第5話 ストリートピアノ
夏生は、スマホを構えて録画ボタンを押す。
ピアノの周囲を軽く映して、それから映像がブレないように、しっかりと脇を閉め、腕を固定した。
チラリとこちらを見た畑中さんに、軽くうなずいて「準備OK」と合図を送る。彼もそれに返事をするように「うん」と、うなずいて鍵盤に指をおろした。
畑中さんの演奏が、今──始まる。
(あ。……この人、上手い)
演奏が始まってすぐ、夏生はそのことに気づいた。
奏でる音の粒が柔らかい。包み込むような優しさに溢れた演奏だ。
ビー玉がコロコロと転がっているようなその音色に、聴いている子どもたちも、身体を揺らしながら、その場で踊っている。
(いいな……こういう音も好きだ)
畑中さんは、にこにこと微笑みながらピアノを演奏し続ける。楽しいという気持ちが、その表情からも伝わってきて、自分もつられて笑顔になった。
五分という時間は、本当にあっという間だ。曲は終盤に差しかかる。軽やかに踊っていた畑中さんの指が、ピタリとその動きを止めた。そして最後に、両手で鍵盤をかき鳴らし、かっこよく締めて、フィニッシュを決める。
周囲から、わぁっ! と歓声がわいた。踊っていた子どもたちも、拍手を送る。
畑中さんは、演奏を聴いてくれた観客たちに、お辞儀をして感謝を伝えると、足早にこちらへやってきた。
「藤崎さん、ありがとうございました! それじゃ、次は僕が撮りますね」
「はいっ! すみませんが、よろしくお願いします!」
夏生は、畑中さんにそう告げるとピアノに近づいた。
椅子に座って、ピアノとの高さを確かめる。椅子の調整は特に必要ないことを確認すると、畑中さんのほうを見た。録画の準備は整っているというように、「うん」と彼がうなずく。その合図に、夏生もうなずき返した。
鼻から息を吸って、ふーっと息をはきながら、ゆっくりと瞳を閉じる。
そして、頭の中で曲のイメージを描いた。
その絵が鮮明に描けたところで、まぶたを開く。
弾く曲は、『リベルタンゴ』
忘れもしないあの日、駅のストピに乱入してきた男と連弾した『曲』だ。
夏生は、鍵盤にそっと指を置いて、今度は小さく息を吸って、止めた。
────絵を〈紡ぐ〉
〈観客のいない真っ暗な舞台の中央に、女がひとり立っている。天井のスポットライトが、ひとつだけ点いた。その明かりは、彼女だけを照らしている。女は、頭上に両手を構えた。顔を少し下に向け、ゆっくりと息を吸って、はく〉
夏生は、張りつめた空気を切り裂くようなイメージで、両手の音を鳴らした。重く低い音を刻んで、ミステリアスな空気を出していく。
これから何かが起こるのでは? と思わせ、聴衆の耳を引きつけた。
〈古い照明。寂れたステージ。そこに赤い薔薇が舞う。女の息遣いと足音だけが、この舞台のBGMだ。静かに踊る彼女の瞳に、チラチラと炎が見える。その内側に秘められた炎は、愛か、嫉妬か、復讐か。いや、もしかすると嘆きかもしれない〉
頭の中に描いた
自分が描く『リベルタンゴ』──いつも頭に浮かぶのは、深紅のドレスを身にまとった女のダンサーだ。彼女は、誰も来なくなった舞台にひとり立つ。表情を変えることなく、無心に踊る女の姿を、夏生は音に映し出した。
〈赤いヒールが音を立てる。飛び散る汗にスポットライトの光が反射して、キラキラと輝いた。女は踊る。ときには激しく、ときには緩やかに。足を止めることなく、彼女は踊り続ける。瞳の奥に激しく燃えさかる炎を浮かべながら〉
女の情熱と曲の盛り上がりが、頂点へ達するころ、夏生の心が叫び声をあげた。
──俺を見ろ!
──もう一度俺の音を聴け! つまらないと言ったことを撤回させてやる!
──お前こそ、俺から逃げるのか!? お前のほうが、なんて『つまらない』ヤツなんだ!
あの日現れた、いけ好かない男を
──さあ、もう一度会おうじゃないか。
──さあ、もう一度戦おうじゃないか。
──俺の音で、お前のその
〈白鍵と黒鍵の上を、女はクルクルと回った。
頭の中に描いていた絵が、終わりを告げる。それと同時に、鍵盤から指が離れた。
一瞬の静寂。その後、周囲がわいた。ストリートピアノを始めて、『初めて』と言っていいほどの拍手を浴びて、夏生は慌てて立ち上がる。何度もお辞儀をし、次の奏者のために、すぐにピアノから離れた。
畑中さんがいる場所へ小走りに駆け寄って、彼に声をかける。
「畑中さん、ありがとうございました!」
「…………」
「……? 畑中さん?」
「あ、す、すみません! いやぁ、藤崎さんの演奏に圧倒されて……はは、ちょっと呆けてました」
畑中さんは頬を人差し指でかきながら、眉を下げて笑った。
(もしかして、この人にも俺の音は伝わった……のか?)
想いを乗せた音が、イメージが、伝わったのなら嬉しい。
夏生は自然と口元が緩んだ。緩んだ自分の顔を誤魔化すように軽く頬を叩いて、それから口を開く。
「畑中さんは、あと何曲くらい弾きますか? 俺は三曲くらい弾けたらいいなと思ってるんですけど」
「あ、僕もそれくらいですね」
「では、お互いに三周したら、どこかお店にでも入って演奏データの交換をしませんか?」
「それいいですね! そうしましょう!」
畑中さんと一緒に、またピアノの列に並んだ。そして、もう一度弾く。
列にならんで、弾く──その間に、展望室に来る人の数が増えた。その中にはピアノ演奏希望者もいたようで、二回目の演奏を終えた頃には、列が長く伸びていた。
さすがに三回目は厳しいだろうと、お互いにそう判断する。
三回目の演奏は諦めて、展望室から見える景色を楽しむことにした。東京の街並みを見下ろし、十分に堪能した後、都庁を出る。ふたりで新宿駅のほうへ向かいながら、その途中にあるカフェに立ち寄った。コーヒーを飲みながら、お互いに撮り合ったデータを渡し、演奏の感想を伝え合う。
「僕、藤崎さんのピアノ好きです……! すっごくカッコよかった……!」
「え、本当ですか? 嬉しいなぁ~!」
「俺を見ろ! って感じで、すごく惹きつけられました」
「俺も畑中さんのピアノ好きですよ。粒が柔らかくて、優しい音で……あとでデータを見てもらったら、わかるんですけど、実は畑中さんの後ろで聴いてた子どもたち、踊ってましたよ!」
「うわぁ~本当ですか!? それは嬉しい!」
にこにこと笑う彼を見て、つられて自分も笑った。
せっかく自分と同じストピ奏者で、動画投稿もやっている人物に出会えたのだ。このまま、ここでお別れするのは、少々もったいない気がする。
夏生は、畑中さんとSNSを交換することにした。これで更に、彼と連絡が取りやすくなる。
お互いに都合がいいときには、また一緒にストリートピアノをやりましょう、とそう言って別れた。この日、自分にストリートピアノの友人ができたのだった。
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