刺【地獄堕ち】
虫食いの記憶を掘り起こすと、確か夕飯を食ったところまでは覚えている。
しかし、どうにもその先が思い出せない。九朗は歯で濾して息を吐いた。一体何を食わされたのやら、などとぼんやり危機感薄く考えて、そして吐いた分を取り戻そうとした。
その瞬間全身が総毛立つ。ガラクタの嘶きのような汚い音と共に九朗は嘔吐した。
臭いである。
『狐穴』の中に満ちていたのは、腐敗と汚物と薬品を混ぜて窯で煮込んだような、最低の悪臭だった。鼻と口を塞いでも全く意味を為さない、脳の内側にそのままへばり付いて粘度を増してゆくような──
九朗の目からとめどなく涙が落ちた。あまりの刺激臭に肺の中身は燃えるように痺れた。そのまま、更に少し胃液を零す。垂れた酸がずぅっと下に下に、落ちてゆく。
は、と正気を取り戻すと、まず九朗は自分の位置について考えた。焦って考えた。少なくとも此処は『狐穴』の中で間違いないだろう。上も下も暗闇に包まれて位置は判然としない。しかし、ここが底だとは思えない。
どうやら、何かに引っかかって奇跡的に中途にとどまっているようだった。不要な物などという曖昧な基準でものを放り込んでいたものだから、何処ぞで詰まったのだろう。
ゴミの分別くらいしやがれ、と憤りそうになって、そんな自分に少し笑う。頭を振るとぱらぱらと屑が落ちた。相変わらずの悪臭と汚れ、気分は最悪で絶体絶命。
しかしどうにも死ぬ気がしないのは、なに故か──
【おおん おおん】
九朗の思考を股裂きにして、はるか下から音が響いた。
獣の叫び。
狂獣が贄を求めているのだと、九朗は漫然と、しかし確信する。
真黒に塗りつぶされた足元の闇に視線を傾ければ、牙の並んだ口がぽっかり開いている。そんな荒唐無稽な幻覚が呼んだ怖気は稲光となって、背筋でジグザグと猛る。
九朗は臭い生唾を飲み込んだ。
そして深く、長く、身体に詰まった汚物のような停滞感を吹いた。
「僕はこの村に何をしに来た」
その声は、獣のものに対して小さく微かなものだった。自分自身に問えればそれで十二分だったからである。九朗という男は──この村に何をしに来たのか。
ひっそりと、九朗は口角を引き上げた。
ボタンが千切れて、遥か下へと落ちていった。シャツの裂ける音を何度か聞いた。
何かが刺さった左腕が熱く痛む。帰ることができたのならば、破傷風の検査は必須だ。などと、どこか気楽に九朗は穴を下っていた。いや──こんな非現実から脳を離さねば、やっていられなかったのかもしれない。
おおん、おおんという鳴き声は、一度聞こえたきり二度と聞こえる事はなかった。九朗は念のため壁に隈なく触れながら更に下へ、下へと降りてゆく。壁は木製だった。やはり人工のものらしい。
地獄へと近づきながら、九朗は只管に頭を回転させる。何かを考えていないと狂いが伝播する予感があった。
『狐穴』は不要な物を捨てる穴。この扱いを見るに、俺は不要と見なされたか。なんて、そこまで考えてつい笑う。ただ飯喰らいは、そりゃあ邪魔だろう。
夜目が効いてきて、なんとなく穴の中身が見えてきた。
板張りの壁に沁みついた黒っぽい沁みは、果たして単なる汚れなのだろうか。
上がった息を整えようとするだけで肺の中身が腐ってゆく。下へ向かえば向かうほど、悪臭は強くなっているように感ぜられた。すべての感覚に分厚いゼラチンの膜がかけられたみたいに、何もかもが判然としない。
喉が渇いていた。舌が縮んで、歯を撫ぜると不快な味がした。心臓の音が破裂して、それが千回、狭い頭で反響した。耳から脳味噌が零れるのではないかという異常な頭痛。しかし何やら寒くって、血の流れが遠のいてゆく。
そんな生き地獄が永遠のように続いて、どれだけの細胞が死しただろう。
永遠は絶たれた。
九朗は転げ落ちるようにして『狐穴』。
その最底に降り立った。
空間は思った通りに随分広かった。微かな音だって遠くまで反響する。長い食道を下った先の胃の底は、この世の不浄の全てを溜め込んだ蕾のように、醜く膨れていた。
