イエナ

 イエナは国王の娘として生まれたが、母はそれほど身分のある女性ではなかった。当時国王と王妃の間には子ができず、王妃に代わって子を産むために側室となったのが、イエナの母だった。彼女は、世継ぎとなる男児を生むことを期待されたが、最初に生まれたのは娘のイエナだった。周囲の、そして、母の落胆は甚だしく、彼女は娘を遠ざけるようになった。母は、ほとんどイエナの相手はしなかった。自らの「失敗」を直視できるほど母は強くはなかったのかもしれない。代わりにイエナの世話をしたのは、乳母のマレイドだった。マレイドはイエナの母と同じ時期に子を身ごもり、そして、死産した。最初は自分の子の身代わりにするようで、申し訳ないと乳母の役を断ったマレイドだったが、イエナが一人の部屋で泣いているのを見て、彼女の養育を引き受けた。

 イエナが生まれて一年ほどたった頃、イエナの母が男の子を生んだ。母は重責から解放され、二人の子どもたちを慈しむようになった。相変わらずマレイドはイエナの乳母として、イエナのそばにいたが、少しずつ離れている時間が長くなっていった。

 そんな時に、小さな事件が起きた。


 子どもたちの部屋で、母が息子を寝かしつけていると、昼寝から目覚めたイエナが壁を伝って歩き始めていた。母は息子に夢中で気が付かない。なんとか手を放したイエナは、よろよろと母に向かって歩き出し、転んで頭を打った。

 その瞬間、パキパキと音を立てて、イエナを中心に床が凍り始めた。空気中や床に僅かに含まれる水分が急激に凝縮し、一部は霧になり、一部は凍って霜となって床に降り積もり固まっていく。きれいな六角形の模様がイエナの足元から広がった。

 突然、足元に冷気を感じて、驚いた母が振り向くと、そこには、床から生えた氷の樹木と霧に包まれて、転んだままきょとんとしている娘の姿があった。氷の模様はどんどん周囲に広がっていく。そして、今まさに、イエナの弟のベッドに届こうしていていた。蒼白になった母は慌てて、息子を抱き上げて悲鳴をあげた。

「やめて!バケモノ!」

 母の悲鳴に驚いた弟が泣きだす。そして、それにつられてイエナも泣きだした。すると泣き声に呼応して周囲の氷柱がさらに成長し、鋭い、つらら状になってイエナの周りを取り囲んでいった。つららはさらに暗く濃い霧を生みだしていく。子どもの泣き声と母の悲鳴を聞きつけたマレイドが部屋に飛び込んだ時には、イエナは氷と黒い霧の向こうに包まれ、誰にも助けられない状態になっていた。

 マレイドは狂乱状態の母と息子を医師に託すと、すぐに魔法使いたちを呼んだ。彼らは国王に仕える国内でも随一の腕を持つ魔法使いで、城の中に研究室として部屋を与えられていた。呼ばれてきた魔法使いたちは、子どもたちの部屋を見ると言葉を失った。

