第16話・最初は手を繋ぐところから
第三層エレベーター出入り口の横に存在する小部屋、その扉をフェリーチェは開けた。その中は殺風景な金属製の壁に囲まれ、右の壁際には腰の高さほどの機械が鎮座している。
フェリーチェはその制御盤を操作した。自分には設計や開発ができるほどの専門的な知識も経験もないが、このような簡単な使用方法ならば心得ている。いくつのかのボタン操作の仕上げにフェリーチェが「気圧調整開始」を押すと、部屋の中でブザー音が鳴った。それがすぐさま止み、部屋に備え付けられた二つのドアのうち、フェリーチェが入室したものではないドアの施錠が解除された。
フェリーチェはそのドアの銀色のレバーに両手をかけ、四分の一ほど回した。手を離す。フェリーチェの操作によって、電子制御されているドアは自動的に開き始めた。その瞬間、部屋の中に外気が流れ込んでくる。フェリーチェは自身に、体温維持魔法や呼吸補助魔法、気圧順応魔法をかけた。柔らかな光に包まれたのち、それが消えると体の不快感が消えた。これで藍色のローブとその下の衣服だけでも、高度障害などの体調不良に陥る危険性はない。
扉が完全に開ききると、その先にある階段が現れた。フェリーチェは無言で出入り口を通り抜け、階段をのぼり始める。累卵楼の外壁はその名の通り卵型の曲線を描いている為、階段は一直線ではなく、いくつもの踊り場を挟んでいる。また、本来は累卵楼屋上の点検用として設置されたものである為、階段は艶がない黒色の合金製の骨組みと足場と手すりのみという簡易的な作りだ。
階段をのぼるフェリーチェの赤毛の短髪やローブの端を、地上とは異なる強風が弄ぶ。しかし、フェリーチェがよろける事はない。むしろ、ある種の心地よさを覚えていた。階段を次々と踏みしめるフェリーチェは眼下に視線を向けた。翼正会一門の本部に相応しい巨体を誇る累卵楼、その第三層からは城下町が模型に錯覚するほど遠い。天候によっては、ここは雲の中に隠れる。
第三層メインエレベーターホールの隣である西側の外壁から階段は始まっており、その第三層外壁はクレールの意向によって光の透過率を他層よりも落としている。ゆえに、フェリーチェが現在進んでいる場所は日陰だ。だが、累卵楼の上には細かい雲が点在する青空が広がっている。もうすぐ日向に出るだろう。
気圧調整室の
フェリーチェは人間の姿のまま階段を進んでいく。質量は力と密接に関係している。この風速では、カナリアに変身したところで屋上まで飛翔するのは不可能だろう。この階段を使うのは直弟子と、翼正会から金銭による点検依頼を受けたMRCの技術者のみだ。巨鳥ならば、たとえ最も小柄なゴールデンサウンドさえ己の翼で屋上まで羽ばたく事は容易だ。
そこからしばらく進むと、フェリーチェは日向に出た。無表情を続ける顔の上に、右手で鍔をつける。魔法を用いる事を考えたが、術式の冒頭を想起したところで中断した。右手を静かに下ろし、そのまま階段をのぼっていく。
気圧調整室を出てから自らの体感で30分ほどが経過した時、屋上まで一直線に伸びる階段の最下部である、最後の踊り場に辿り着いた。先ほどよりも日が高くなっている。朝と呼べる時間帯ではないだろう。
フェリーチェはこれまでと変わらず、淡々と最後の階段をのぼっていく。一段ごとに視界の中へ終点の光景があらわになっていき、そこへ辿り着くと全貌が見て取れた。
「…………」
累卵楼屋上は、階段と同様に黒色の合金で作られた簡易的な骨組みと足場で形成され、四方の縁には同じく簡素な柵を有する。そして、累卵楼そのものと同様に、屋上もある程度の広さを持つ。第二層のバスケットボールコートで例えると、約十個分はあるだろう。
屋上への立ち入りは、基本的にそれほど多くはない。ローゼンクレセントによる直弟子への占星術講義の一環や、エターナルキャリバーやミモザコートによる巨鳥への飛行教導の際に用いられる。それら以外では、あまり活用されない場所だ。
しかし、有事の際には、累卵楼周辺を見渡せる監視塔や、それを付随させる作戦部発令所として活用できる広さがある。また、屋上の四隅のうち二つには、累卵楼のローカル回線と接続されているレーダー装置や大型アンテナが存在する。
