第16話



 立川駅近くの公園。まだ朝の冷たい空気が残る中、俺とイヅナとかえでは人目につかない木陰に集まっていた。


「で、なんで朝っぱらからこんなとこ集まってんの?」


 かえでは眠そうに目を擦りながら尋ねてくる。赤いパーカーのフードを深めに被って、ツインテールが少しぼさぼさだ。


「実験」


 俺は簡潔に答えた。かえではまだよくわからないといった顔をしている。


「こないだの一件で考えたんだ。瞬間移動で俺以外も運べれば、行動の幅が広がる」


 あの夜のことが頭をよぎる。子供たちを守るために、かえでといづなを先に行かせた。あの後、二人が子供たちを抱えたまま別の敵に遭遇していたら危なかっただろう。安全策を取れるにこしたことはない。


「前に、いづなと一緒に千年杉の下に跳んだことがあった」


「ああ、あん時ね。アタシの心穿がアンタの瞬間移動に干渉しちゃって」


 いづなが頷く。あの時は偶然だった。俺が瞬間移動を発動した瞬間、いづなの心穿が俺の意識の深層に触れた。結果、座標がずれて——いや、ずれたんじゃない。千年杉の力に引き寄せられたんだ。あの事故を再現できれば、他人を巻き込んだ瞬間移動ができるはずだ。


「つまり、俺の瞬間移動にいづなの心穿を重ねる。そのタイミングが合えば、俺以外も一緒に飛べる」


 いづなが腕を組んで、少し考え込む表情を見せた。


「凄い便利なの間違いないけど、制約あるよね?」


「うん。いづなの協力が必要。移動先は千年杉の下だけ。それでも全然違うよ。――まずは、できなきゃだけど」


◇ ◇ ◇


 そして、――実験開始から2時間が過ぎ、公園にはもう、いづなのため息と俺の舌打ちとかえでの、まだー?の声だけが漂っていた。


「……今度こそ合わせるぞ」


「アンタの集中力が低すぎんの。アタシはずっと完璧だし」


「はいはいケンカしない。ねぇ早く跳ぼうよ、あたしもう飽きた!」


 かえではぴょんぴょん跳ねながら腕をぶらぶらさせ、テンションだけは妙に高い。小角は「ああもう」と言わんばかりに額を押さえながらイメージを組み直した。


「……いづな、心穿を撃つタイミング。俺がイメージを固めた瞬間な」


「分かってるって。何回同じ説明すんのさ。心の奥ぶっ刺す準備できてるから」


「ぶっ刺すって言うなよ……」


 俺は深く深く呼吸を整えて、目を閉じた。頭の奥底に、千年杉の映像。あのとき、いづなとぶつかった意識。あの奇妙な"心臓の震え"。そこまで思い出したとき——同じタイミングで、いづなの心穿が発動した。


 心の奥に、何かが触れた。


 ——ああ、これだ。


 あの時と同じ感覚。いづなの意識が、俺の心の深い場所に指先みたいに触れてくる。覗くんじゃなくて、触れる。その瞬間、俺といづなの胸が同じリズムで跳ねた。


 トン、トン、トン。


 同じ速さ。同じ振動。同じ色。心臓が同期する。


「……小角、これ……」


 いづなの声が震えている。俺も驚いた。こんな感覚、初めてだ。他人の心臓と自分の心臓が、完全に一致している。


「お前、今……俺の——」


 かえでが俺の袖を掴む。


「ねぇ、なんかヤバい感じするんだけど!? 心臓が変なドクドクしてんだけどぉ!?」


 三人の接触した指先、袖、肩。それぞれがささやかに触れていた部分で、意識の流れが一つの円を描いた。心音が三つ、完璧に一致する。この瞬間——術式は"個"ではなく"群"と認識した。


 千年杉の方角へ、見えない線がつながる。空気が一気に引き絞られ、黒い羽のような風が三人を包み込んだ。


「跳ぶぞ……っ!」


「いや、これアンタじゃなくて"勝手に"——!」


「ちょ、待っ——落ちるってぇぇっ!!」


 空間がひっくり返るように反転した。一瞬だけ見えたのは三人の影と眩しい太陽のひかりの残像。次の瞬間、世界は静かに再構成される。風のにおいが変わる。空気の密度が変わる。地面の感触が、石畳へと戻る。


 ——ドサッ。


 三人そろって千年杉の根元へ落ちた。


 俺は片膝を立ててうずくまり、いづなは仰向けになって息を切らし、かえでは尻もちをついて涙目で空を見ていた。陽光を受けて枝が揺れる。まるで、よく来たな、と言っているように。