床(地面なのかもしれない)には形も内容も様々に物が散乱していた。踏みつけると水っぽい感覚と共に、濁点を伴った汚らしい音が響く。
強すぎる悪臭は覇気のように漂って、肌の上で燻っていた。
しかし風は無い。
だからやはり、風音ではないのだ。
九朗は左腕を抑えたまま、汚物の海に足首まで突っ込んだ。今更汚れを厭う余裕はなかった。
帰るアテはある。だから今は、自分にできることを為すのみだった。
魂の律動を含有しない深い沼は、彼が歩むことを拒んだ。
たった一歩が果てしなく重く、遠い。目は霞み、鼓膜は残響に揺れるのみ。
悍ましい吐き気が、背骨の上で黒く燃えていた。
彼はその瞬間、生涯最も野生に近く、孤独に近かった。つまりは獣に狙われれば一溜りも無い。死の気配が、九朗の心臓から去ってはくれない。
九朗が『それ』に気づいたのは、十分ほど歩いた後だった。
もっとも彼にとっては、永遠に思えるほどの時間だっただろうが──
汚れた手で触れたのは木枠だった。
賽の目に組まれた木枠は、腕一本通すのが精いっぱいで、此処から何処へも行けはしない。
木枠は延々と続いていた。その長大さを呆然と眺めることしか出来なかった九朗には知り得ぬことであったけれども、それに果ては無く、終わりは完璧に壁と融合していた。つまりは城壁とも相違ない。
九朗は悟る。これは、牢だ。
篝火の最期の熱すら込めた息を吹き、手のひらで顔を覆った。
木枠に背中を預けて嗚呼と声を漏らす。
腐食の海の真ン中で、世の果てが超え得ぬ壁だと気づく。
見えた希望の入り口は、あるいは出口はハリボテで、何処へも行けはしない。
どうにも、そんな風だ。
九朗は空気を殴りつけるみたいに勢いよく両腕を放った。
その顔は、満足気にほころんでいた。
音が遠くで鳴っている。
朦朧とする頭の中で、無限の反響と共にその輪郭は融解し、言葉の意味は見えない。
けれど、それを何度も、味わうみたいに反芻して
理解する。
九朗さん、と。
天から垂れた蜘蛛の糸を何とか身体に結び付けると、九朗は欠片となった満身をもって叫んだ。
声に意味は無かった。けれども、その怒涛に意味を見た『狐穴』の入り口の彼女は、九朗を全力と共に引っ張り上げる。
九朗もまたそれに全力を以て応えた。
──────────・・・
目が眩む。
久方ぶりの光に神の存在を信じたくなる。
「九朗さん、」
けれども九朗にとっての勝利の女神であった女中は、おいおい泣いていた。
のほほんつるりと整っていた輪郭も、ゆらゆら揺らいで、今にも崩れ落ちそうだ。
窓から差し込むのは、月光を追い越した日の光だった。もう、昼頃になるらしい。
「申し訳ありません、申し訳ありません」
「……大丈夫。昨日飯を持ってきたのが貴女じゃなかった時に、僕が疑うべきだった」
血の色の月が昇った夜、離れに夕飯を持ってきたのは料理人の竹原だった。
感情を露わに泣きじゃくる女中とは対照的に、九朗の頭の中は冷えていた。離れの床に転がったまま、頭蓋の中は暗い懸念が小魚のように回遊していた。
竹原はまるで慣れている。
九朗は水責めに遭った。
感動の再開を果たし、あわや抱擁にまで至りそうな雰囲気を絹裂きに処したのは、無論と言うか悪臭だった。恐ろしい臭さに辟易した女中に、近くの小川に叩き込まれてから、着替えを持ってきた彼女と共に、こそこそと離れに戻る。
柔らかな日差しの当たる場所に腰を落ち着けて、二人は(ほう)と肩の力を抜いた。
傷の消毒と手当を受け、清潔な衣服に袖を通すと、しかし九朗は目尻を吊り上げ、長く息を吐いた。
まだ何も終わっていない。
おそらく最大の危機は脱した。だから彼がこの先考えるべきことは、ここからどう、生き残るのかという点だった。
九朗はちら、と女中に視線をやる。ひどく憔悴しているように見えた。どうにも、九朗が穴に放り込まれたことを自分の責だと考えているようだった。
むずがゆい心地だった。
