第9話 遠征

(つまらない音……だと? ガッカリ……だと!?)


 コーヒーを持つ手が小刻みに震える。

 こめかみの辺りに、ピキピキと亀裂が入るような怒りを覚えた。

 人の演奏に勝手に割り込んできて、好き勝手にって、挙句の果てには、『つまらない』だの『ガッカリ』だのと、一体何様のつもりなんだ。


 目の前にいる自分が、その連弾をした相手だと気づいていない七沢は、更に言葉を続ける。夏生は、その言葉に対して「そうなんですね」と適当に相づちを打った。

 怒りのあまり、その後の会話が頭に入ってこない。その場しのぎの会話を、ただただ重ねた。

 カップの中身が空になる。そのタイミングで夏生は席を立った。カップとトレイを片付けて、店を出る。


「夏生さんは、ピアノ弾いていきますか? 弾くのなら聴いてみたいんですけど」

「いえ、今日はいいです。やめておきます。まだ弾いている人もいますし。実は、ここに来たのはたまたまなんです。偶然、この駅へ降りたら音が聞こえて……。それで、ちょっと探してみただけなんですよ」

「そうだったんですか。では、またの機会に聴かせて下さい」

「ええ、またの機会に」


 夏生はそう言って、七沢とコーヒーショップの前で別れた。

 そして、当初の予定通り、外に出て一駅分歩こうと思い、足を踏み出す。茜色の空は薄暗くなっており、街灯も点き始めていた。

 街路樹が新緑しんりょくから深緑しんりょくへと変わりつつある。風に乗った葉の濃い香りが、鼻の奥に届いた。



 数メートルほど歩いたところで、夏生の足が止まった。踵を返して、来た道を戻る。駅の中に入り、つい先ほどまでいたコーヒーショップの前を通り過ぎて、一直線にストリートピアノを目指した。


 そこへ到着すると、ピアノは静かに佇んていた。弾いている者は誰もいない。

 夏生は椅子に座って、足元にビジネスバッグを置いた。鍵盤に指を乗せ、深呼吸をする。深く息を吸って、吐いて、次に思いっきり吸って、息をうんっと止める──と同時に鍵盤を叩く。


 頭の中で、少年が大剣を振るう。敵を、何度も何度も薙ぎ払った。

 夏生は、敵の顔に七沢を重ねる。怒りをそのまま指先に伝え、音に乗せた。

 ──斬って、斬って、斬り倒す。

 ゲームの戦闘曲と自分の怒りは相性が良かったようで、音の迫力が更に増した。


 駅の構内を歩く人たちが、次々に足を止める。ピアノを囲むように小さな輪ができていた。その輪の中にいる一人の男が、演奏する夏生の背中をじっと見つめている。


 演奏が終わると、遠慮がちな拍手が送られてきた。夏生は立ち上がって、何度かお辞儀をする。


(……ん?)


 ピアノを囲んでいた人たちの中に、見知った顔があった気がした。

 その顔は、さっきまで一緒にいたあの男──七沢だった気がして、もう一度そちらを見る。しかし、そこに彼はいなかった。


(気のせいか……?)


「…………やっぱり、君が一番だよ。藤崎君」 


 うしろで誰かがボソリと喋る。その言葉の中に自分の名前が聞こえた。

 夏生はバッと後ろを振り返る──けれど、そこには誰もいなかった。駅のホームに向かって歩いている人しか見当たらない。


「……気のせい、か?」


 夏生は首を捻った。まぁいいか……と足元に置いておいたビジネスバッグを拾う。そして、駅の外に向かって歩き始めた。

 外に出ると薄暗かった空の色は濃くなっていた。


 

 * * *



「へぇ~そんなことがあったんですか」


 ──週末。

 畑中さんとストピ遠征を約束した日がやってきた。

 夏生は助手席に座って、先日再会した憎き男の話をする。ストリートピアノをやっている彼だから、愚痴れる内容だった。

 会社の同僚には、そもそもピアノをやっていることを打ち明けていないので、喋ることができない。


 思い出しただけでも腹が立つ。夏生は、両手の指をわきわきと動かしながら、イライラと、もどかしさを表現する。畑中さんはその行動を見て、ははっと笑った。


「そのとき、藤崎さんは、『それは自分なんだぞ!』って、名乗らなかったんですか?」

「いっそ言ってやろうかとも思ったんですが、どうせなら、自分の演奏で相手を殴ってやりたくて……あ」


 畑中さんは、とても話をしやすい。

 だから、心の中で思っていることが、口からポロッと出てしまう。


 自分の演奏で相手を殴りたいなんて、奏者としてあるまじき、と思う人も少なくないかもしれない。

 夏生は、チラッと横目で畑中さんを見た。彼はポカンとしてこちらを見ている。

 その反応を見て、慌てて先ほどの発言を誤魔化そうとした。


「そんな、上手くもないヤツが、なに言ってんだって話ですよね。あは、は~……はは……」


 気まずい沈黙が流れる。誤魔化しが上手くいってないことだけは、わかった。高速道路を走る音だけが、車内を満たす。すると、畑中さんが「ぷっ!」と吹き出す。続けて、「あはは!」と大声を出して笑った。


「藤崎さんって、やっぱり面白いなぁ~! ピアノの演奏で誰かを殴る。僕はそんなこと思いつきもしなかった。なるほど、ちょっと藤崎さんの演奏に惹かれる理由が、わかったかもしれない」


 そう言って、畑中さんはまた「あははっ!」と笑った。ひとしきり笑った後もまだ、くっくっくっと身体を小刻みに揺らしている。そんなにツボに入るほどのことだったのだろうか。自分の頭をポリポリと掻いて、はは、はと笑ってみせた。


(引かれなくてよかった……)


 せっかくできたストピ仲間を失うかと思って、夏生は一瞬ヒヤッとした。

 畑中さんは笑ってくれたけど、もし、これを昔通っていたピアノ教室の先生に言っていたら、確実に雷が落ちていただろう。頭にげんこつが落ちてくることは免れない。


 畑中さんがウインカーを出す。車は左側の車線に寄り、高速道路から分岐した道へと逸れていった。その道はカーブを描いており、カーブを終えると高速道路の料金所へ繋がっていた。

 畑中さんの運転する車は、ETCのレーンに入って行き、自動精算を行う。車を足止めするバーが開いて、一般道路へ合流する道を進んだ。


「ここまで来たら、もう少しです。今日行くところのストピは、色が白くて可愛いんですよ」

「へぇ~! 楽しみだなぁ~!」


 ストリートピアノの醍醐味のひとつに、そのピアノの見た目がある。

 都庁で見たような、派手で目を惹くデザインピアノは、ピアノ教室や自宅では、まずお目にかかれない代物だ。

 今日訪れる場所のピアノの色は、白か。夏生は頭の中で、演奏予定リストから一曲ほど白いイメージのものと入れ替える。


 畑中さんが先ほど言った『もう少し』の場所が見えてきた。大きなショッピングモールが目に留まる。そこへどんどん近づいて、視界いっぱいに広がったところで、車は、ゆっくりと止まった。


「さあ! 着きましたよ」


 畑中さんがサイドブレーキを引く。そして、エンジンを切った。

 夏生は心を躍らせながら、助手席から降りたのだった。

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