「こ、これは」

「早くこの氷を何とかしてください!向こうにイエナ様が!」

 マレイドがせっつくのを聞いているのか聞いていないのか、魔法使いたちは興味深そうに氷の壁に取り付いていた。

「なんということだ!これをやったのは、イエナ様なのですか?」

「そんなことはどうでもいいのです!早くイエナ様を助けてください!イエナ様が凍えて病気になったら、あなたのせいですよ!」

 つかみかからんばかりに迫るマレイドの気迫に負けて火の魔法を使う魔法使いが、氷を溶かし、霧をかき消した。

「イエナ様!」

 泣きじゃくるイエナをマレイドが力いっぱい抱きしめた。

「マレイド殿!まだいけません!」

 魔法使いが制止するが、すでに遅かった。イエナが触れた腕から、マレイドにも氷が付き始めている。

「マレイド殿!イエナ様を離してください!危険です!!」

「大丈夫です」

 マレイドは静かに、しかし有無を言わせぬ口調で魔法使いたちを黙らせた。そして、冷え切った手で、イエナの頭をなでた。

「イエナ様、もう大丈夫ですよ。びっくりしましたね」

「……まれいど」

「はい。マレイドはここにおりますよ」

「ごめんなさい」

「謝ることはないのですよ。わざとじゃないことは、このマレイドしっかりわかっていますからね」

 イエナの背をポンポンとたたく。イエナが泣き止み、落ち着き始めると、残った氷も靄も消えていき、部屋の空気は普段通りの暖かさに戻っていた。



 この事件の後、イエナの元に、魔法使いたちが出入りするようになった。彼らはしきりに少女を調べ、イエナを次の守護者候補の一人に入れることを決めた。イエナの母は大変喜んだが、マレイドは複雑な気持ちだった。守護者候補となることの意味、その将来と、行きつく先を考えると、そのような未来が来ないことを願ってしまうのだ。

 そして、イエナがある程度成長すると、守護者候補としての勉強が始まった。それと同時に魔法を制御する訓練も行った。

 それでも、イエナの魔法を暴走させる癖は治らなかった。何かの拍子に、たびたび周囲のものや人までも凍り付かせた。イエナの母は、イエナを城のはずれの一人部屋に移し、息子や他の使用人から遠ざけた。イエナはほとんど部屋から出ることはなくなった。唯一乳母だけは、イエナのそばで、彼女の話し相手となっていた。


「イエナがきちんと、魔法を操れるようになって、立派な守護者になったら、お母さまは……、イエナを、褒めてくださるかしら」

 いつものように 暴走してしまった魔法を鎮めようと、イエナを抱きしめるマレイドの腕の中、イエナはぽつりとつぶやいた。イエナは少し色んなこと理解できる年齢になっていた。守護者となるための勉強も進み、魔法の操る訓練のため毎日城の魔法使いに来てもらっている。

 しかし、暴走することは止められずにいた。彼女が魔法を暴走させるたびに、マレイドは暖かいミルクの入ったカップと毛布をもって駆け付け、真冬よりもさらに凍える部屋に、イエナを助けに現れる。そして、魔法が静まるまで、自分が凍り付くのも気にせず、彼女をあやし続けるのだった。

「イエナ様……」

 マレイドは彼女の疑問に答えることはできなかった。

「イエナはね、いっぱいお勉強して、立派に守護者のお役目を果たすのよ」

 イエナはぼんやりと虚空を見ながら続ける。暗い色の靄の中に、吐き出した白い息が混ざっていく。息は瞬時に空中で凍り、きらきらと光っていた。

「そうしたら、きっとお母さまはイエナを認めて、また、いい子ねって頭を撫でてくださるわ」

 乳母はただイエナを抱きしめて撫でてやることしかできない。

「イエナ様、お寒くはないですか?」

「大丈夫、マレイドがいるもの」

 乳母が差し出したミルクからは、まだ暖かい湯気が登っている。口を付けるとふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。少しだけ、気温があがり、あたりの氷柱は溶け始めていた。

「マレイドは、大丈夫なの?」

「わたしも、イエナ様を抱きしめているので、暖かいです」

 イエナが小さくあくびをした。魔法の暴走がおさまってきた合図である。小さな少女は乳母の胸に頭をもたせかけた。重くて仕方がないという風である。

「いつまでたっても甘えん坊さんですねぇ」

 愛しくてたまらないというように、イエナの頭を撫でながら、マレイドはふと窓を見上げた。

「イエナ様、見てください。とても綺麗ですよ」

 イエナは眠たげな目をそちらにゆっくり向けた。

「わあ。きれいねえ」

 窓についていた霜が溶け、小さな丸い水玉になっていた。それぞれが陽光を取り込んで、色とりどりに輝いている。すぐ外は小さな庭のようになっている。とは言っても、たいして整備がされず、野生の花が好き勝手に生えているだけの空間だ。今その花々が窓の水滴に逆さに映っている。彩り豊かに輝く水滴を二人で眺めていた。この穏やかな時間がずっと続いてくれますようにと、マレイドは叶わぬ願いを心に留めた。

 どこからか、人の足音が近づいてきていた。イエナの魔法の暴走に気づいた魔法使いたちが対処に来たのだろう。マレイドには、その足音が不穏なものを連れてくる足音に感じられた。自分が、この子を産んでいたら、もっと違う幸せを与えてあげられたのだろうか。何度も考える意味のない後悔が浮かんでいた。


