで『じゃあお母さんのスマホ使って、周囲の一番近い銭湯行って、それからスーパー寄って帰ろう』ってことになった。コロコロも大きいスーパーなら売ってるだろうってことで。

 問題はこの四つ子みたいなお母さんらをどうするかだった。絶対に目を引く。応急処置として、コミちゃんは三つ編み、お姉さんはポニーテールにマスク、赤ちゃんお母さんはそのまんま、おばあちゃんは帽子被ってもらうってことでなんとかなった。

 全員マスクすればいいと最初思ったが、やってみたら怪しすぎたからやめた。

 おばあちゃんは歩くときけっこう姿勢悪い。猫背で。まるで本物のおばあさんみたいに。ここまでなってくると、まあ、注視されなければみんなが別人。

 だが。


「はあ」

 落ち着いたところで溜息を吐いた。

 問題はここからだ。

 銭湯に到着してしまった……。

 銭湯はごまかしきかない。


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