第33話 アンチコメント
──月曜日。会社帰り。
夏生は駅に向かって歩きながら、スマホを操作する。通話ボタンを押して、スマホを耳に当てた。
「もしもし、母さん? 俺、夏生だけど。あのさぁ、ちょっと送ってほしいものがあるんだけど……」
実家に電話して、コンクールに参加していた頃の写真などが残っていないか母に確認する。そして、それらが残っていたら、こっちに送ってくれとお願いした。
昨日のうちに、参加していたコンクールのことをネットで検索してみたけれど、やはり時間が経ち過ぎているのか、それとも個人情報の関係なのか、七沢のことも自分のことも出てこなかった。
帰り道、スーパーに寄ってお弁当を買う。
自宅へ到着すると、先にお風呂を済ませ、それから夕飯のお弁当を食べることにした。テーブルの上に、ノートパソコンを広げ、動画の編集作業をしながら、もぐもぐと口を動かす。
夕飯を食べ終わると、編集作業を一気に終わらせるべく、キーボードをカタカタと打った。切り貼りした動画の最終チェックをする。特に変な繋ぎになっている箇所もなさそうだ。夏生は、パソコンのエンターキーをタンッと強く押した。
昨日、羽田空港で撮影したストピの動画ができあがった。まずは一曲だけ。第三ターミナルのアップライトピアノで弾いた曲を、動画サイトに投稿する。マウスをカチカチと動かし、『投稿完了』の文字が画面に浮かび上がった。
(昨日の演奏は、結構良かったと思うんだよな~! 反応楽しみだな)
夏生は、天井に向かって両手をぐっと伸ばし、背伸びをした。腕を下ろすと同時に、ふーっと息を吐く。立ち上がってキッチンへ向かうと、電気ケトルでお湯を沸かす。少し遅い食後のコーヒーを飲むのだった。
* *
──火曜日。
帰宅して、夕飯を食べてから、ノートパソコンを立ち上げる。
自分のチャンネルを開いて、昨晩投稿した動画を開いた。今日は帰りの電車が満員で、スマホでコメントを見る時間を取れなかった。
(最近、この瞬間が一番ワクワクする。今回は、どんなことが書いてあるかな?)
いつも聴いてくれている常連さんたちが、『ナツキ君の演奏好き』『演奏の最後ウルッときた』など書き込んでくれている。オススメ動画等で、この動画に流れ着いた人たちも『音がキレイ』『聴かせてくれてありがとう』など、感じたことを書き込んでくれていた。
その言葉ひとつ、ひとつが自分に活力をくれる。ああ、弾いてよかったなと思える瞬間だった。
夏生は、新着の順にコメントをチェックしながら、頬が緩むのを止められなかった。そして、一番最後の書かれたコメントを目にしたとき、マウスを動かす手が固まってしまった。
『全然ダメ。つまんない。自分に酔いすぎてて笑う』
ドキリと心臓が跳ねる。
ここ最近、あまり見かけなかったコメントの類──アンチコメントだ。
初めて見るアイコンの人だ。たぶん新規でこの動画にたどり着いた人だろう。アイコンの背景色は赤色で、アルファベットの『V』の文字は白色で表示されている。
夏生は、そのコメントにカーソルを合わせ、『削除』を選んだ。自分の視界からその文章が消えて、ほっと息を吐く。
「よいしょ……っと」
声を出しながら立ち上がる。キッチンへ行き、お湯を沸かした。そして、コーヒーを淹れて、ノートパソコンの前に戻ると新しいコメントが書き込まれていた。その人のアイコンには『聖』の文字。ヒジリさんだ。
『音が踊っているようですね。映像が頭の中に浮かびます。幸せのひとときをありがとうございます。また、素敵なピアノを聴かせてください。応援しています』
「あ。嬉しい……ありがとう。ヒジリさん」
口から感謝の言葉が零れた。先ほど、アンチコメントを目にしたばかりだったからかもしれない。ヒジリさんの優しい言葉が沁みる。
夏生は、手の中にあるコーヒーを飲んで、少し沈んでいた気持ちを浮上させた。
* *
四日ごとにサイトへ演奏動画をアップする。
新しい動画を上げるたびに、『V』さんからアンチコメントが届いた。しかも、毎回、その人が一番最初にコメントを書き込んでいた。攻撃的なコメントは他の人が動画を見たときに、不快になる人も少なくないらしい。
自分を応援してくれている常連さんたちが、次第に『だったら見なければいいのでは?』と、Vさんに対して返信コメントを書き込むようになってきた。
夏生は、慌ててマウスを操作し、その元凶となっているコメントを削除した。
(本当に、俺の演奏が好きじゃないのなら、動画を見なければいいのに……)
そんな気持ちが湧いてくる。
たくさんの人に見られれば、アンチも生まれることは知っていた。しかし、不快になる演奏だと毎回主張するのなら、もういっそ見ない方が、お互いの平和に繋がるのではないだろうか。
何度もそういったことが続き、最近は動画投稿した後、『またあのアンチコメントがくるのかな』ということを考えるようになってしまった。そして、その予想を裏切ることなく、Vさんはアンチコメントを残していく。
「はぁ……」
ため息をつくことも多くなった。モヤモヤとした気持ちが、なかなか晴れない。
マウスをぐるぐると動かし、自分の気持ちを誤魔化す。
「あれ……?」
新しいコメントが書き込まれている。そのコメントはヒジリさんだ。Vさんとは対照的に、自分を褒める内容が書かれている。それを読んで、それまで強張っていた頬が緩むのが、わかった。嬉しい、と心が浮上する。
夏生はトイレに行きたくなり、立ち上がった。用を足して、ノートパソコンの前に戻ると、Vさんから新しいコメントが書き込まれていた。そのおかげで、せっかく浮上した心がまた沈んだ。
(なんでこの人は、こんなに執拗に書いてくるんだ……?)
背中に、じわりと嫌な汗が浮かぶ。
夏生は思わず、右親指の爪を噛んだ。
「何なんだよ……この人……」
部屋の空気が、じっとりと重い。
夏が近づいている。夜でも暖かくなった外では、虫が舞い始めた。
窓には、部屋の明かりに吸い寄せられた虫が張りついている。
夏生の背中にもTシャツが張りついていたのだった。
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