ブルースプリング・イン

渡橋銀杏

プロローグ

 窓の外からけたたましい音楽が響いてきたのを聞いて、私は窓をぴしゃりと音が経つように閉めた。ここから見下ろした中庭のステージでは、軽音楽部の人気バンドがギターをかき鳴らし、ドラムを打ち鳴らし、ボーカルがタオルを回しながら跳ねながら歌っていた。別になんてことのない文化祭のありふれた光景でしかない。


 閉め切ったはずの窓がぴりぴりと揺れて、そこから音が漏れて聞こえてきた。そして大きく盛り上がって、フィニッシュ。わずかな声しか聞こえないけれども、それでも観客たちの動きを見ていればよくわかった。ライブは大成功だ。


 楽しそうに見えるし、羨ましいと思うけれども私とは違うのもわかる。


「はぁあ。仕方ないよね」


 その音が嫌いなわけじゃない。人の好きな音楽を否定するつもりもないけれども私はどうもロックには共感できないでいた。文化祭のバンド演奏と言えばロックバンドだってことも頭でよくわかっている。それは、去年も嫌と言うほどに聞かされて経験したから。だから、今年は好きなようにやることにしてみた。自分だけの空間で、自分だけの音楽を。


 第二音楽室のカーテンを閉めて、明かりも最低限に減らす。その中で目の前にある鍵盤は薄ぼんやりと光り輝いていた。シの音に指を置くと、ポーンと響いてそれが音楽室特有の赤紫のぶ厚いカーペットに吸い込まれて消えていく。こんなに綺麗な音ばかりを吸っているのに、カーペットは黒ずんでいて、それが不思議でなぜだか笑えてしまった。どうやら私はえらく機嫌が良いらしい。


 結局、私はこの狭い空間でのみ、自分の演奏を好きにできるのだ。


 先生には一応、ライブをやると伝えて文化祭の期間中だけこの部屋を自由に借りたけれども、軽音楽部みたいにチラシなんかを製作して掲示板に張るなんてことはしない。どうせ、みんな興味なんてないだろう。


 外はキラキラしている。そう思うけど、きっとそこにはいけない。


 そう諦めながら、私はラジカセのスイッチを入れる。高くて重い分だけ音質は良くて、ずんずんと響いていた。音楽室の部屋の壁、それにある穴からも反響して音が聞こえているような感じがする。世界中、いやこの小さな第二音楽室だけなんだけど私が選んだ音楽がそれを支配している。その演奏に合わせてピアノの鍵盤に指を重ねて体重を少しだけ前にかける。音と音が重なって更に強くなる。


 ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』


 何度も何度も聞いた音だから、自然とリズムが合う。演奏する映像が脳裏に浮かんで、自分でピアノを弾いているはずなのにどこかから自分を俯瞰した視点で見ている光景。その姿が重なり、自然と頭が揺れる。ピアノを始めるまで、あれはパフォーマンスの一種だろうと思っていたけれども、美しい旋律に人は心を躍らせる。


 それを表現するのが演奏をしながら精一杯に身体を動かすことだった。


「ふぅ……」


 一曲の演奏が終わって、汗を拭う。普段は第一音楽室を吹奏楽部が、第二音楽室を合唱部が使用しているからこんなに大きな音でジャズを聴くことなんてできない。当たり前に家の中では近所に迷惑だからと怒られる。


 だから、精一杯に自分の好きなものを表現できる場所が欲しかった。


 たまにこの一人の空間で思いっきりジャズを楽しむ時間があればいい。


 この日までは、そう思っていた。


 そろそろ先生と約束した時間だから、最後の曲。


 美空ひばりの『薔薇色の人生』


 歌姫のジャズ。演奏だけのはずなのに、その声が聞こえてくるくらいに絶対的な存在。この曲が私は好きなんだけど、こんな風には歌えない。下手くそでも歌えばいいと思うけれども、私はどうしても自分の声がその歌を汚してしまうように感じてしまってそれを受け付けられなかった。だから、私は静かにピアノを弾く。


 それが正解だと、少しだけ無力な自分を悲しく思いながら。


 音楽に没頭していた。歌が歌えればきっと違うんだろうと思いながら。


 そこまでは良かった。好きなジャズを好きに流して、音楽室という環境で高音質のスピーカーで広がった音を存分に身体に感じながら演奏して。なんて素敵なことなんだろう。このまま学生生活の五本の指に入るくらいには幸せな思い出になるはず。


 そこで終わるはずだった。


「あーっ!!」


 ここから最後にピアノを弾ききって気持ち良く終わろうとしていたのに、誰も手をかけていなかった第二音楽室のドアがガラガラと音をたてながら開いた。そして、その瞬間にまるで飴細工のように綺麗な目がこちらを一点で見つめながら、音楽室に残るわずかな光を集めて輝いていた。


「この曲すごくいい! って、伊藤さんだよね?」


 軽音楽部の『Rong boots』のボーカル、海老原綾香だった。その輝きはどれだけ暗くても間違うはずがなかった。

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