4ー20 松浦武四郎・1854年(マイナス171年)
水野忠邦が断行した『天保の改革』が潰えてから、10年の時が経っていた。時代は激動期に突入している。その萌芽は忠邦の時代から存在した。天保の飢饉による大規模な百姓一揆、大塩平八郎が起こした幕府への抵抗、江戸湾を侵そうとしたアメリカ船・モリソン号事件、そして、隣国の清国で勃発したアヘン戦争――。忠邦が幕政を取り仕切っていた当時から、『清国の鎖国を破ったイギリスは、次は日本に牙を剥く』という情報が流れていた。軍事力を衰退させた日本に鎖国を続けさせるほど、世界は寛容ではない。1853年、ペリーの来航によって幕藩体制の崩壊は決定的になった。
*
京都。冷たい隙間風が吹き込む場末の宿屋の一室――。
明かりも点さぬ部屋の中では、2人の男が身じろぎもせずに向かい合っていた。間に置いた火鉢の炭が、彼らの顔を照らし出している。競うように鳴いていた野の虫の季節も、過ぎ去った。
深夜の密談に呼び出された吉田松陰は、自分の耳を疑った。
「開国……⁉ まさか、あなたからその言葉を聞くとは……」
松浦武四郎は、驚きをあらわにした松蔭を諭した。
「声が大きい。私のまわりには幕府の密偵がうろついている。これから語ることは、絶対に知られてはならぬ皇室の秘密なのだ」
松蔭は、まだ訳が分からずにいた。なぜ自分が武四郎に呼びつけられたのか……。尊皇攘夷派の最先鋒といわれる武四郎が、なぜ『開国を目指す』と言ったのか……。沈着冷静にして豪胆と評価されている松蔭でも、平常心を失うことはある。
「し、しかし、『鎖国を解く』などと……」
確かに武四郎は、『国を開くべき時を迎えた』と断言した。
黒船来襲が幕府の土台を揺るがした翌年、武四郎は水戸藩の密使として京都での水面下の極秘工作を束ねていた。幕府へ攘夷を迫るために、朝廷からのバックアップを勝ち取るべく、根回しに奔走していたのだ。後に北海道の名づけ親となった武四郎は、日本屈指の北方探検家だったが、同時に熱心な勤皇活動家でもあった。
一方の松蔭は、黒船への密航が失敗して、表向きは萩の獄中で謹慎処分を受けていることになっている。だが実際は長州藩に黙認され、京都での地下活動を続けていた。長州藩は松蔭の企てを壮挙とみなし、半ば公然と面倒を見ていたのだ。武四郎より12才も若い松蔭ではあったが、志を同じくする仲間として心を許していたのだ。松蔭は、その武四郎に裏切られたような気になっていた。
しかし武四郎の目は真剣だ。
「世の中には、この歳になってようやく分かることもある。おぬしのような純粋な若者には、すぐには呑み込めないだろうがな」
「あなたを師と考えていましたのに……」
「昨日までのことは、昨日までのこと。時は休みなく過ぎ去っていく。この世のあらゆる物が時とともに動く。そして、世界はあまりに広い……。おまえとて、今の日本が戦で外国に勝てるとは思うまい? 大海を越えてきた船の背後には、想像もつかぬ軍事力が控えておる。神風が味方しても、黒船は沈められんかもしれぬ」
「それは、そうですが……」
「おまえになら本当の〝攘夷〟の意味が分かるはずだ。だからこうして、本心を打ち明けている。どうか、虚心に聞いてほしい」
武四郎の目には、同志として信ずるに足る光があった。
「是非はともかく、お話だけは……」
武四郎は緊張を解いて、火鉢に両手をかざした。