      * * *


 ダーナは、執務室で向い合せに座ったディアミドに、調べてきたイエナ王女の来歴を語っていた。

「そして、当時の守護者が亡くなった。その時イエナは、六歳だったの。さすがに、守護者とするには幼すぎるという意見も出たみたいね。でも、当時は魔法の使える王族があまりいなくて、イエナ以外に適正のある人間がいなかったのよ。……何、その顔」

 ダーナが手元の資料から目を上げると、そこには目を真っ赤にしたディアミドがいた。

「泣かなくても、イエナの話はもう過去のことよ」

「泣いてなど!」

 と言いつつ、ディアミドは目元をぬぐう。

「ただ、悔しくてなりません。どんな理由があろうとも、子どもは守られるべきなのです」

「そう……」

 ダーナはイエナの肖像に視線を落とす。今のダーナよりさらに幼い顔立ちで、まっすぐ前を見ている。

「あなたは、もし、目の前でこの子が魔法を暴走させても同じように言うのでしょうね」

「無論です!」

 ディアミドは言い切った。

「今ならこのオーエン殿にいただいた剣で、このディアミドが、イエナ様もマレイド殿も、まとめて氷の檻から救い出すこともできます。本当に無念です」

 本当に心から残念そうに、顔をゆがめる。

 氷の檻。イエナはまだそこに閉じ込められているのだろう。亡くなってから何年も経っているのに、彼女は一人、そこから出られずにいる。

「その後、三年ほど、イエナは守護者としての役目を果たしたわ」

 一度塔に入れば、守護者は二度と外の者と会うことはできない。当時はこの部屋から出ることさえ許されなかった。ディアミドはふと思い当たることがあった。

「そういえば、この部屋の扉には閂が付いていましたね」

「ああ、外に出るなって意味でしょ?知っているわよ。だからなるべくここにいるじゃない」

 転移魔法をぽんぽん使ってしまうダーナの前では物理的な鍵など、何の意味もなさないようだ。

「そんなことは置いておいて」

 少し痛いところをつかれたダーナが咳払いをして話を戻す。

「守護者が亡くなる時、どうなるかは知っている?」

「いえ、お恥ずかしながら、守護者の存在自体もここに来て知ったものですので」

「そうね、関係のない人はそんなものよ」

 そして、机の資料の中から、一束の綴りを取り出し、ディアミドに渡す。

「これは?」

「私がまとめた、過去の守護者の記録よ」

 ディアミドは礼を取って受け取り、数枚ぱらりとめくった。そこには一ページに一人分ずつ、彼らの経歴が綺麗にまとめられていた。ダーナはディアミドがひらいたページの最後の方の囲みを指した。そこには、その守護者が亡くなった時の状況が記されていた。

『結界魔法が弱る。自身を守る結界を呪いによって破られ、絶命。床に呪いの痕跡を残すのみ。引継ぎは正常に完了』

 淡々とした文面だった。苦しそうにダーナに視線を戻すディアミドに、彼女は答えた。

「この、『呪いの痕跡を残すのみ』というのは、死体も残っていないという意味よ」

 この書を書き記した本人は、その文字列と同じように淡々と話す。

「守護者の最期はだいたい同じなの。魔法を使うにはまず、魔力を使うわ。使った魔力は、ある程度時間をかければ戻るものだけれど、守護者のように結界魔法を使い続けるとそうもいかないの。これだけの魔法を使い続ければ、戻るよりも減っていく方が早い。そしていつか、魔力が尽きる時が来る。そうすると結界を保つことができない」

 ダーナの瞳には何の感情も映らない。ただ事実を語っているだけに過ぎないという風だ。彼女は、自身も同じ『守護者』であることを理解しているのだろうか。

「守護者の結界はいくつかに分かれるの。一つはまず、この国自体を覆っている大きな結界。そして、王族を守るための結界。最後に、自身を守るための結界。魔力が足りなくなって最初に壊れるのはこの三つ目の結界。そういうふうに、設計されているの。だから最初に守護者が呪いに狙われる。そして、守護者が完全に絶命するまでの間に次の守護者への引継ぎが行われるの。前の守護者がすべての結界を途切れさせる前に、新しい守護者が結界を結びきれば、引継ぎ完了と言えるわね。……あなたには、すこしつらい話だったのかしら」