この屋上の下には、第三層の天井から骨組みで吊るされたダイヤモンドクレールの私室がある。フェリーチェの師は翼正会頭領や五賢師第一翼として高い自尊心を持つが、一門や直弟子の為になるなら柔軟な思考を働かせる。「間接的に自分の上へ誰かが立つ事になる状況」になる屋上の立ち入りは禁止されていない。
しかし、今後は念の為に監視カメラ程度は設置されるだろう。昨晩にサタンズクローがクレールの私室に置かれている
その報告を受けたクレールは、機械巨鳥が確かな証拠を押さえていたにもかかわらず、大ミサゴの行動を不問とする事を即座に決めた。自らの師はフリッシュと密約を交わしていた。それに関係するものゆえに、だろうか。あるいは、大ハクチョウには通信相手の予想がついているのかもしれない。一応は翼正会に籍を置いたままのアディクトテーラーか、「あの死に損ない」と呼んでいた存在、または「ハウスコイル」という組織の可能性もある。
フェリーチェは階段から見て右の手前側の角に佇む、大型アンテナに無言のまま近づいた。間違いなくフリッシュが魔法を用いて弄ったのだろう。アンテナの基部を包む金属製カバーの一部が外されており、その周囲には人間用の工具が散乱していた。そして、その近くの床には何かが燃やされた痕が残されている。フリッシュが、己が持ち込んだターミナルへ火を点けたと見て間違いない。
フェリーチェは膝を折り、外されたカバーを本来の場所に戻した。ネジ留めはしない。それが行なわれるのは、フリッシュの暗躍による物理的及び電子的な損害の有無を確認してからだ。幸いにも、現在の屋上には累卵楼で屈指の機械に詳しい者がいる。
加えて、フェリーチェは基部の表面に後付けで設置されているスイッチを押す。屋上の足場の下から唸り声に似た音が響き渡り、すぐさま止む。それと同時に、フェリーチェの髪やローブを揺らしていた風が弱まった。魔法科学による相殺装置が正常に作動した証拠だ。それを用いずとも体を吹き飛ばされる危険はほぼ皆無だが、聴力増幅魔法を使い続ける手間を減らす為だ。
フェリーチェは立ち上がり、その者のもとへ歩み寄った。長方形の屋上の、階段の終点がある西側の対岸、東側の長辺の中間点付近で、その者は両手を柵にかけ、城下町を見下ろしている。
当然ではあるが、その者はフェリーチェがクレールの私室で夜を明かしている間に、四つ腕を持つ純白のハルクエンジンから藍色のローブに着替えていた。本来の二本だけの手とそこから伸びる手首だけが、ローブの袖から露出している。後頭部で品よく束ねられた髪は、フェリーチェが最後に見た時から変わっていない。ジェイドは髪を結んでいる時間が長ければ頭痛を起こしやすいらしいが、機械の体はそういった悩みとは無縁だろう。
フェリーチェは、その者の左方から1メートルほど離れ、柵の前に立った。フェリーチェが右を見ると、その者もフェリーチェに顔を向けていた。
「おはようございます、フェリーチェさん」
フェリーチェを見つめるミチビキは、かすかに苦笑混じりの微笑みを浮かべている。その理由を、フェリーチェは第二層に戻ってきた時には察していた。
「おはよう。今日はどうした?」
しかし、五賢師第一翼の直弟子としてそれを尋ねた。
「……少し、ひとりで気持ちと考えの整理がしたかったので……あ、でも、フェリーチェさんなら構いませんよ」
「了解した」
そう返答したフェリーチェは、視線をミチビキから逸らし、正面の眼下に広がる城下町を見渡す。ミチビキもまたそれに倣った。
クレールの私室で鳥籠の中に入っていた時から、フェリーチェは魔法によって何者かが屋上に立ち入った気配を感じ取っていた。第二層に戻ってくると、直弟子たちから「申し訳ありませんが、今日の午前中は留守にします」という、ミチビキの筆跡で記された書き置きの存在を知らされた。その二つで得た確信を自らの目で証明する為、フェリーチェは長い点検用階段をのぼり始めたのだ。
「フリッシュ師匠とプレアデスは?」
