第16話 雨と騒音

「畑中さん、お世話になりました。お邪魔しました」

「いえいえ。よかったら、また遊びに来てくださいね」

「えっ、いいんですか?」

「どうぞどうぞ。藤崎さんとピアノや動画について、話をするのは楽しいですから」

「あ、それは俺もです。じゃあ、また遊びに来ます」


 夏生はそう言って、畑中さんの家を出た。

 駅に向かって歩きながら、右手に持ったスマホを時折見るものの、送ったメッセージはまだ既読がつかない。

 はぁ……と、口から大きなため息が出る。


『楽しみにしていた俺が、バカだったってだけです』


(楽しみにしていたのは、俺も同じだったのに……)


 ──七沢を驚かせたい。あの男をギャフンと言わせたい。

 ──もう『つまらない』なんて言わせない。


 そう思って、約束をしたあの日から仕事が終わると、すぐ家に帰った。

 ご飯に風呂、トイレ、歯磨きと睡眠以外の時間は、すべてピアノの練習に費やした。動画編集も後回しにして、ピアノだけに集中したのだ。


 それなのに、約束の前日──金曜日の夜に、会社の飲み会で酒を飲み過ぎた。畑中さんを巻き込んだ上に、家にまでお邪魔することになった。そして、他人様の家のピアノに熱中したあげく、終電を逃し、翌日の予定を忘れて……このざまだ。

 何のために自分は前日までピアノの練習をしていたんだと、もう一度、深いため息をついた。


『もう結構です。言い訳はいりません』


 一度ならず、二度までも、あの男に呆れられてしまったのだろうか。


(あのときの連弾の相手が、俺だったことは、七沢は知らないけど……結局、同じ相手に二度も失望されたんだろうな……)


 自嘲気味の笑みがこぼれる。いつの間にか目線が下がり、ただ足元を見つめていた。


(俺は、七沢ともう二度とストピを弾くことは、できないんだろうか……?)


 駅へ向かう足が、だんだんと重くなってきた。

 空に浮かぶ雲も、自分の足取りに合わせるように鈍い鉛色へと変わり始めている。

 首の後ろを通り過ぎていく風も、梅雨独特の生温く、じっとりとしたものだった。


 ようやく駅に着いて、夏生は電車に乗った。

 そして、自宅近くの最寄り駅へ降りたときには、もう外は雨が降っていた。



 ずぶ濡れになって、自宅マンションへ戻る。

 雨を吸って重たくなったスーツを脱いで、そのまま浴室に向かった。シャワーを浴びて、少し冷たくなった身体を温める。部屋着に着替えてから、もう一度スマホを見てみた。しかし、七沢からの連絡はないし、SNSを開いてみても既読はついていなかった。


 夏生は、もう一度電話をかけてみる。コール音が数回続いたあと、留守番電話サービスに繋がった。自動音声が流れ始めたところで、耳からスマホを離して、通話を切った。


 今日、何度吐いたのか、わからないため息を、もう一度吐く。


 激しい雨が、部屋の窓を打つ。

 窓から見える空は、真っ黒な雲に覆われていて、まるで今の自分の胸の中を表しているようだった。


 * *


 ──翌朝。

 夏生は目を覚まし、枕元に手を伸ばした。スマホを手に取り、眠い目を擦りながら、画面を眺める。


(やっぱり……返事はない、か……)


 あの後も、七沢に何度かメッセージを送った。

 しかし、そのどれも読まれることはなかった。


 ──もう起きてしまったことを、変えることはできない。


 夏生は、布団から起き上がるとコーヒーを淹れた。気分を変えようと、たまっていた動画の編集作業に手をつける。しかし、どうにも気分が乗らない。ノートパソコンを開いたまま手が止まってしまった。


「…………」


 ため息と共にノートパソコンを閉じる。

 夏生は立ち上がると、部屋の隅に向かった。ピアノに座って、ヘッドホンを着ける。軽く深呼吸をすると、鍵盤に指を置いた。


「────っ!」


 両手の指を鍵盤に叩きつける。鳴り響く音は、耳鳴りがしそうなほどに大きかった。ヘッドホンから漏れそうなほどの大音量にもかかわらず、夏生は、気にすることなく、ただひたすらに指を走らせた。


 ──まるで己の不甲斐なさを、ピアノにぶつけるように。


 七沢との出会いは本当に最悪で、気分の悪いものだった。

 けれど、彼との出会いをきっかけに、自分のピアノに変化が起こった。

 目も耳も塞いで、向き合うべきことから、逃げ出していたことにも気づけた。


 ストリートピアノの仲間もできたし、少しだけ自分の世界が広がった。嬉しいことが徐々に増え、そして、もう一度、七沢と再会できた。

 連弾した相手であることは隠したままの関係が始まった。お互いにオススメの動画を紹介したり、それを見て、聴いて、感想を送り合ったりと、なかなか悪くない再スタートを切った。


 ──そうして、七沢にストリートピアノに誘われた。


 もし、あの日、七沢とストピを弾きに行けていたら、彼に演奏を聴かせた後で、『実はあの連弾の相手は自分だった』ということを打ち明けるつもりでいた。七沢を驚かせてやろうと思ったのだ。


 それを自らの手で台無しにし、挙句の果てには、七沢に呆れられ、現在は連絡すら取れない状態にある。

 

 ──寝坊をしただけ。連絡を忘れただけ。

 ──たかが、これくらいのことで。


 なんて、そんなことは思わない。

 まだ付き合いも浅く、お互いのことを、まだよくわかっていない状態だ。仕事での接点があるわけでもなく、近所に住んでいるわけでもない。そんな相手。

 片側が、連絡を取らないと決めたら、そこでプツリと切れてしまうような関係なのだ。

 不利益、ストレスになるのなら、即関係を断つ。

 SNSというツールが発達した今だからこそ、そういったことは、もう当たり前のことと化している。


「……くそっ!」


 ああ、歯痒い。なんて歯痒いんだ。頭の中に七沢の姿が浮かぶ。彼の背中を追いかけて、見つけて、その肩に手を置いて、ようやく振り向かせたと思ったら、姿が消えた。


 ヘッドホンから聴こえてくる自分のピアノの音は、まるで騒音。公害だ。

 粒の形も、その大きさも、すべてバラバラになって辺り一面に飛び散った。

 弾けば弾くほど、音のゴミが部屋の中を満たしていく。


 夏生は、そのゴミを薙ぎ払うように、鍵盤を叩き鳴らし始めた。

 しかし、その音は、またひとつゴミを増やすだけだった。

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