「言うまでもなく、アメリカ、イギリス、ロシアといった大国は今、わが国を植民地化するべく爪を研いでいる。日本が亀のように首を引っ込めているだけで諦めると思うか? 生娘同然の日本など、はらわたをほじり出されてあの世に送られる。清国と同様、悲惨な生き地獄に陥れられる。悲劇を防げるのは、力だけだ。『日本には迂闊に手が出せない』と信じ込ませることが肝心なのだ。攘夷の本筋は、外国の脅しに屈せず、自らのことは自らで決め、貫き通すことだ。鎖国を守り続けた末に外国に攻め落とされたのでは、何のための攘夷だ? 国を開いても、外国の不当な圧力を跳ね返す力を持てるなら、日本の将来は安泰だ。天皇の下に国民が一丸となり、独立国としての国力を育てることこそが、真の攘夷だ。そのためには、幕府はもはや不要。腰抜けの幕府が本気で外国と戦おうとすれば、かえって奴らの軍隊を呼び込む。だから我々がなすべきは、幕府の打倒だ。藩という狭い囲いを壊し、外国に対抗できる国力を養うことだ。国民が一致団結してこそ、初めて攘夷は貫ける」
松蔭は武四郎が命を賭けていることを悟った。松蔭も元来は軍学者であり、武四郎の理論は理解できる。黒船密航という暴挙を企てたのも、外国の実情を知りたい一心からだった。
「私に何をしろと……? 表向きは獄中の身、どれほどのお役に立てるのやら……」
「金(かね)が要る。これまで我々が見たことも――いや、考えたことすらないような大金だ」
松蔭はまたしても虚を突かれた。質素この上ない生活を送っている武四郎にはふさわしくない言葉だった。
「金……ですか?」
「幕府を倒せても、混乱に乗じて外国に介入されては元も子もない。奴らの邪気をくじくには、日本にあなどりがたい軍事力があると知らしめなければならない。だから幕府は、圧倒的な力で、速やかに倒す。戦いが長引けば長引くほど、日本は外国の脅威にさらされる。外国に一目置かせる軍事力を調達できるのは、今は長州のみ。松蔭殿には、来るべき決戦に備えての根回しをお願いしたい」
「もちろん、力の及ぶかぎり……」
「しかし、軍事力の増強には金が要る。実は、志のために命を捨てる覚悟がある、豪胆な商人を探していてな」
何を聞いても驚くまいと身構えていた松蔭も、首をかしげた。
「今度は商人、ですか? どうも話についていけません……」
「まあ、あの秘密を知らないお主には、確かに寝耳に水の話であろう。実は、蝦夷地から運び出したい物がある」
「密貿易で軍資金を?」
「そうではない。国後という島に大量の砂金が隠されているのだ」
「砂金……ですと?」
「私は、この目で確かめた。アイヌたちが長い時をかけて貯えたその黄金は、今は正式に朝廷の財産だ。だが、あまりに量が多く、幕府の目を盗んで京に運ぶことができないでいる」
「それを、長州の商人に運ばせようと⁉」
「彼らは蝦夷地を航海しても怪しまれない」
中世の末期から始まった『北国廻船』、またの名を『北前航路』は、東北各地から日本海を回って下関を通過し、大阪や兵庫などへ物資を運ぶ海上ルートだ。蝦夷地での経済活動が活発になった今、その北端は千島諸島にまでのびている。北前航路を押さえる商人には、伝統的に長州出身者が多かった。ようやく納得できた松蔭は、つぎつぎにわき上がってくる疑問に頭の中を占領された。
「しかし、どうして朝廷にそんな財産があると知ったのですか?」
武四郎は、事実を隠すつもりはなかった。皇室から『黄金運搬の手立てを得るためには全てを明かしても構わない』という許可も取ってある。『黄金が手に入り次第、千島をアイヌの独立国として認める』という約束も取りつけた。それが単なる口約束にすぎないことなど、皇室を信奉する武四郎に見抜けるはずはなかったが……。
武四郎は、己れの信念にしたがって真実を語ろうとしていた。