機械人形に視線を戻さないまま、フェリーチェが尋ねた。
「日の出と同時に出発しました。彼らには彼らなりの、『やる事』があるらしいです」
ミチビキもまた、己が好意を寄せる人間から目を逸らしたまま答えた。
「見送ったのか?」
「一応は、ですが。それから、ミリオンラブ師匠とダニオさんも、もう出発しました。彼らは旧南アメリカ大陸方面へ、ミリオンラブ師匠とダニオさんは旧カナダ北東部です。ナルコスカル師匠も、ご自身のアトリエに向けて飛び立ちました」
「了解した」
視線を合わせないままふたりは短いやり取りを交わし、それが終わると無言になった。普段のミチビキならば、フェリーチェと朝の挨拶を述べた直後から、朗らかな笑みをともなって他愛のない雑談を投げかける。アンドロイドは、自分と少しでも会話する事を喜びとしている。
だが、今日はその勢いが消えていた。理由は尋ねなくとも理解できる。それを用いる意味はないので、フェリーチェは魔法をかけていない裸眼のままで累卵楼城下町を見渡した。
翼正会が大金を投じて本部に相応しい外見へ整えた累卵楼とは対照的に、周囲の城下町は、例えるならばパッチワークだ。統一感に欠けた、修繕と新造の建築物がひしめく街。そこに住まう者たちも、全員が複数の人種の混血だ。前世界崩壊以降、人種という概念は希薄化の一途を辿っているらしい。翼正会はもとより、騎士団や司法教会なども、最も高い地位に君臨する者が人間ではない事も一因しているだろう。フェリーチェもまた、自分の容姿のどの部分がどの人種のものなのか判別できない。
この屋上からは、街並みを行き交う人々は蟻よりも小さい。クレールの意向により、巨鳥や直弟子が市民と同じ高さに住む事はない。
そして、住民たちの生活は昨日と何も変わっていない。彼ら彼女らは翼正会が催した直弟子の腕試しや巨鳥たちの宴会を楽しみ、その余韻を抱きながら今日という日を迎えた。彼ら彼女らは昨日の出来事を興奮気味に語るだろう。変わり映えのない日々に一日限りの彩りを与えた、己と直的的には関係がない興行を。
「昨日は色々な事が起きた」
「ええ」
またもや顔を合わせないまま、フェリーチェとミチビキが受け答えを交わす。ミチビキの短い返答には、やはり様々な心情が含まれていた。
昨日と今日で決定的に変わってしまったものがある。何年も姿を眩ませていた大ミサゴの鳳凰種がここを訪れ、その弟子が巨鳥相手の腕試しで勝ち星を上げた。彼らはすでに累卵楼を発ったが、なんらかの思惑か密約により再び姿を見せる可能性がある。水面下では機械巨鳥が己の企みを進めるだろう。彼らを脅威や障害と見なすならば、翼正会頭領はいくつかの策を繰り出すはずだ。
しかし、現時点は平穏そのものであり、表面上はそれが続くだろう。突発的な重大事態が起こらなければ、近いうちにタオシャンへの巨鳥化の儀式が執り行なわれるはずだ。翼正会の象徴、ダイヤモンドクレールの権威の象徴として、累卵楼は市民たちの目からは不変に見えるだろう。
「裏の世界」の一端を自分たちに見せて、そこに踏み入る事は許さない。そういった巨鳥たちの意向に、五賢師の直弟子は耐えなければならないようだ。師匠たちの奸計の一部を見聞きし、他の直弟子には穏やかな日々を取り繕い、それを騙る。自分たちも「表には出せない思惑」の末端として。
それが、自分たちに課せられた使命の一部なのだろう。そして、いずれは巨鳥としてその主体を担うのだろう。連綿と続く翼正会の歴史を紡ぐ為に。それは正しい行ないであるのか否か。そこに正しさがあるか否か。フェリーチェには分からない。フェリーチェは短いため息を一つついた。
「フェリーチェさん」
「どうした?」
視界の外から、ミチビキが呼びかけてきた。フェリーチェは顔を向けずに答える。
「フェリーチェさんを、抱きしめていいですか? 今のフェリーチェさんは、不安そうに見えます。前にも言いましたが、スキンシップには平静を得られる効果があります」
「……拒否する」
ミチビキの提案に、フェリーチェは短い言葉で拒んだ。
