2ー3 札幌・2025年(現在)

 中西は、ゲーリングと列像の関係を語るレネを手で制した。素早く立ち上がると、猫のようなしなやかさでドアに近づく。廊下に潜む人間の気配を確認すると――いきなりドアを引いた。

 ドアの鍵は、すでにそこに立っていた男に外されていた。

 コルトが、目を丸くする宮下外事課長の額に押し当てられる。中西は、廊下で盗み聞きをしていた姿勢のままの宮下に笑いかけた。

「警察を呼ぶか?」

 目を寄せてじっと銃を見つめる宮下は、苦しまぎれにつぶやく。

「コルトか。正規の装備ではないな。所持許可はあるんだろうね」

「撃つ許可も」中西は宮下の衿をつかんで部屋に引きずり込み、鍵をおろす。「誰の指示だ?」

 宮下はソファーに座った野村を見た。正面に腰を下ろす。

「今度はジェームズ・ボンドか? 君には会うたびに驚かされる」

 野村も宮下の登場に驚きを隠せなかった。

「超エリート官僚が真っ昼間に覗き――ってのも、普通じゃない」

 宮下は、手にしていたキャッシュカードをポケットに戻した。

「昔、コソ泥から教えられた手口だが、こんな古いビルになら使えるかと思ってね。警備にはもう少し神経を配るべきではないか?」

 野村は言った。

「東京に戻ったのでは?」

「帰ったとたん、君らの調査を指示されてね」

 中西は宮下の背後に立った。コルトはまだ手の中にある。

「山積みの仕事を放り出して長期休暇を取ってまで、か? 大臣から『干渉するな』と命令されたはずだ。今のあなたは、ただの民間人だ。殴られても仲間は来ない。殺されれば、死体も出ない」

 宮下は中西を見ようともせずに、動揺を隠せないまま応えた。

「公安の情報が筒抜けか? なぜ、私を調べた?」

「あなたが命令を無視して野村を嗅ぎ回っていたことは報告されていた。だからあえて、1つだけ足跡を残した。美術専門の古本屋に、直接資料を送らせたんだ」

 宮下は、野村とセクフィール家が夷酋列像を調べ始めたことをいち早くつかんでいた。DGSIとの連絡で列像盗難に関わり、しかも発信機を埋め込む協力までさせられている。市内の車両火災のもみ消しを強いられ、各国の情報機関が不穏な動きを見せているという報告も受けた。

 尋常な事態ではない。

 だがパズルの絵柄がうっすらと見え始めた途端、事件は自衛隊に奪われた。官邸から『手を出すな』と命じられたところで放ってはおけない。何が起きているか把握することは、当然の職務だ。『官僚の暴走だ』と非難されようとも、政治家の無能によって国が被害を受けるよりも損失は少ない。自分の仕事は時に政治判断よりも優先されるという自負もある。

 独断専行を決意した宮下は、突破口を夷酋列像に求めた。腐れ縁のある興信所を使って、その時期の美術や文献に詳しい古本屋を集中的に監視したのだ。そのうちの1軒から『札幌に文献を送った』という情報を得た宮下は、10分後に休暇届けを書き、4時間後にはこの部屋の前に立っていた。

 宮下がゆっくりと振り返った。

「私をおびき寄せる罠だったのか……。なぜそこまで?」

「覚悟を見極めたかった。個人的な好奇心なら、政府の事情を理解してもらう必要がある」

「私もその〝事情〟を評価する立場だ。なぜ外された?」

「あなたではない。警察を外したんだ」

「なぜ?」

「理由を知ることさえ、許されていない」

「そんなに秘密にしたいのか? だが、一介の警官にさえ、この部屋のドアは開けられた。君たちを狙う連中も、すぐに探り出す」

「入れた者が出られるとは限らない。古本屋には目を光らせている。通過させるのが危険な者は排除する。あなたがもう少し手際よく行動していれば、ロシアの手先だと見なされて〝処分〟された」