命を助けられることは、九朗にとってはあまりにも久しいことであり、同時にそれは恥じるべきことだとも考えていた。彼は生来、無駄な高慢をブ厚く着重ねている。
だから九朗は白々しくも語る。
「助けてくれて……ありがとうございました。けれども貴女は仕事に戻りなさい。怪しまれてはいけないよ、さあ僕は大丈夫だから」
けれども女中は納得しないようで、何か、何か私にできることはと食い下がる。
ふと、盛大に腹が鳴った。
二人して瞼をぱちぱちさせた後、噴き出すように笑う。
女中が持ってきた握り飯を、ゆっくりと味わって、九朗は物陰に隠れた。
薄暗い影の中で、九朗は頬杖を突いて待ち続けた。今しがた命の危機に晒されていたというのに、随分思考は透明で、何事も真っ当に行くような青い心が静かに沈んでいた。物思いに耽るには十分すぎるほど、離れの中は穏やかだった。
『狐穴』の中身は随分と音が反響したから、ここは穴の中よりもずっと無音で満ちている。
九朗は瞳を閉じて闇を思い出す。
そして額に目を寄せると、やはり何かの気配がした。
街中を行く浮遊した人々とはまた異なった、足に重い土を被せた人々の悲しい律動が、彼の骨髄を微震させる。
押し入れの妖怪として過ごした間も、こんな風に集中してみたが、屋敷の中の気配は随分薄かった。ふわりと、微かに風に吹かれる程度である。
けれども離れには、随分と多く霊が縛り付けられている。
心の肌に刺さったまま抜け落ちないのはやはり、竹原の躊躇の薄さ。
そして『狐穴』の中で感じたあの視線は──
【我楽】
と、音をたて
離れの戸が開いた。
目頭を揉む。九朗は腰を持ち上げた。
「竹原くんだったかな」
若い料理人は激しく動揺していた。乱れた髪と服装は、彼がなりふり構わず走ってきた証拠であったし、その瞳は振り子のように忙しない。
握られた文化包丁も、ふらふらと所在ない様子だった。
竹中は額に手を当てた。そうして暫く首を振ったり頭を掻いたりしてから、だらりと両手を垂れ下げた。小さく、しかしはっきりと唇が動く。
「あなたを助けたのは、由理子だろう」
「ゆりこ?」
「……違うのか?」
「あ、いえはい、そうですゆりこさんです」
文化包丁が角度を取り戻そうとしたのを見て、九朗は諸手を振って肯定した。
女中の名は由理子と言うらしい。なかなか、古風だ。
竹原の表情には悔恨のようなものが見えた。歯は食いしばられ、悩まし気に歪む眉と湿り気ほどの涙を湛えた瞳に、正気を感じ取るお気楽な者はいないだろう。
九朗は身構えた。嫉妬心に満ちた男ほど醜いモノはない。
九朗の嘲りに近しい警戒は、彼の高慢さからなるものであった。高く脳天から伸びた鉄線は固く、彼の伸長を支えている。
しかしその腱を断ち切ったのは、竹原の強い意志だった。
若者は深く、腰を折り曲げた。
「恥を承知で頭を下げる。漢の約束をお願いしたい」
「──は?」
竹原の語った内容は……彼が幼い頃から由理子に懸想していたことに起因していて
同時にその心を諦めようとするものだった。
滝のように流れ込む激情を受け止める九朗は、しかし恋を知らない。なに故かと問われれば、彼はシニカルに笑って長ったらしい持論を語ることだろう。
だから九朗は、竹原がどれだけあの女中を好いていようが、どうでも良い。共感し得ないものに対して彼が何かを犠牲にする意味は無い。どうでも良い、
どうでも良い、はずなのだが。
なに故か、気が傾いた九朗は二つ条件を出した。
一つ目は、自分を大奥様ともう一度会わせる事。そしてそのために一つ、伝言をすることだった。
竹原はそれに強く反対したが、九朗がそれを通さねば『漢の約束』も守らないと断言すると、もう一度だけ反対してから、しぶしぶと頷いた。
満足げに頷く九朗は、歌い上げるみたいに二つ目の条件を述べた。何事も上手く行くという爽快な心地が九朗の舌を滑らかに回した。
これこそが本懐、九朗が竹原に求めたい、彼なりの最良だった──
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