今がどれだけ心苦しくても、耐えなければならない。一門に属して師事を続けるのは自分の意思だ。拒否を示すならば簡単だ。累卵楼から、この街から去ればよい。
フェリーチェがここにいるのは、他の誰でもないフェリーチェ自身の意思だ。いずれはクレールから「クレールの名」を継ぐかもしれない。そうでなくても、巨鳥となるのは確実だろう。
自分が一門を守らなくてはならない。翼正会には、ダイヤモンドクレールには、
「フェリーチェさん……手は……繋いでもいいですか? 実を言うと……僕は少しだけ心細いです」
「……了解した」
フェリーチェは横目でその光景を窺った。自分の隣と呼べる位置まで移動したミチビキが、己の右手でフェリーチェの左手を優しく掴んだ。フェリーチェの親指と人差し指の間に己の親指を入れ、親指以外の四本の指を同じもので束ねる。恋人同士が行なう繋ぎ方だ。
ミチビキが優しくも確かに握った次の瞬間、フェリーチェはそれを振り解いた。アンドロイドが行なったそれと全く同じ方法で、フェリーチェがミチビキの手を握った。屋上の風に長い間当たっていたのだろう。ミチビキの右手には、生物が持つ体温が感じられなかった。
「フェリーチェさん?」
「心細いなら、この方がいいと判断した」
視線を正面に直しながら、フェリーチェが返答した。手と手で結ばれた隣のアンドロイドから、小さな吐息が漏れる音が聞こえた。
「フェリーチェさんにこうしてもらえると、とても安心します。僕の内部コンピューターの処理能力が安定するという意味ではありません。僕の心が、安らいでいるんです」
フェリーチェには分からない。自分の本心が、誰を好いているのか。それはなぜなのか。しかし、自らのうちに生じた意志に従って、フェリーチェはミチビキの手を軽く引いた。
「フェリーチェさん?」
それによって、ミチビキがフェリーチェへと体ごと視線を向ける。フェリーチェもまた、ミチビキへと同様に頭と体を向けた。ふたりは向かい合う。自分が右手で握ったミチビキの左手の手のひらを、自分の左手を添えて包む。まるで、相手の手を温めるかのように。ミチビキもまた、残っていた右手をフェリーチェの左手の甲に重ねた。
フェリーチェが自分たちの手から視線を上げると、柔らかな微笑みを湛えたミチビキがフェリーチェを見つめ返していた。
「ありがとうございます。こう言ってはなんですが、フェリーチェさん、昨日までよりも少し僕に優しくなったような気がします」
「俺にその自覚はない」
その返答は、半分は真実で、半分は嘘だ。フェリーチェの胸中では、ミチビキに対する何かが芽生えかけている。おそらく、これは人間が特定の個人に対して抱く、特別な感情なのだろう。フェリーチェは、その知識だけは持ち合わせている。
だが、翼正会の直弟子として、今はそれに身を委ねる事はできない。自分は、そして全ての直弟子は巨鳥を目指す身だ。そこから大きく目を逸らし欲を貪る事は許されない。鍛錬を怠ってもそこへ辿り着けるほど、巨鳥への道程は簡単なものではない。
加えて、フェリーチェはダイヤモンドクレールの、ミチビキはサタンズクローの直弟子だ。今の累卵楼では、何かの流れが変わり、何かが渦巻いている。それを正す努力もまた、直弟子の務めだ。「死を招く黒い鳥」と「星の子」の師弟、あるいは「魔王の爪」の企てを見て見ぬ振りをして、ミチビキと特別な感情を育む事への専念はできない。
手と手で繋がったまま、ミチビキはフェリーチェへと半歩ほど歩み寄った。互いの顔の距離が近い。その気はなくともフェリーチェは、肉でないがゆえにいかなる時も瑞々しいミチビキの唇を意識してしまう。
「フェリーチェさん。僕はフェリーチェさんが大好きです。僕に対するフェリーチェさんの気持ちがどんなものでも、それは変わりません。僕は、フェリーチェさんを守りたいですし、フェリーチェさんが知りたい事を知りたいです。そしてなにより、フェリーチェさんと一緒に生きたいです」
フェリーチェを見つめるミチビキの眼差しは、優しくも真剣だった。自分たちは、安易に欲へ溺れる事は許されない。しかし、フェリーチェはその言動を咎めない。
