Day14 さやかな

 201号室のひとが引っ越したらしい。

あたしが泊めてもらった次の日からいなくなったから、完全にあのときのことが原因だと思う。

 だとしたら申し訳ない。悪いことをしたと思うけど、隣に住んでるだけのひとだったから、連絡先とかわからなくて、あたしにはもう謝るすべがない。


 あの夜落とした鍵は、アパートのゴミ捨て場の近くで見つけた。拾っていたところを203号室のひとに出くわして、ちょっと立ち話をした。

「やばくないですか? それ」

 あたしより少し年上くらいの女の人は、そう言って顔をしかめた。まぁ酔っ払って部屋の鍵落とすのはふつうにやばい。責められてもしょうがないなと思っていたら、

「たとえば誰かが鍵を盗んで、勝手に合鍵作って、用済みになったのをそのへんに捨ててったんだとしたら、すごい怖くないですか?」

 と言われた。

 そのとたん、背中が冷たくなった。

「お隣さんも一人暮らしでしょ? 若い女の子だし、ストーカーとか気をつけた方がいいですよ」

 203号室のひとはそう言って去っていったけど、あたしは足が動かなかった。そうだ、前に似たようなことがあったんだった。どうして忘れてたんだっけ。思い出さないようにしてたんだっけ。そうか。


 あたし、昔はもっと明るい子だった。

 名前に「明」って入ってるのが、我ながら似合ってたと思う。明香。さやかって読む。「くっきりと澄んで明るい」って意味だって、教えてくれたのはおばあちゃんだった。もうとっくに死んじゃったけど。

 もしもあたしがあのまま、明るいままのさやかだったら、今頃どうなってただろう。

 夜明け前、ベロベロになって帰ってきて、トイレで吐いて、便器の上に伏せたまま考え事をした。ふつうに学校行って就職して、昼間に会社員とかやってるあたし。ふつうに彼氏作って結婚とかして、こんな幽霊屋敷みたいなアパートになんか絶対住まないあたし。

 ふう、ふう、と呼吸の音がした。生暖かい息が、耳の後ろにかかった。

 あたしは何もしなかった。きっといつもの幽霊だ。そう思うことにした。

 少し前に聞こえた玄関が開く音も、足音も、全部なかったことにして、便器に伏せたままじっとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る