 最初に口を開いたのはいづなだった。


「……小角。今の、アンタの心……ほんとに、あんな音で跳ねてんだね」


 心臓の音が同期していた。あの感覚、どう説明すればいいのか分からない。俺は顔をそむけて言った。


「お前が勝手に触れてきたんだし……」


 かえでがむくれた顔で二人を見る。


「あたしの心臓も勝手に巻き込まれたんだけどぉ!? 説明しろやオラァ!」


 いづなは苦笑し、手を伸ばして千年杉の幹に触れる。


「……成功したね。三人で跳んだ。"瞬間移動・心移"。やっと」


 俺は静かに目を閉じた。胸に残る、あの"心臓の同期"の余韻がまだ消えない。不思議な感覚だった。他人の心臓と自分の心臓が、完全に一つになる。それは、孤独だった俺にとって——少しだけ、温かかった。


◇ ◇ ◇


 いづなは石段に腰を下ろしながら、ちらちらと俺の顔を見ては、なにかを堪えるように口元を押さえている。俺はその視線を感じ取り、訝しげに眉を寄せた。


「……なんだよ。さっきから変な顔してるぞ、いづな」


「べつに? 変な顔してんのはアンタのほうじゃん。さっきから耳、赤いけど?」


「赤くねぇし」


「いや、真っ赤だし」


 かえでは隣でまだ尻をさすりながら、そのやり取りに目をぱちぱちさせていた。


「ねぇいづな、なんか知ってんでしょ。小角の心ん中、見たんだよね?」


 その言葉に、俺は露骨に肩を跳ねさせた。


「あ、待て。余計なこと言うなよ」


 いづなは"言うな"と言われると"言いたくなる"タイプだ。口角が上がり、完全に悪戯モードの表情を浮かべる。


「は? 言うに決まってんじゃん。だって——」


 いづなはわざとらしく間を開け、ゆっくりと俺を覗き込んだ。


「アンタの心臓、めっちゃ優しい音してたよ?」


「は? 優しい音ってなんだよ。その、言い方が気持ち悪いわ」


「うっわ、照れ隠し雑っ。ねぇかえで聞いた? 小角の心、ドクドクじゃなくて"トトンッ"って感じなの。めっちゃ繊細。あれ絶対、普段むっつりして隠してるだけで、中身ふにゃふにゃのタイプ」


「ふにゃっ……!?」


 俺は完全に言葉を失った。


 いづなは立ち上がり、杉の根元に手を当てると、あのとき感じた"震え"を思い返すように目を細めた。


「だってさ、小角の心の奥……あんなん初めて見たもん。孤独っていうか、頑固っていうか、誰も信用してねーくせに、でも守りたいものだけは本気で離さないタイプ。ああいう心の形、けっこう好きだよアタシ」


「好……好き……?」


 俺の耳がまた熱くなる。いづなはそれを見逃さない。


「うわ、マジで赤いじゃん。かわい〜」


「かわいくねぇし! 見た目がこんなんなだけだしっ!」


 かえでは面白がって二人の間に首を突っ込む。


「ねぇねぇ、その"心の奥"ってさ、もっと具体的にどんな……?」


 いづなが悪い笑いを浮かべた。


「言っちゃう? 言っちゃっていい? 小角の心の、あの一番奥の、誰にも見せたくなかった——」


「待て待て待て待て!!」


 俺は慌てていづなの口を押さえた。が、いづなは口元を押さえられながらも完全にニヤついている。


「……っふふふ。小角、顔近いし。どうしたの? もしかして図星だから?」


「図星じゃねぇ!!」


「じゃ、なんでそんな焦ってんの?」


 俺は言葉が詰まった。どう考えても、焦る理由が"図星"以外に見えない。いづなは俺の手をぱしんと払うと、ひとつだけ真面目な声で言った。


「安心しなよ。小角の秘密、誰にも言わないから」


「……ほんとか?」


「ほんと。だって―― アンタの心、勝手に触れたのはこっちだからさ」


 そう言って笑う目は、茶化しでも嘘でもなく、ほんの少しだけ柔らかかった。俺は言い返そうとしたが、その声は喉の奥で消えた。


「はいはい、青春青春!」


 かえでが腕を組みながら茶々を入れると、いづなは途端に表情を戻し、俺の肩を指でつついた。


「でもさぁ。今後も集団転移するなら、アタシ毎回小角の心の中見えちゃうんだけどね?」


「……やめろ」


「やーだね。だってアンタ、見てて飽きないもん」


 その言葉と一緒に、いづなの口元がまたニヤッと上がる。千年杉に風が吹き抜け、三人の姿を揺らした。俺は観念したようにため息を吐く。


「……もういい。好きにしろ。ただし——」


 小角はわずかに口元を上げた。


「次は……お前の心も丸見えにしてやるからな」


 いづなはぴくっと肩を震わせ、口元を押さえながら小角を見る。


「……へぇ。言ったね小角。いいよ?覗けるもんなら覗いてみなよ。アンタに見られて困るようなとこ、別にないし」


 強がった言い方だが、いづなの耳がほんのり赤い。またこっちまで伝染うつってくる。


「もう帰るぞ!!」


 境内に響く俺の怒鳴り声と、それを笑ういづなとかえでの声。千年杉は、その全部を楽しそうに見守っていた。


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