「その理由は?」
感情と情動の火種を隠したまま、フェリーチェは問いかけた。自分の眼前に立つアンドロイドが自分に好意を抱いているのは熟知している。しかし、フェリーチェはこの時になって、初めてミチビキの口から明確な「好き」という言葉を聞いた。
「『大好きだから』じゃ、納得できませんか?」
普段ならば、ミチビキはこういった口振りの際に苦笑を浮かべる。しかし、フェリーチェが真っ直ぐに見つめるミチビキの相貌は、それへ逃げていなかった。ひたすらに、自分への誠意を表現していた。
問いを問いで返したミチビキのその言葉に、フェリーチェは納得はできる。「それ」は理屈ではないと聞く。しかし。
「返答は保留にさせてほしい」
フェリーチェは簡潔に、「結論」の先延ばしを要求した。フェリーチェの中で理性が衝動に優ったのだ。ミチビキは自分の、文字通り
自分たちは五賢師の直弟子であるがゆえに、感情のままにそれへ耽る事が許されないという理由もある。ダイヤモンドクレールたちの奸計が脳裏にちらつき、今はそれに没頭できないだろう。しかし、最も大きなものはミチビキ自身だ。
ミチビキもまた「切り札」だ。己の師であるサタンズクローの権謀術数により、己の過去を奪われているが、ミチビキの過去は、ミチビキの「真価」は間違いなく「大きな力」だ。
そして、ミチビキという切り札は、今は誰のものでもない。自らの師であるクレールのものでも、彼の師であるクローのものでもない。あの師弟に対するミチビキの態度から考えてそれになると思えないが、フリッシュのものでもない。
ミチビキはこの先、選ばなければいけない。「誰の味方をするのか」を。エターナルキャリバーやグアンダオストームは選んだ。未練を募らせるかつての恋仲や、番いである翼正会頭領の隣を。
近日中に、ミチビキによる巨鳥への腕試しが始まるだろう。それは奸計の中で暗躍する者たちには、「ミチビキの品定め」という隠された意味があるはずだ。彼にハルクエンジンを与えたクローはもとより、昨晩は不要と言い放ったクレールでさえ、ミチビキに接近する可能性がある。自らの師は狡猾だ。そして、それは機械巨鳥も同様である。
ミチビキはその時に、「フェリーチェさんとともに生きたいです」と語るはずだ。自分には自分の本心を捉えきれないが、その言葉が嬉しくないと言えば嘘になるだろう。
しかし、自分にはもう、クレールの意思を継ぐか、クレールに見放されるか、あるいはなんらかの理由により翼正会かこの世を去る未来しか残されていない。ミチビキに特別な感情を
「分かりました……ですが、期待していいですか?」
短く息を吐いたのち、フェリーチェと手を繋いだままのミチビキが、フェリーチェの顔を直視して尋ねた。問いに問いでないものを混ぜるのはアンドロイドの悪癖だ。しかし、自分はそれを含めて、ミチビキという存在を好意的に見てるのだろう。
「善処はする」
フェリーチェの返答を耳にしたミチビキは静かに頷いた。それからすぐに、若干の苦笑へと変わった。
「本当はフェリーチェさんに抱きつきたいです。フェリーチェさんに思いきり抱きしめられたいですし、フェリーチェさんを思いきり抱きしめたいです」
「それは、まだ早い」
「分かっています。僕は待ちます。僕は機械ですから、待つ事は得意です」
ミチビキの白金色の前髪の下にある、苦笑いからはにかみへ変じた表情が、更に純粋な笑みへと変わった。今は「結論」を急ぐべきではないというフェリーチェの考えが伝わったようだ。
昨晩のクレールとストームのように、自分がミチビキの頬や首筋を撫でる事を想像した。かすかに体が疼いたので、フェリーチェはすぐさまその空想を脳裏から消し去る。
ミチビキに釣られて、フェリーチェもまた視線を落とした。そこには藍色のローブの裾から出ている両手が、相手の両手と繋がっている。
「こうやって手を繋いでいるだけで、僕はとても幸せな気分です。もしかしたら、僕は自分で考えているよりも単純な機械なのかもしれません」
