番外第2話・その目が語るもの

『奴の手数の多さに惑わされるな。不利に感じたなら距離』


 ローゼンクレセントがそれを睨んだ。魔法によって、クレセントの私室に置かれたターミナルの電源が落とされる。その画面に表示されていた「死を招く黒い鳥」の姿は消え、黒一色になり沈黙した。


 クレセントは自室の中を、巨鳥の体格に合わせて人間のそれよりも天井が高く面積が広い一室の中を静かに歩き出した。クレセントは、先ほどまで彼と彼の直弟子がくつろいでいた巨大なベッドを迂回し、その左、私室の隅で頭ごと体勢を下げた。


「タオタオ、ごめんよ。俺が浅はかだった。君の『傷』はすっかり癒えたものだと勘違いしていた」


 クレセントは慈愛を込めた優しい声色で、そう投げかけた。しかし、タオシャンが落ち着きを取り戻す事はなかった。


 クレセントの直弟子はうずくまり、藍色のローブを纏った両腕で、ピンク色に染めた髪の頭を守るように覆っている。俯いたその顔の双眸は見て取れない。しかし、大粒の涙が顎の先から何度もしたたり落ち、己の胸の染みを大きくしている。


 クレセントは胸中で己の行為を悔いたが、同時に安堵した。やはり、直弟子の不満を押し切って、私室でフリッシュの直弟子の腕試しを中継として観戦すると決めた事を。もしもタオシャンの誘いに乗り、闘技場にを運んでいたら。クレセントはそこで最悪の結果の空想を中断した。


「ごめんなさい……許してください……いい子にします……お願いします……痛いことは怖いです……殺さないで……」


 仮に師事の年月が浅い他の直弟子から見たら、普段の純真無垢な態度からは想像できないほどの悲痛な声で、タオシャンが何度も呟く。クレセントはその様子を静かに見守っている。


 クレセントは想起した。タオシャンがこれほどまでに取り乱すのは、今となっては珍しい。この1年ほど、この本来の気性は元々存在していなかったと錯覚するほど鳴りを潜めていた。五賢師の直弟子たちを筆頭とした、タオシャンの同輩たちの配慮もあった。それに関して、クレセントは直接的な礼は口にしないが感謝している。


「お願いします! 連れていかないで! 連れていくなら僕にしてください! 僕がかわりになります! 僕を殺してください! 僕を連れていってください! お願いします!」


 タオシャンが身を捩り、更に取り乱す。クレセントは己の嘴の先を、小さな頭を必死に覆い隠さんとする直弟子の、ローブの袖から露出した手の甲へと静かに当てた。


「タオタオ、ここでは誰も君や君の大切な人を傷つけない。もしもそんな奴が現れたら、君の代わりに俺が戦う。だから、安心しておくれ」

「うあああ!! あああああああああああああ!!」


 タオシャンは震える声で叫びながら立ち上がり、クレセントの首に抱きついた。涙がクレセントの毛並みを汚すが、彼はそれを一切咎める様子はない。ただ黙って、最愛の直弟子が落ち着くのを待った。


 クレセントはかつて、自身の直弟子の了承を得て、魔法でタオシャンの心の底を覗いた経験がある。かつてのタオシャンは、ゴールデンサウンドの直弟子であるジェイドの境遇よりも酷く、医療兵団に「卸す」事を目的として惨たらしい仕打ちを受けていた奴隷だった。


 良くも悪くも根回しを好むクレールは、格下の相手を直接的な暴力で屈服させる事を嫌う。しかし現世界の全てがそうではない。タオシャンがかつて幽閉されていた奴隷小屋の支配者のように、良心を持ち合わせず汚い行ないを平然と実行する汚い輩どもは存在する。


 そして、そのような目ざとい者たちは、各地を治める勢力が欲しがる人材を熟知している。加えて、それに満たない「商品」は躊躇いもなく切り捨てる。


 タオシャンを直弟子として迎え入れたのち、クレセントによって、旧南アメリカ大陸西側、現在の医療兵団統治下で活動していた奴隷商人グループへの襲撃作戦が立案された。しかし、相手は兵団の直属ではないが、他勢力下での武力作戦は政治問題に発展する可能性がある。その為、大ツバメであるクレセント以外は、コンプリケーションコンプレックスやミリオンラブ、ナルコスカルといった隠密飛行を得意とする巨鳥で臨時部隊が構成され、作戦が決行された。