「……いえ」

 また、ディアミドが何かに堪える顔をしていた。ダーナには、その感情が理解できない。ディアミドは守護者ではないから、彼自身には全く関係のないはずの話だ。それなのに、自分の話を聞くように辛そうなのはどうしてなのか。不思議でたまらなかった。気にはなったが、今はディアミドの知識を増やすことを優先すべきだ。ダーナの理解できない感情も理解するこの男であれば、何か打開策を思いつけるかもしれない。ダーナは話を続ける。

「呪いに襲われた守護者の中には、自身も呪いとなってしまう場合があるの。死ぬ間際の強い感情を核に、新しい呪いとして、周囲のすべてに危害を与える存在になる。それが呪生よ」

 その呪いの恐怖を遠ざけるために、守護者たちの墓は島のはずれに建てられている。しかし、本当は墓の場所など関係ない。そもそも呪生となったものは、守護者の結界の内側に入ることはできない。だから、生者たちの行為は、ただの気休めに過ぎない。

「それで、何か、質問はある?」

「あの……」

 ディアミドが口を開く。ダーナはなに?と続きを促した。

「あの、ダーナ様は、その、どのくらい、結界が、持つのでしょうか?」

「え、ああ、まあ、当分は平気よ」

 突然自分のことを聞かれて驚く。そして、彼の疑問の発生源に納得して、言葉を足してやった。

「それに、次の守護者候補も何人か選んでいるから、心配しなくても大丈夫よ」

 何も教えていないし、引き継ぐつもりもないのだが、それは心の中にしまっておいた。これで、ディアミドも安心しただろうと、見るが、彼は複雑そうな表情をしている。やはり、人の感情というのは理解できない。

「イエナの話に戻すわね。イエナもほかの守護者の例にもれず、結界が切れて呪いに襲われ、最期を迎えた。そして、自身を核とした新しい呪いの生物、『呪生』になってしまった。それが、私たちが対峙した、あの呪いなの」

 イエナに近づいた時に流れ込んできた感情を思い出す。あれが、今の彼女を形作る源だ。周囲の黒い塊を消し飛ばしても意味がない。呪生は、周囲のものを呪いに変えていく。今彼女を取り囲んでいるのは、彼女を飲み込んだ有象無象の呪いと、彼女が呪いに変異させた精霊たちだ。それらを排除したところで時間をおけば戻ってしまう。そして、それ以上に増えていく。

 イエナをそのままにしておけば、次第に呪いは強大になっていき、それはそのまま守護者への負荷の増加につながるだろう。しかし、そこまではダーナは語らなかった。ディアミドが青い顔をして俯いているのだ。

「ちょっと、すごい顔色じゃない。本当に大丈夫?」

 ダーナが慌てて席を立とうとするのを、ディアミドは制した。

「いえ、大丈夫です。なんともありません。本当です。……その、なんというか、惨いことですね」

 ディアミドがつぶやく。

「そうね」

 合わせながらも、ダーナはディアミドを見ている。これなら、本当に、あの子を浄化する方法を思いついてくれるのかもしれない。ところで、とディアミドがダーナに尋ねる。

「あの……今のイエナ様は、その、意識のようなものはあるのでしょうか?」

 だしぬけにそんなことを聞いた。ダーナはディアミドの体調を気にしながら答える。

「どうかしら。あれはイエナのように見えるけれど、イエナの一部だったものなの。心の本当に奥底にある、一番大事な部分ね。何か強い思いがあって、あの状態から解放されずにいるって言って通じるかしら?」