再度ミチビキの顔を見ると、またもやはにかんだ笑みでフェリーチェを見つめるミチビキがいた。機械だけではなく、人間も巨鳥も、本質的な「構造」は複雑ではないのかもしれない。あるいは、複雑であるがゆえに、単純でありたいと願うのかもしれない。その真相は、フェリーチェには分からない。
「ミチビキ」
「どうしました、フェリーチェさん?」
フェリーチェが呼ぶと、ミチビキはかすかに首を傾げた。この感情が複雑なのか単純なのか、フェリーチェには分からない。だが、自分の両手の体温を吸い続けるミチビキの両手が疎ましくないと感じる事だけは確かだ。
「親しい間柄なら、敬称をつける必要はない」
フェリーチェの言葉の意味を、前世界で製造されたというアンドロイドは瞬時に理解しただろう。だが、自分と手を繋いだままのミチビキは僅かに目を泳がせて、
「あ、あ、あの……本当に……呼び捨てでもいいでんすか……?」
「俺は構わない。俺はミチビキにそうしている」
「それはそうですけど……」
縋るような目つきのミチビキに、フェリーチェは即答した。自分たちは情動に溺れる事は許されない。しかし、今この瞬間だけは、ここにいるのは自分たちだけだ。この時間、そして今後も、多少の戯れを興じても許されるだろう。
「フェ……フェリー……チェ……」
フェリーチェから視線を逸らしながら、ミチビキがフェリーチェを呼んだ。
「ああ」
ミチビキを直視したまま、フェリーチェがミチビキに答えた。
「フェリーチェ……僕は……フェリーチェが大好きです……」
「ああ、知っている。それから、敬語も不要だ」
「ああ……! やっぱりとても恥ずかしいです……!」
赤を紅潮させたミチビキが俯き、フェリーチェと手を繋いだまま腰を落としてうずくまった。ミチビキはおそらく前世界製アンドロイドの中でも特に高性能であるがゆえに、人間と同じ感情を備え、人間の生理反応を模した仕草が可能なのだろう。その機械人形に手を引かれ、フェリーチェは中腰になった。
「ミチビキ」
「はい……」
フェリーチェの呼びかけに、ミチビキは顔を上げずに答えた。それでもフェリーチェは続ける。
「ミチビキは可愛らしいな」
「っ!?」
驚いたミチビキが、すぐさまフェリーチェを見つめた。頬は紅く染まったままであり、目尻には小さく涙が溜まっている。この少年を可愛らしいと表現しなかったら、何がそれに相当するのだろうか。フェリーチェは知らない、知りたくもない。
小さく震える瑞々しい唇に、自分のそれを重ねたくなる。両手だけではなく、唇でもミチビキと繋がりたい欲望が疼く。だが、それは今の累卵楼では過ぎた真似だ。そして、自分は可能な限りミチビキの足枷になりたくはない。
せめて、自分を見つめるその瞳の涙を指で拭き取るべきだろうか。フェリーチェがそう考えた時、立ち上がったミチビキから予想外の反撃が飛んだ。
「……僕から見たら……フェリーチェの方が可愛い。僕にとって、フェリーチェは世界で一番可愛い男の子。僕が大好きな、世界で一番可愛い男の子。それがフェリーチェ、あなただ」
「…………」
フェリーチェは言葉を失った。自分はあのダイヤモンドクレールの直弟子だ。これまで、他の賛辞を受けた事はあるが、「可愛い」と評されはしなかった。初めての経験に、喜びも怒りも表情に出さないフェリーチェの内なる思考は、混乱を極めた。
「……フェリーチェさん? たぶん僕もですけど、顔がすごく赤くなっていますが?」
フェリーチェは咄嗟にミチビキから視線を逸らした。可愛いと言われてから、顔面の火照りが止まらない。「アンドロイドよりもアンドロイドのようだ」とよく評される自分が、そのアンドロイドと同じ反応を、自分の意思とは関係なく晒している。
だが、ミチビキが相手なら、嫌悪の感情は生まれない。それこそ先ほど明言を避けた「答え」なのだろう。なぜミチビキが自分を好くようになったのかは定かではない。そして、それはフェリーチェも同様だ。それこそ好意の本質なのかもしれない。
「敬称も敬語も不要だと伝えた……」
顔と視線をミチビキから逸らしたままのフェリーチェが、震えそうになる声を喉で押さえつけながら呟いた。ミチビキを直視できないがゆえに、多重視点魔法を用いる。閉じた瞼に力を込めたアンドロイドが、叫ぶように呟いた。