 襲撃自体は成功したが、兵団に翼正会の作戦を看破された。しかし、クレールの政治的な助力があり、兵団との後腐れは生じなかった。医療兵団としても、直接的な被害をこおむったわけではない。そして、奴隷商人たちの拠点のドアを開けた時は、翼正会の巨鳥として現世界の酸いも甘いも知っていると自負していたクレセントさえ、頭から血の気が引くほどの凄惨な光景であった。


「タオタオ、許しておくれ。君の辛い過去を思い出させてしまって」


 タオシャンに向けて、視線でのみ振り返ったクレセントは静かに許しを請う。この4年間で己の直弟子にとって安心の象徴になった、大ツバメの体温やその匂いに触れた事によって、タオシャンが落ち着きを取り戻しつつある。今は嗚咽を漏らしているが、先ほどの絶叫と比べるとその声量は小さい。クレセントは続ける。


「君の師匠として、同じ過ちは二度と繰り返さない。君は今後、フリッシュ様に会わなくていいし、もしもフリッシュ様に呼び出されても拒否していい。フリッシュ様やクレール様がどう言おうと俺が絶対に君を庇う。だから安心しておくれ」


 クレセントは、ターミナルの電源を落とす直前、その画面に表示されていたフリッシュの相貌を想起した。


 かつてクレセントは、フリッシュに対抗意識を燃やしていた。しかし、現在のクレセントでも、その実力は大ミサゴの鳳凰種の足元にも及んでいないだろう。しかし、直弟子の心の安寧を守るとなれば話は別だ。クレセントにとって、これは是が非でも全うしなければならない使命だ。


 クレセントは胸中でそのように決心したが、タオシャンの返答は大ツバメのそれが的外れであった事を告げるものであった。


「お師匠さま……違うよ……フリッシュお師匠さまじゃない……フリッシュお師匠さまは……怖いけど……怖くない……」


 タオシャンに抱きつかれたまま、クレセントは僅かに首を傾げた。そして、その疑問を直弟子に投げかける。


「……どういう事か説明しておくれ、タオタオ」

「フリッシュお師匠さまは……同じ目をしてる……僕を守ってくれた人たちと……同じ目……」


 クレセントは、かつてタオシャンの口から断片的に聞いたものと、タオシャンの心を覗いて見知ったものを思い出した。


 翼正会五賢師がそうであるように、奴隷商人グループも構成員全員の意識が統一された一枚岩ではなかった。仲間の悪行を見兼ね、良心によって突き動かされる者たちがいたのだ。奴隷の中で最も魔力に優れていたというタオシャンが、かつて累卵楼港行きの輸送船で密航できたのは、彼ら彼女らの手引きによるものだった。


 隠密部隊が奴隷商人の拠点を襲撃した際、彼ら彼女らの姿はなかった。暴虐の代償を払わせる前に奴隷商人どもへ、大ツバメはその事を質問したが、最期まで口を割らなかった。タオシャンを弟子として取ったクレセントは、今でもその者たちの無事を祈り続けている。


「僕が本当に怖いのは……プレアデスだよ……お師匠さま……」


 クレセントの毛並みから顔を上げたタオシャンが、己の師へ見つめ返しながら呟いた。直弟子が口にした意外な事実に、クレセントの顔は驚きを隠せなかった。


 フリッシュほどの巨鳥の瞳が濁ったとは思えない。しかし、裏でなんらかの企てを進めているサタンズクローと、それを今は黙認しているダイヤモンドクレールがいるように、五賢師の真意はいつも不明だ。


「プレアデスの目は…………」


 口籠るタオシャンが俯く。一度は止まった涙が、再度タオシャンの瞳からこぼれ始める。


「タオタオ、もう一度俺の首を抱きしめておくれ。そして、その涙を俺の毛並みで拭いておくれ。君の悲しみと痛みは、師匠である俺も同じだ」


 タオシャンはクレセントの言葉に従った。タオシャンが大ツバメの毛並みに顔を埋めると、クレセントは直弟子の耳が拾わないように喉を締めつけながら、一つだけ小さなため息をついた。


 経験は知識に勝る。それは魔術師における鉄則の一つだ。フリッシュがなぜあの少年を弟子にしたのかは不明だが、タオシャンから見てプレアデスがそうならば、そういう事なのだろう。


 クレセントはタオシャンへと穏やかな声色で投げかける。しかし、そこには明確な覚悟が滲み出ていた。


「タオタオ、ありがとう。もう辛い事を喋らなくて大丈夫だ。君には俺がいる。俺が絶対君を守る」

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