第19話 七沢の家
「夏生さん……大丈夫ですか? 歩けます?」
心配そうに声をかけてくる七沢の顔が、すぐ横にある。
足に力の入らない夏生は、彼の肩を借りて、店を出た。
おぼつかない足取りで、駅に向かおうとするものの、真っ直ぐに歩けない自分は、隣にいる男に体重を預ける。
「ちょっ……しっかりしてください。なんで、こんなになるまで飲むんですか」
「うるさぁーい! 仕方ないだろぉ! お前が俺のこと許してくれて、ホッとしたんだからぁ」
「……そんなに気にしてたんですか」
「おまえのせぇで、ピアノを弾くモチベが、なくなったんだぞ! どうしてくれるんだ! 責任取れぇ~責任!」
夏生がそう言うと、七沢の足がピタリと止まった。
視界がふわふわと揺れている自分は、そのことに気づくまでタイムラグがある。
先に進んでいない──と、ようやく気づくと、七沢のほうに顔を向けた。
「責任ですか。……そうですね。夏生さん、俺の家ここから近いんです。よかったら来ませんか? もちろん、ピアノもありますよ?」
「ピアノ……? 行くっ!」
はいっ! と元気よく手を挙げる。それを見た七沢がクスッと笑った。
止めていた足を再び動かして、そのまま駅に向かった。彼に引きずられるような形で歩き、駅前のロータリーで待機しているタクシーを捕まえる。そして、七沢とふたりでタクシーに乗り込むと、七沢宅へ向かって走り始めた。
車の振動が心地いい。夏生は、七沢の肩にもたれた。そのとき、鼻腔にふわりと香水のような匂いが届く。その匂いには覚えがあった。
(これは……コイツの……初めて会ったときにも嗅いだ……)
ピアノを弾いていたら、七沢が突然横に座って、そこから連弾が始まった。右の腕も腰も、磁石のように彼にピッタリとくっついていた。七沢の指が動くたびに、ふわりと漂ってきた、いい匂い。あの日の匂いと同じ匂いがする。
夏生は、鼻をすんっと鳴らす。もう少しこの匂いを嗅ぎたくなった。七沢の肩に預けていた頭を少し浮かせると、今度は彼の肩に、自分の鼻先を埋めた。
* *
家の前で、タクシーが止まる。
車を降りると、そこにあったのは一軒家だ。門燈の明かりはついているが、中には誰もいないのか、部屋の明かりはついておらず、真っ暗だ。
門燈の明かりで表札が見えた。そこには『七沢』と書かれていた。
(七沢は実家暮らしなのか? それともまさか……持ち家?)
「夏生さん、歩けますか?」
「大丈夫。さっきよりはマシになったから」
そう言うと、七沢が先を歩き始めた。夏生は彼の後をゆっくりとついて行く。七沢が玄関の鍵を開けて、ドアを開いた。中に入ると、シューズボックスの横にラックがある。七沢は、そこから二足分のスリッパを取り出すと、玄関マットの上に並べた。
「散らかってますが、どうぞ」
「あ、ありがとう。お邪魔します……」
深緑色のスリッパに足を入れ、七沢の家にあがる。廊下を歩きながら、トイレの場所を教えてもらい、その先にあるリビングへ入った。部屋の中には、テレビやソファー、観葉植物などがあった。夏生はソファーに近づいて、その横にビジネスバッグを置く。すると、七沢が声をかけてきた。
「夏生さん。なにか飲みますか?」
「いや、まだお腹いっぱいだから、いらない」
右手を軽く振って、意思表示をする。その動きを見た七沢はクスッと笑った。
「なにか飲みたくなったら、そのときに教えてください。それじゃあ早速ですが、ピアノ見ますか?」
「見る見る!」
そう返事をすると、七沢が「こっちです」と言って、リビングを出て廊下を歩き始めた。後を追うと、先ほど教えてもらったトイレの向かいのドアを開ける。
部屋の照明をつけると、そこには、黒く
「うわ……グランドピアノだ。いいなぁ」
亡くなった祖母の家と実家にもピアノはあったが、アップライトピアノだ。そして、自分のマンションに置いているのは電子ピアノ。騒音対策を考えると、どうしてもそれしか置けなかった。
「この部屋は防音室になってますので、今の時間に弾いても大丈夫ですよ」
「えっ!?」
──こんな遅い時間にグランドピアノが弾ける!?
七沢がピアノの鍵盤蓋を開けた。どうぞ、と左の手のひらを見せて、勧めてくる。
夏生は、フラフラと吸い寄せられるように、ピアノへ近づいた。このフラフラは、酔っていたからでないと思う。
静かに椅子に座る。照明を反射する鍵盤も譜面台も、そのすべてがかっこいい。どこもかしこも輝くグランドピアノに、ほぅと感嘆のため息が出る。
鍵盤に指を置いて、ひとつ鳴らしてみた。音の波紋が部屋の中に広がって、とても綺麗だ。もう一度、鳴らしてみる。真っ白なキャンバスに、水彩の絵の具をすっと乗せたような、そんな感覚が頭の中に広がった。
「せっかくですし、なにか弾いてくれませんか? 俺、夏生さんの演奏聴いてみたいです」
七沢にそう言われて、何を弾こうかと考える。
考えたのは一瞬で、すぐに弾きたい曲が決まった。
彼に聴かせるのなら、これしかない──と、そう思った夏生は、七沢の顔を見て、「わかった」と返事をする。そして、鍵盤に両手を乗せた。
──左手を叩きつける。腹に響くような重低音が辺りに広がった。
この曲は、『リベルタンゴ』。
七沢に初めて会ったとき弾いていた曲だ。
夏生の頭の中に、深紅のドレスを身にまとった女が浮かび上がる。
彼女のルージュを塗った紅い唇が動いて、言葉をそっと〈紡いだ〉
〈さぁ、いらっしゃい〉
ドスンと椅子に衝撃を受けた。
左腰にぶつかるように当たってきたそれが、ぐいっと更に腰を押してくる。自分にぶつかってきた衝撃物は、七沢聖也だった。
夏生は自分のお尻の位置を右側へズラした。
鍵盤に集中しながらも、七沢のスペースを空ける。
椅子だけじゃなく、
──演奏のスペースも。
自分の指は鍵盤の右側。高い音に集中する。
打ち合わせもしていないのに、ここぞ、というタイミングで七沢の指が鍵盤に乗った。まるで阿吽の呼吸。そう言うのが一番正しいだろう。
そういえば、初めて会ったときもそうだった。乱入されたことだけが気になっていたが、あの日もこうやって、絶妙なタイミングで彼は入ってきたのだ。ひとつ違うことがあるとすれば、担当するパートが真逆になったことだけ。
七沢の指が、音を〈紡ぎ始める〉
彼の音が、夏生の耳に届いたとき、自分の頭の中に描いていた絵に、新たなる人物が加わった。
〈その人物は黒いタキシードを髪をオールバックにまとめた男だった。男は、深紅のドレスの女に近づいて、彼女の手を取る。女は顔を上げ、男と見つめ合った。彼女は、にっこりと微笑むと男の手を握り返し、一緒に踊り始めるのだった〉
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