 宮下は寂しげに唇を歪めた。

「不様な素人だから見逃してもらえたわけか?」

 中西はコルトをホルスターに収めた。

「あなたにとってはこれが事件の真相で、その先は存在しない」

 宮下は野村に目を戻した。

「ここで何をしている?」

 野村は中西の顔色をうかがう。

 答えたのは中西だった。

「命令に従えないなら、公人としての未来はない。最悪の場合、人としての未来も失う。好奇心の代償には高すぎませんか?」

 不意に立ち上がった宮下は冷静に、しかし鋭い目で中西を見つめた。そして、肩を落として自嘲するようにつぶやく。

「私は、プロのつもりだった……。国の安全を守るためには、命令に逆らってでも真相を探るべきだと……。ここは、別の世界だな」

 ソファーを離れた宮下は自らドアを開け、部屋を出ていった。

 中西がドアの鍵をかけ直す。

 野村はソファーに戻った中西に言った。

「望みの物を手に入れたな……。警察の偉いさんを鼻で――いや、拳銃であしらうとは……」

 中西は野村の言葉に含まれた棘を無視した。

「宮下は必ず来ると思っていた。キャリアにしては、珍しく骨があるからな。長官か大臣の椅子を狙える逸材だと、誰もが認めている。それに、5、6年前の交通事故で家族全員を失っている。他に係累や愛人なども確認されていない。SVRがコントロールしようとしても、つけ入る隙がない。我が国にとって欠かせない人材だ」

 レネが首をかしげた。

「それなら、ああまで言わなくても……」

「だからこそ、巻き込めない。警官が活躍できる状況は終わった。私が呼ばれたのは、兵士が必要だからだ。宮下がつきまとえば、SVRに消される恐れもある。日本は彼を失えない」そして中西は野村を見た。「おまえも肝に命じてくれ。部下がすでにSVRの協力者を2人、処理した。さっき話した古本屋を探っていたんだがな」

「協力者……? 殺したのか⁉」

「不幸な〝事故〟は起きるものだ」

「相手は日本人か⁉」

「国籍は問題ではない。事態はそういう段階にある。この部屋は命を的にした情報戦の最前線だ。敵を法で裁いていられるほど甘くない。クレムリンは本気だ。獲物は、列像とおまえの命。忘れるな」

 野村は黙るしかなかった。

 中西は穏やかにほほえんだ。

「さあレネ、先を続けてくれ」

 レネはうなずいた。

「どこまで話したかしら……」

「『ゲーリング生け捕り計画』の失敗。立案者は誰だったんだ?」

「レックスの提案は、ドイツ軍幹部の拉致でした。ナチスの士気を削げるなら、相手は誰でも良かったのです。そのアイデアを聞いた私のお爺さまが、セクフィールの手にあった列像を餌にして大物を釣ることを思いつきました。協議の結果、ゲーリングが選ばれたのです。おびき出せるのは『黄金の砦』の伝説を知っている人物に限られますから。レックスは、列像の存在すら知りませんでした」

「その伝説はどれほど広まっていたんだ?」

「真の権力者なら、知らない者はいません。ヒトラーも含めて。でもヒトラーは大物すぎます。その点、ゲーリングには格好の条件が揃っていたのです。芸術にもお金に敏感で、人一倍の物欲があります。ヒトラーへの対抗意識も強く、単独行動を誘うことが容易です。『戦いの神』と崇められるゲーリングを人質にできれば、軍は戦闘意欲を失い、戦争は速やかに終決するでしょう。それがレックスの狙いでした。一方、お爺さまは、ゲーリングと絶滅収容所のユダヤ人とを交換する気でいました。拒否されれば『英国で晒し者にする』というレックスの案を採用する計画でした。たかが人間1人、砲弾の木箱に詰めて列車に放りこめば、ドイツ軍がカレーまで運んでくれますから」

 野村がうめいた。

「日本人でさえろくに知らない列像が、第二次大戦中のヨーロッパでそんな波乱を巻き起こしていたとはな……。で、君のお爺さんはどこから列像を手に入れたんだ?」

 レネは平然と言った。

「ウラジミール・イリイッチ・ウリャーノフ――通称レーニンから」

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