「……はい。わかります。あの、それで、あのイエナ様を倒す、のですよね」

「倒すというのとは、少し違うわ」

 何を気にしているのかわからないが、なるべく丁寧に答えるように、ダーナは考えながら説明した。

「呪生を消す方法、えーっと解放するという方が近いかしら、その方法は、二つあるの。一つは、彼女の感情を魔法で無理矢理書き替える方法。精神干渉魔法の応用で、もうちょっと雑で力づくみたいな感じよ。それで彼女を縛り付けている強い感情をなかったことにしてしまうの。あなたが大剣の炎で周囲の呪塊を焼き払ったでしょ?あれと同じようなことを呪生にもやると思ってもらえばいいわ」

 これなら、周りの呪塊もまとめて、短時間で解放できるという。しかし、これはあまり使いたくない方法だとダーナは語った。

「もう一つは、彼女が自分から強い感情を手放せるように補助してあげる方法ね。呪いの発生源が生きた人間なら、会話で何とかなるのでしょうけれど、彼女はもう、こちらの言葉は通じないの。だから、魔法を使って語りかけてあげるイメージかしら。これが、昨日失敗した方法」

 ダーナはため息をついた。

「イエナはずっと『さみしい』と言っていたの。だから、『あなたはもう死んだのよ。いつまでもそこに一人でいなくていいのよ』って伝えてあげればいいと思ったのだけれど、全然聞いてもらえなかったわ」

 ダーナはお手上げとでもいうように、持っていた資料をテーブルに投げた。「さみしい」という彼女の心を癒してあげられる方法など、ダーナには思いつかない。例えばダーナがイエナと同じように呪いになってそばにいてあげたところで、イエナは納得しないだろう。それでいいなら、呪塊がすでにそばにいるのだ。

 はじめに呪生に立ち向かうと決めた時、心残りの物があるなら、それっぽいものを与えてやって、それで万事解決すると思っていた。しかし、やはり呪いとして残るほどの感情は根が深い。一朝一夕に何とかなるものとは思えなかった。何日もかけて、語りかけ続けていたら、いつかは、応えてくれるのだろうか。しかし、ダーナは、自分にそんなことが務まるとは思えなかった。

「もう、一つ目の方法を取るしかないのかもしれないけれど、あなたに何か案があれば聞かせてほしいの」

 ダーナの言葉に、眉間にしわを寄せながら考え込んでいたディアミドは、口を開いた。

「わたしは、魔法に不案内ですので、いくつかお聞きしたいのですが」

 どうぞとダーナが先を促す。

「イエナ様の乳母やお母さまの、なんといいますか、幽霊のようなものを呼び出したりすることはできないのでしょうか?」

「それ、人間によく聞かれるわ」

 とダーナはため息交じりに答えた。

「そもそも人間が普通に死ぬと、徐々にその感情や人格も崩壊していくの。構成したものがバラバラになって消えていく。構成していた素は、どこかにあるのでしょうけれど、これだけ時間が経てば、どれがそれだったかなんてわからないし、万が一そのうち一つを持ってこられたとしても、それはもう生前の人格も何も残していない、欠片に過ぎないわ。イエナがそれを、自分の乳母や母と認識できるとも限らない」

 よほど強い感情があれば、呪いのように残ることはあるが、基本的に過去に死んだ人間を呼び出すことはできないのだと、ダーナは答えた。

 彼女も、イエナの乳母であったマレイドを呼び出すという方法は、最初に考えた。しかし、それは難しいうえに、もし呼び出せたとしても、結局マレイドだったものもイエナの呪いの糧にしかならないだろう。実体のない、感情だけの存在とはそれだけ、揺らぎやすい。

 ダーナは内心ため息をついた。彼女には、人間には見えない多くをその視界に捕らえている。先ほど自分で語った、感情や人格の要素というのもその一つだった。イエナの、冷たい氷の塊のような核もはっきり見えている。だからこそ、それに対処するのはもっと簡単だと思っていた。ほかの誰にできなくても、自分にはできるだろうと思っていた。しかし、結果はこれである。見えているからこそ、乱暴な方法を取るのは、躊躇われてしまうのだ。しかし、もう嫌とも言っていられない。ダーナが決意を決めようとしたのと、ディアミドが言ったのはほぼ同時だった。

「でしたら、こんな方法ではいかがでしょうか?」

 ディアミドの提案にダーナは最初反対したが、最終的に他に手はなく、そのまま受け入れられることになった。

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