第22話 もう一度約束を

 夏生は、風呂を出て、借りた服に着替えた。

 白いシャツに黒のパンツを身につける。


 自分と七沢の身長はあまり変わらない。彼の方が二、三センチ高い程度だ。

 筋肉のつき方に違いはあれど、体形は大きく変わらない。借りた服のサイズ感はちょうどよかった。


 洗面所の扉を開け、廊下を歩く。リビングに続くドアを開きながら、七沢に声をかけた。


「風呂ありがとう。スッキリしたよ」

「そうですか。それはよかった」


 七沢の返事は、キッチンから聞こえてきた。

 彼がそこから出てきたと思ったら、手にはお椀の載ったトレーがあった。

 それを食卓テーブルまで運んで、お椀をテーブルに並べ始める。

 ふわりと漂う味噌汁と玉子焼きの匂いが、夏生のお腹の虫を刺激した。


「お腹、空いてますよね? よかったら、食べて下さい」

「……なんか、何から何まで悪いな……。ありがとう。お言葉に甘えて、いただきます」


 夏生は椅子に座って、両手を顔の前で合わせる。

 七沢も向かい側に座ると、手を合わせてから、箸を取った。

 夏生は、まず玉子焼きに手を伸ばし、次にご飯を食べる、味噌汁の椀に口をつけ、一口飲むと、ほっと息を吐いた。


「あぁ……誰かの作ったご飯とか久しぶりすぎる。みる~……」

「あれ? そうなんですか? そういや、風呂に入る前に、俺に彼女いそうって言ってたけど、夏生さんは? 夏生さんのほうが、いそうな気がしますけど」

「いない、いない。全然いない」


 箸を持ったままの右手を軽く振った。自分の返事を聞いた七沢が、少しほっとしているように見えたのは、気のせいだろうか?


「夏生さんなら、会社とかでモテませんか……?」

「モテるって話しだったら、どう考えてもそっちだろ? 顔面偏差値が違いすぎる。会社でモテ……まぁ……ないとは言わないが、その、なんだ……相手の顔に大きく『結婚』の二文字が浮かんでいるのが見えると、どうにも気が進まなくて」

「ああ……わかる。その気持ち、めちゃくちゃ分かります」


 七沢は口をつけていた味噌汁を飲んだ後で、はーっと息を吐きながらそう言った。この男も、身に覚えがあるんだろう。もう一度、「わかるなぁ」と同じ言葉をつぶやくと、更に口を開いた。


「恋愛をすっ飛ばして、『結婚』って書いてありますよね」

「それに気づいちゃうとさ、相手は別に俺じゃなくてもいいだろって思っちゃうんだよな」


 大の男がふたりで、しみじみと語る。こういった内容の話はデリケートで、相手を選ぶ必要がある。なぜなら、人によっては、モテアピールだと取られかねないからだ。

 夏生は、玉子焼きに箸を伸ばして、口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼し、飲み込むと、「でも」と続けた。