「私は18歳の頃、水野忠邦の屋敷に奉公したことがある。忠邦は生涯をかけて、黄金のありかを探索していた。それに気づいた私は忠邦の集めた資料を盗み見、屋敷を追い出された。しかしそれ以後、私の人生の目的は蝦夷地の黄金を求めることになった――」
武四郎は、半生をかけて己れの目と足で調べた事実を語った。田沼時代に、幕府と朝廷が手を結んでアイヌ民族に千島を売ったこと。一橋のクーデターの後、幕府と松前藩が共謀し、国後のアイヌを惨殺して条約の消滅を策したこと。幕府がその松前藩から領地を没収して、黄金を捜し出そうと全力を上げたこと。シーボルトが、黄金探索のために送り込まれたロシアの密偵であったこと――。
武四郎は蝦夷地探索へ旅立つ前に、水戸藩を介して朝廷に接近し、信頼を得ることに成功した。そして天皇じきじきに、アイヌの黄金を探して運び出すよう命じられたのだ。それ以後武四郎は、時間をかけて探検家の肩書きを身に付けていった。本格的な国後調査に備え、幕府に疑いを抱かせないための準備だ。そして念願の蝦夷の大地を踏んだ武四郎はアイヌたちと心を通わせる間柄となり、伝承物語にも千島を買い取った事実が語り継がれていると知った。
松蔭は、事の壮大さに我を失っていた。
「ですが、なぜ長州に……? どうして水戸藩ではなく……?」
「私は長州の軍事力と君の将来を買っている。黒船に密航を企てるとは痛快じゃないか。君をかばう長州藩も肝が座っておる。君の訴えとあらば、藩主様も耳を貸してくださるであろう。なるほど、この京都には名だたる豪傑どもが首を揃えておる。だが彼らは皆、幕府に見張られる身。蝦夷地の黄金は、50年もの長きにわたって幕府が求め続けてきた財宝だ。秘密が漏れれば黄金は奪われ、開国を封じる軍資金に化ける。水戸藩もまた、幕府には快く思われていない。黄金運搬を試みれば、内通者に秘密を暴かれる。だが長州には、北前航路を牛耳る商人がいる。常に蝦夷地と行き来している彼らなら、幕府の目をかいくぐって黄金を京に運ぶこともできよう」
ようやく武四郎の要求を把握した松蔭は、力強くうなずいた。
「全力を尽くしましょう。しかし――」
「しかし、なんだ?」
「私が力を尽くすのは、皇室の財産を守るため。開国を是とするかどうかには、この場ではとうてい結論が出せませぬ……」
それは松蔭の本心から絞りだされた、正直な言葉だった。
「ゆっくりと考えるがいい。私も、何10年という放浪を経てようやく見つけた答えだ。無理強いする気などない」
「ありがとうございます。では、商人たちに当たりましょう」
「だが、くれぐれも事の要点は伏せるように。黄金の件が幕府や松前藩に知られれば、全ては裏目に出る。この計画にとって、秘密を守り通すことはもっとも重要な武器なのだ。なにしろ、国後は日本とは別世界だ。アイヌたちは獣として扱われ、幕府の御用商人どもは神か鬼のごとく暴虐の限りを尽くしておる。奴らの裏をかくのは、並大抵の者にはできん。その点、くれぐれもよろしく頼むぞ」
「命知らずは、この京にもごまんとおります」
武四郎も、ようやく重荷を降ろすことができたとでも言うように長い溜め息をもらした。
「あの黄金が朝廷に渡れば、日本はこの先何100年も他国の脅威に怯えずにすむ。幕府が消滅しても、だ。長年虐げられてきたアイヌたちも、千島で穏やかに暮らしていけるに違いない……」
武四郎の柔和な表情を見た松蔭は、ふと思った。武四郎にとって本当に大切なのは、はるか北方で踏みにじられているアイヌたちの幸せなのではないか、と……。
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