「……フェリーチェ、顔が真っ赤になっている姿もとってもとっても、と〜っても可愛い!!」
それを聞いた瞬間、全身が燃え上がるような感覚に襲われた。しかし、フェリーチェはそれにどこか心地よさを感じた。そして、突如として閃光に包まれると二つの視線が急降下し、装置で相殺しきれなかった風に体がかすかに煽られた。
「フェリー……チェ……?」
フェリーチェはミチビキの足元を見つめる二つ目の視線を上げた。そこには、紅潮した顔面で唖然とし、両手はフェリーチェと繋いでいたままの形で固まっている、自らの体より何十倍もの巨大なミチビキがいた。
『心配は無用だ……』
フェリーチェが発した声は、やはりカナリアの鳴き声であった。おそらく、耐えきれない気恥ずかしさが引き金となり、変身魔法が暴発したのだろう。
解除魔法の術式を脳裏に素早く展開すると、全身がまたもや閃光に包まれ、フェリーチェは人の姿に戻った。だが、ミチビキを直視できないままであり、羞恥心により再び手を繋ぐ事はできない。
「僕に可愛いって言われてカナリアになっちゃうフェリーチェってと〜ってもと〜っても、と〜〜〜っても可愛い!!!」
またもや絞り出すように半ば叫んだミチビキの言動によって、またもやフェリーチェはカナリアの姿になった。再三に渡って「可愛い」と告げられ、フェリーチェの脳裏は城下町の景観よりも混沌を極めた。それを言い続けたミチビキも、両手で顔を覆いながらうずくまった。
ミチビキに自分の「弱点」を見つけられ、それを握られた事が、恥ずかしくもあり、嬉しくもある。それがミチビキだったからよかった。それがミチビキだからよかった。赤いカナリアの目尻に、うっすらと涙が溜まる。
「フェリーチェさん……やっぱり敬称も敬語も使わせてください……フェリーチェさんの事が大好きですが……このままでは感情によって引き起こされる負荷が高すぎて……僕の量子系
「了解した……」
ハルクエンジンを着装していないミチビキは魔力を有しない。それゆえに、フェリーチェは自身の魔法でカナリアの声を人間のそれに変えて返答した。
顔を伏せたままのアンドロイドと顔を逸らしたままのカナリアが、しばらくそれを続けた。フェリーチェに心地よさをもたらしていた全身の昂まりが鎮まりかけた頃、ミチビキが静かに顔を上げ、カナリア姿のフェリーチェを見つめた。
「だけど、たまには呼び捨ての敬語なしで話させてほしい、フェリーチェ」
「……ミチビキ、楽しんでいないか?」
ようやくミチビキの顔を直視できるようになったフェリーチェは、それを見つめ返しながら問いを投げかけた。ミチビキは肉ではない舌を唇の間から覗かせながらはにかんだ。
「僕にとって、フェリーチェさんは
そののち、ミチビキはフェリーチェの左右から、両手で掬い上げるようにカナリアを手のひらに乗せた。フェリーチェもまた、それを厭う様子を一切見せず、自ら進んでアンドロイドの手に細い趾を置いた。
フェリーチェを乗せたミチビキの両手は、主たるミチビキの顔面へと近づいた。フェリーチェはその意味を理解した。そして、瞳を閉じ、ミチビキを信頼する事にした。
「フェリーチェさん、大好きです。これはその証です。この程度は許してください」
カナリア姿であるフェリーチェの小さな額に、頭を振って前髪を左右へ割ったミチビキが己のそれを重ねた。
****
「お師様、このあとはあ?」
「一度ハウスコイルに行く。お前のハルクエンジンの修理だ。それから、ブレードの整備と改良を頼んでいる」
「そうなんだあ! おソノさんもレーレも絶対嬉しがるだろうなあ! 伝説のフリッシュの大剣なんだからあ!」
「今はお前のものだ。お前が勝ち取ったものだ」
「ところでえ、ちょっと話が戻るけど、改造しちゃうのお? お師様も、お師様のお師様たちも使ってたものだよねえ?」
「今の僕には不要だ。好きに使え」
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