2-4

 翌朝。

 再び取調べ室に足を運んだ徳永は女――中里を改めて正面から見つめた。今日も外は雨であり、室内には三人分の呼吸音と空調が動く音だけが聞こえていた。

 徳永は改めて女を見つめる。昨日と変わらず女の顔は白を通り越して青ざめて見えた。冷徹な美しさをたたえた顔面はヒビ一つ入らない凍った湖面のようだった。

「おはようございます」

「……」

 変わらず女が声を発することはなかった。ここまでは予想した通りだった。

「さて、本日は改めてお話を伺います。まず始めに……あなたは五年前に配偶者を亡くしていますね?」

 静かに訊ねた徳永に女はようやく顔を上げて、自らの視界に徳永を入れた。彼女に美しい、という印象を与えている切れ長の涼しげな目元がきゅっと細まった。

「……っ、」

「お話をされる前に、あなたの名前と職業を教えてください。話はそれからです」

 声を出しかけた女に所定の手続きを踏まなければ先に進めない、と徳永が示せば、彼女は渋々、

「中里みすずです。更生施設の事務職員として働いていました……これでいいですか」

 と答えた。初めて耳にする中里の声はその名前の通り、鈴を転がすように耳に心地よいものだった。

「はい。ありがとうございます」

「それで、私の夫の話をしたということは、〈アンダーライン〉では、私が中里のために復讐をしたと考えているのですか?」

 訊ねる中里に徳永は首を縦に振った。

「ええ、そうです。復讐を果たされてさぞ気は晴れたことかと思いますが」

「……単純」

 ぼそり、とつぶやかれた言葉に徳永は苦笑しつつ、話を続けた。

「私たちは状況から推測するしかありません。五年前の事件、そして今回の被害者三名の身元をあわせて、単純に考えるとそうなります。あなたの感情までは証拠からわかりませんから」

 例えば、刃物による刺殺、暴力による撲殺といった場合は傷の多さや深さによって感情の動きを推し量ることはできる。しかし、今回は煉炭による殺人であり、彼女の殺意が高かったことはわかるが、それ以外はわからなかった。

「五年前、中里賢治さんはケーキと花束を持って帰る途中でした。あなたとの結婚記念日を大事にして、ご自身ができる精一杯のことをされる方だったんでしょう」

「……」

「あなたの気持ちはあなたにしかわかりませんから、私たちはこうして話を聞くことしかできません。その上でもう一度お訊ねしますが、中里賢治さんを殺害されたことに対する復讐をされたかったのですか」

 違うだろうな、と思いながら徳永は問いかけた。復讐などという単純な理由で動く女ではないというのが徳永の直感だ。そして徳永の予想通り、女は問いかけに対して「違います」と答えた。

「中里は復讐なんてことをこれっぽっちも望まないような人で、多分彼であれば、加害者三人を許すと思いましたから、私も一度は許そうと努めました」

 思ったよりも刑期が短いのは気になりましたけど、と女は乾いた笑いをこぼした。笑いは乾いていたはずなのに、部屋の湿度によってすぐに湿ってしまうような心地がした。女自身ひいては都市国家〈ヤシヲ〉の司法を蔑むような笑いだった。

「遺体を損なった挙句、遺棄したことも、本当は許せなかった。でも、彼がいつも『人は誰でも間違いを犯すのだから、更生の機会を奪ってはいけない。立ち直る権利は誰しもが持っているから』と言っていたことを思い出して、私はそれを守ろうと努力しました。突然いなくなった中里が私に残してくれた言葉だったから」

「人格者でいらしたんですね」

 徳永の確認に女は素直に首を縦に振り、疲れたような口調で言う。

「でも、中里がどれだけ子供たちの更生を信じていたとしても、簡単に彼らは裏切るんですね」

 女は夫亡き今、夫が信じていた少年更生をサポートしたいと更生施設の事務職員として働いていた。

「そうおっしゃる根拠があるんですか」

「ええ。少年、もしくは元少年の再犯率が高いことは、ご存じですよね?」

 再度更生施設に戻ってくる者も少なくない。再会を全く喜ぶことはできず、絶望にも似た虚無感に支配される、と中里は続けた。

「はい。でも、この被害者三人は更生施設を出たあとはまじめに働いていましたよね? それを再犯率が高いからと殺害するのは少し論理が飛躍していませんか?」

 徳永の言葉に女はふふ、と小さく笑った。この世のすべてを諦め、もう最後に笑うしかない、と考えているような寂しい笑いだった。

「……何か起きないとあなたたちは動けませんよね。兆候はあったんですよ」

 ――ってご存じですか。

 女は現在取締り対象として重点手配をかけている薬物の名前を挙げた。重点手配をかけている薬物の名前が一般市民の耳に入ることは普通ない。

「なぜそれの名前を?」

「あの三人はその薬物の取引に関わっていました。私たちは再犯兆候の管理もしますから、あなたたちよりも少しだけ耳が早いんです」

 更生施設を出たあとの数年は、定期的に更生施設の職員が接触することになっている。再犯の兆候管理をするためだった。そして、それは〈アンダーライン〉に協力するための仕組みではない。

