第14話 約束の日
「畑中さん。こんばんは」
「こんばんは。こんなところで会うなんて……すごい偶然ですね」
畑中さんが挨拶を返したところで、夏生は口元に手を添える。そっと彼に聞こえるくらいの小声で話しかけた。
「あの、すみません。少しだけ俺の話に合わせてもらってもいいですか?」
「突然、どうしました……?」
「いえ、ちょっと……」
自分の後方を見るようにチラッと目を動かす。その目の動きに気づいた畑中さんが、背後を見た。それだけで、なんとなく察しがついたらしい。ニコッと笑って「わかりました」と答えてくれた。
「おー? 藤崎ぃ~どうしたんだ? 誰? 知り合い?」
「あ、うん。友達」
「どうも、こんばんは。畑中と申します」
「これはご丁寧に、どうもどうも。俺は高橋でっす。藤崎の同僚で~す」
酔っぱらっている高橋は、元気に自己紹介をする。
隣にいる木村さんも「こんばんは」とお辞儀をして挨拶をした。
「畑中さん、ごめんなさい。俺、今日の約束を忘れてたみたいで」
「……そうですよ~。何度も連絡したのに、もしかして、会社の飲み会だったんですか?」
「そうなんです。会社の交流会があることを、すっかり忘れてて……それで、連絡を入れそびれちゃって」
そんな嘘の会話をしていると、高橋が「なんだなんだ?」と反応する。
「えっ? なに、藤崎……お前、今日約束入れてたのか」
「あー……うん。そうなんだよ」
「あっ! もしかして、お前が金曜日に早く帰るのって、この人と会うから!?」
「う、うん。まぁ、そんな感じ……?」
ストリートピアノで繋がりのある人だから、完全に外れているわけでもない。
高橋の言葉に疑問形で答えながら、そういうことにしておいた。
それを聞いた畑中さんがクスッと笑う。そして、二の腕の辺りをぎゅっと掴んできた。驚いた夏生は、彼の顔を見る。畑中さんは、笑顔を絶やさないまま口を開いた。
「飲み会は、もう終わったんですよね? だったら、今からちょっと付き合ってくれませんか?」
「え、あ……はい?」
「高橋さん、すみません。藤崎さんをお借りしてもいいですか?」
「どうぞどうぞ! じゃあな~藤崎! また月曜な!」
高橋はブンブンと手を振る。木村さんも少し残念そうな顔を見せながら、小さく手を振った。そして、あの二人は駅に向かって歩き出す。
その背中を畑中さんと一緒に見送った。
「……こんな感じで良かったですか? 藤崎さん」
「ありがとうございました。助かりました」
「女性の方は、藤崎さんに気がありそうな雰囲気でしたけど……」
「……どうなんでしょう? でも、畑中さんがそう感じたってことは、やっぱりそうなんですかね。ああ、よかった。高橋に彼女を『送っていけ』と言われたらどうしようかと、ちょっとハラハラしてました」
「藤崎さん、かっこいいですから。モテますね。いいなぁ~」
「いやいや。そんなことは、ないですから」
ハハハと笑ってその場を誤魔化す。そのとき、足元がフラついた。安心したせいか、足の力が少し抜けたらしい。
「おっと」と言って、畑中さんが背中を支えてくれる。
「あの、藤崎さん。僕の家、近いんで少し休んで行きませんか? そんなフラフラじゃ、危ないですよ」
「……え。いいんですか?」
「どうぞどうぞ。もう少しだけ歩けますか? タクシーを拾いましょう」
一度抜けた力は戻ってこず、正直この場に座り込みたい気分だった。夏生は、畑中さんの申し出に甘えることにする。
ふたりで歩いて、大きな通りに出た。タクシーをつかまえて乗り込むと、畑中さんが運転手さんに行き先を告げる。車はゆっくりと動き出す。夏生は窓の外を眺める。赤や黄色の光が流れていくのを、ただじっと見つめていた。
* *
タクシーに乗って十分ほど経った頃、目的地に着いた。
そこはマンションで、三階の角部屋が畑中さんの部屋のようだ。
「少し散らかってますが、どうぞ。あ、ソファーにでも座ってて下さいね」
玄関を開けて中に入る。畑中さんは、散らかっているなんて言っていたけれど、通された部屋は、きちんと片付いていて、とても綺麗だった。
壁際の中央には、この部屋の主だと言わんばかりの電子ピアノが置かれている。ピアノの隣にはパソコンが置いてある机と椅子があり、タブレットやスマホの充電ケーブルなど、ガジェット類がまとめて整理されていた。
夏生は、案内された通りにソファーに腰を下ろす。柔らかいクッションに、全身を預けた。
「藤崎さん、お水がいいですか? それとも、コーヒーか何か飲みますか?」
帰ってくるなりキッチンへ向かった畑中さんが、そう声をかけてきた。
喉が渇いていた夏生は、「お水を」と答える。冷蔵庫が開く音がして、コップに水を注ぐ音が聞こえてきた。
畑中さんが水の入ったコップを手に持って、こちらへやって来た。「どうぞ」と言って、それを差し出す。夏生は、それを受け取ると一気に飲み干した。
はーっと大きく息を吐いて、少しすっきりした気分になる。
「お水、ごちそうさまでした。はぁ……生き返ったぁ」
「もう一杯、いりますか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「終電までは、もう少し時間もありますし、ゆっくりしていってくださいね」
「すみません。お世話になります……。あの、畑中さん。よかったら、この電子ピアノ見せてもらっても……?」
「あ、どうぞどうぞ。ヘッドホンはそこにあるので、弾いてもらっても、構いませんよ……って、それはさすがに、今はちょっと危ないかな?」
畑中さんは、そう言いながら空になったコップを引き取って、キッチンへ運ぶ。
夏生は立ち上がると、電子ピアノのところへ移動した。
じっくりとピアノを観察してみる。自宅にあるものとは違うメーカーのロゴが入っていた。そのメーカーの名前は知っているけれど、触ったことのない電子ピアノだ。
畑中さんは、「いま触るのは危ないかな」なんて言っていたけれど、家とは違うピアノを目の前にして、弾かないという選択肢はない。
「畑中さん。ちょっとだけ、ちょっとだけ弾いてもいいですか?」
キッチンのほうを向いてそう聞くと、畑中さんは、仕方がないなぁと苦笑しながらも「いいですよ」と答えてくれた。
夏生は、ピアノの椅子に座り、ヘッドホンのプラグを挿し込んで、頭に装着する。
黒鍵にそっと指を乗せて、鳴らしてみた。音漏れがしてないことを確認して、他の鍵盤も押してみる。
白鍵──黒鍵──白鍵、そしてまた黒鍵。
畑中さんが使っているピアノは、白鍵だけではなく、黒鍵も木製の電子ピアノだった。自分の家にあるピアノとの違いに感動を覚える。
──ほんの少しだけ。
本当に少しだけのつもりだった。気づけば、あれもこれもと欲張って、何曲も弾いていた。畑中さんも、自分を止めることなく、自由に弾かせてくれた。
──だから、そのおかげで、というべきか。
──そのせいで、というべきなのか。
時計の針の存在に気づいたときには、終電はとっくの昔に逃していた。
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