「顔が良くて、料理もできて、嘔吐した人間の世話までやってくれる男は、そりゃどう考えても優良物件だろ。七沢に群がる人の気持ちも、ちょっとわかるかも」


 七沢も玉子焼きに手を伸ばし、口に運ぶ。咀嚼し、ゴクンと飲み込んでから、口を開いた。


「……それじゃあ、夏生さんが、群がってみます?」

「は?」

「今、言ってくれたじゃないですか。優良物件って。どうですか? お得ですよ?」


 目の前にいる顔面偏差値の高い男が、ニコッと笑って見せる。それはどう見ても営業スマイルだ。

 胡散臭い笑顔には、騙されないと言わんばかりに、夏生はジト目で彼を見た。


「なんだ。朝の『付き合う』って話の続きか? どうせまた、揶揄からかうつもりだろ? もうその手には乗らないからな?」

「ええ……? 冗談じゃないのになぁ……」

「冗談じゃなかったら、もっとタチが悪いわっ!」

「夏生さん。お箸で人を指すのは、行儀が悪いですよ」

「お前は、俺の母親か!」

「俺も、こんな子を産んだ覚えはありませんねぇ……」


 お互いに顔を見合わせて、どちらともなくブフッと吹き出した。

 今、口の中に食べ物を入れていなくて、よかった。もし、入れていたら、確実に食べ物を七沢の顔に飛ばしていた自信がある。

 ふたりで、くっくっくっと身体を震わせた。それが過ぎ去るのを待つ。

 少しして、落ちついたところで、七沢が話しかけてくる。


「夏生さん。そろそろ、お茶でも飲みますか? 緑茶でも大丈夫ですか?」

「あ、うん。大丈夫」

「それじゃ、ちょっと待っててくださいね」


 七沢は席を立つと、キッチンへ向かった。

 電気ケトルでお湯を沸かしている間に、急須に茶葉をセットし、食器棚から湯呑を出しているようだ。

 カチャカチャとした音が夏生の元まで届く。お湯が沸き、お茶を淹れた七沢が、それを運んできた。


「どうぞ」


 そう言って、七沢が淹れてくれたお茶が差し出してくる。

 夏生は、「ありがとう」と言って、差し出されたそれを受け取り、口をつけた。

 先ほどのご飯もそうだが、お茶も沁みる。自分でお茶を淹れるなんてことは、ここ何年もやっていない。お茶はいつもペットボトルで済ませているし、自分でやるのは、せいぜいインスタントコーヒーくらいだ。

 夏生は、ほぅと息を一度吐いて、またもう一口、お茶を飲んだ。そしてまた、息を吐く。


「はぁ……沁みる」

「夏生さん。ちょっとおじいちゃん入ってません?」

「……ばぁさんや。飯はまだかのぉ……」

「おじいさん。ご飯は、いま食べましたよ」


 七沢が、自分のボケに乗ってくれた。先ほどと同じような流れになって、また、お互いに身体を震わせて、くっくっくっと笑う。


 朝食を食べ終わり、茶碗をキッチンのシンクへ運んだ。

 ご馳走になったのだから、と洗い物は自分が引き受ける。スポンジに洗剤をつけて、泡立て、茶碗を洗っていく。そして、泡を水で洗い流し、水切りラックに並べていくと、隣に立っている七沢が、濡れた茶碗を手に取って、布きんで拭き始めた。


「七沢って、もしかして毎回布きんで拭いてるの? 俺、水切りラックに置いて自然乾燥派なんだけど」

「数が少ないので拭いておくほうが、面倒じゃないんですよ」

「そうなんだ。……って、そういや、この家は、ひとりで暮らしてるのか?」

「今はそうですね。実はここ、祖母の家だったんですけど、リフォーム後くらいに亡くなりまして……知らない人に貸すのも嫌だし、どうしようかって話になったときに、たまたま俺に白羽の矢が当たったんです。そういう夏生さんは? ひとり暮らしですか?」

「うん。ひとり暮らし。俺、実家は愛知のほうなんだよね」

 

 そんな他愛のない会話を交わしながら、少しずつお互いのことを知っていく。それが楽しくて、つい長居してしまった。気づいたときには、時計の針はお昼を指していた。

 夏生は、そろそろ帰ると言って、家を出る準備をする。汚れた服はビニール袋に包んであったので、それを紙袋に入れた。汚れていない上着は左腕にひっかけて、ビジネスバッグを手に持って、靴を履く。


「お邪魔しました。借りた服は、また今度返すよ」

「……それもいいですけど、次は俺が夏生さんの家に遊びに行ってもいいですか? 服はそのときにでも」

「いいけど……俺の家のピアノは、電子だよ? 七沢の興味を引きそうなものはないと思うけど……」

「……いいんです。興味はそっちじゃないんで」

「ん? ごめん。なんて言った? ちょっと聞こえなかった」

「いえ、なんでもないです。それじゃ、約束ですよ?」

「ああ。わかった」


 そう言って、七沢の家をあとにした。外に出ると、雲の隙間から陽が射していた。水溜りがそれを反射して、キラキラと輝く。湿気を含んだ風が、夏生の横を通り過ぎる。梅雨が明けるまで、あとわずか。

 マンションへ戻る頃には、額に薄っすらと汗が浮かんでいた。

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