「……つかんだ時点で通報していただければ、こちらで対処しましたのに」

「そうもいきませんから。私たちだって更生させた少年・元少年に再犯してほしいわけではありませんし、何より再犯率があまりに高いと補助金の打ち切りなど現実的な問題がいろいろ出てきます。私たちだって己の身は可愛いんです」

 女は疲れたように長く深いため息をついた。

「――私は、あの三人が再び罪を犯す道に何の抵抗もなく、足を踏み入れたことが許せなかった。私も夫も司法もあの三人を許したのに、その許しを得たことを、たった少しの金のためにあっさり投げ出してしまえることが許せませんでした」

「……」

「私たちの慈悲と司法上の償いは、あまりに彼らにとって無価値でしたが、それでも、蔑ろにされたことは、どうしても我慢できませんでした」

 女は淡々と血を吐くように言った。女の怒りはどうしようもないほど深かった。

 女の言葉は血の雨のように徳永と久家に降りそそぐ。記録を取っている久家の手元がわずかに震えていることに気づいて、徳永は唇をかみしめた。新人に聞かせるには酷い話だ。

「殺害方法に煉炭を選んだのはなぜですか」

「力では負けてしまう私が確実かつ一度に三人を殺すのに一番簡易だったからです。更生施設の職員なので、彼らに会うのは簡単でも殺すのは難しいですから。コーヒーに睡眠薬を入れて眠らせたあと、両手足の親指を縛って煉炭を焚きました」

 殺害された三人の両手足の親指は結束バンドで拘束されており、女の言葉と矛盾しなかった。たとえ睡眠薬が切れたとしても逃げられないようにするための措置であり、女が確実に三人を殺害したかったことがそこからもうかがえた。

 何はともあれ女が犯行に至った動機が明確になり、取調べの目的は達成された。

「私たちからは以上です。なにか言っておきたいことはありますか?」

「ひとつ、私からもうかがっていいでしょうか」

「なんでしょう」

 淡々と訊かれたことに答えていた女が徳永に問いかけた。

「もしあなたが私だったら、どうしましたか」

 ――もしも大切な人を殺した相手が罪を償ったあと、別の罪を犯そうとしていたら。

「相手を許せますか」

 重ねて訊ねられて徳永は返答に迷う。許せるか許せないかでいえば許せないだろう。だが、殺すほど許せないかと問われれば、それに対する答えは持ち合わせていなかった。

「答えてください」

 女は真っ直ぐ徳永を見つめて乞うた。

 切れ長の目がじっと徳永を見つめている。嘘やごまかしはすべて見透かされてしまいそうな視線だった。迷っていることにさえ罪悪感を抱いてしまうような鋭い眼光にたじろぐ。

「わ、たしは……」

 どう答えればこの場の正解なのか。頭の中が真っ白になるような感覚。いつしか手のひらにはじっとりと汗をかいていた。

 視界のすみに心配そうにこちらを見る久家が映る。しっかりしなければ、と徳永が思った瞬間、取調室にパン、パン、パンと三回、手を打つ音が響いた。

「――はい、そこまで」

 隣室に待機していたはずの松本が割って入っていた。いつの間に、と徳永は思う。

「……興覚めだわ」

 不満そうに漏らす女に松本はにっこりとほほ笑みかけた。

「これ以上は取調べに不要と判断したので、部隊長権限で現在をもって打ち切らせていただきます。それと、」

 松本は女をじっと見つめて言う。

「俺たちはすべての犯罪行為を許さない。俺があなただったとしても相手は殺さないし、死んだ方がマシだと思うくらいの償いをさせます」

「生きる価値がないとは思わないの」

 女の問いかけに松本はあっさりと答えた。

「思いますよ。ただ、死んだらそこでおしまいですからね。自分のしたことを一生後悔して、罪悪感に押しつぶされそうになりながら、償ってほしいですね」

 苦しむ期間は長い方がいいでしょう、と爽やかに言ってのける松本に、女以上に徳永と久家の顔色が悪くなる。表情こそにこやかだったが、松本の言葉は本気だと感じさせるものがあった。部屋の空調の温度は変わっていないはずなのに、背中を冷たい汗がつたっていく。

「もちろん、あなたにも。いくら犯罪者だったとはいえ、三人も殺している以上、どうなるかはわかっていますよね」

 いつしか場の主導権は松本が握っていた。女は松本のカウンターをものともせず、笑みさえ浮かべて言い切った。

「ええ、もとより覚悟の上です。でも私は後悔していませんし、これっぽっちも罪悪感なんて抱かない。生きながら罪に苦しむことは、きっとありません」

「絶対、ではないんですね」

 松本の指摘に女は笑った。今までで一番美しい、と形容するにふさわしい笑い方だった。

「ええ、ひとつ後悔するとしたら、死んでも中里とは同じ場所に行けないことくらいでしょうか」

 でも、いいんです、と言った女の目は澄んでいた。梅雨明けの空と同じくらい美しい彼女の瞳は、取調室のはめ殺しの窓の水滴をただ映していた。

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