Day26 深夜二時

「香坂くん、まだあのアパートに住んでるんだよね?」

 喫茶店でのアルバイト中、ふと客が途絶えた瞬間を見計らったように店長が話しかけてきた。おれの母親くらいの年の女性で、茶髪に赤いメッシュを入れたショートヘアがよく似合うひとだ。

「ああ、はい」

「人亡くなったんでしょ? 最近住人さんも減ったみたいだしさ」

「ですね。なんか急に引っ越しちゃったりとかして」

「あたし思うんだけどさ、きみも引っ越した方がいいよ」

 店長は苦い顔で言った。正直なところ、とうとう言われたか、と思った。

「ですよね……」

「あたしが不動産屋紹介してあげっからさ、早く引っ越しな。あそこ変だよ。いくら家賃が安くてもダメ」

「まぁ幽霊みたいなのは出ますけど、うちのは無害ですよ。なんか立ってるだけだし」

「立ってるだけでもだーめ。ていうか香坂くんさぁ、もしかして別の部屋の幽霊まで見えてきてないでしょうね?」

 なんか、小学生に戻って先生にいたずらを発見されたときみたいな気分になってしまった。おれは何も答えなかったけれど、リアクションでわかったのだろう。店長はため息をついた。

「はーっ、ダメなのよそれはもう。前も言ったけど、あたしあそこの管理会社に勤めてたおじさんと知り合いでさ……いいや、言うより見た方が早いでしょ。香坂くん、今日この店に泊まりな」

「はい?」

「いいからここに泊まって、夜中に自分ちの玄関見てごらん!」

 逆らえる感じじゃなかったので、一晩店で寝泊まりすることになった。


 バイト先のテーブルで勉強するのは新鮮だな、なんて思いながら深夜を待った。店長は二階の住居部分に引っ込んでしまったから、店にはもうおれ一人きりだ。

 なるべく金のかかることはしたくない。当然引っ越しも避けたい。店長は「不動産屋を紹介してくれる」って言うけど、あそこまで安くて便利なところをもう一度借りられるだろうか?

 とはいえ最近、アパート内で何かが変わりつつあることも確かだ。前よりも雰囲気が暗く、どこかピリピリしているような気がする。

(そういえば、201号室に引っ越してきた人も『ほかの部屋の幽霊が――』とか言ってたな)

 あれ以来見かけていないけど、思い出すと余計に気になってきた。プレゼンの原稿を作っておかないといけないのに、集中力が切れてなかなか進まない。それでもなんとかやるべきところを終え、時計を見るともう午前二時になっていた。おれは窓越しに、通りの向こうにあるサマーブルーム102号室のドアを見た。

 何もない。外廊下の明かりが時々点滅して、いかにもホラー映画みたいな雰囲気だが、それだけだ。

(何が起こるのかくらい、店長に聞いておけばよかった)

 そう思った瞬間、廊下にふっと人影が現れた。

 どこからやってきたのかわからなかった。101号室の前あたりに突然降ってわいたそれは、黒くて小さい。子どもだ。顔を伏せているが、101号室の幽霊だろう。

 子どもは下を向いたまま、ゆっくりと歩くような速度で102号室の前に移動した。そして、じっと立っている。普段おれが部屋で寝ている間に、こんなことが起きていたのか――と思えば気味が悪い。とはいえこれなら今まで通り無視していればいいんじゃないか、などと考えていると、突然隣のドアがぱっと開いた。

 101じゃない、103号室のドアだ。無人のはずなのに。

 開け放たれたドアの向こうは真っ暗にしか見えない。その闇の中から、同じくらい真っ黒な人影がぬっと出てきた。ひとり、ふたり、三人……ぞろぞろと外に出てきたそいつらは、おれの部屋のドアの周りにどんどん集まってくる。

「見えた?」

 突然声をかけられて、飛び上がりそうになった。振り向くと、帰宅したはずの店長が立っていた。

「そのうち入ってくるかもよ……」

 102号室の前には、いつのまにか真っ黒な人だかりができている。それを眺めながら、さすがに潮時かもしれない、と思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る