九 海中、そして潮の舞 ②
「そんな、あたしの顔……。あれ、あたし、名前……」
「大丈夫ですよ、ここの者はみんなそうなんです。私と笹目もそうなんです。ここで、新しい顔と名前を手にいれて暮らしていくんです」
「そうですよ。僕だって最初なにがなんだかわからなかったですけれど、葉詰のおかげで元気でいますし! 大丈夫ですよ……」
本当に大丈夫なのだろうか。この女性じゃなくって、僕自身が。もしこの女性が葉詰を支えとして立つのだとしたら、僕は、どうしたらいいのだろう。
しかしその考えは、この人を見捨てることになる。そんなことは、したくない。
「まずは名前を決めましょう。貴方の心に残っている物は? それを支えにしましょう」
「名前……あたしの……」
「なんでもいいんですよ。僕なんか探している女の子の名前からとったんですよ」
「……かいのひ」
「貝の火? 宮沢賢治の?」
「なんだろう、あたし、貝の火が好きだった……。あたしの名前は……貝火」
かいひ、さん。綺麗な名前だと思った。
「あたし、もう大丈夫。多分だけど」
「そうですね、あとは顔をつければ大丈夫ですよ。さあ、私たちの暮らしている長屋に行きましょう。泥井さんがいいお面を見繕ってくれますよ」
おや、と思った。てっきり僕にしたように貝火さんに顔を作ってあげるのかと思っていた。それに少し、安心している自分がいた。
貝火さんは泥井さんからお面を貰ったようだった。僕が見てきた中で一番人間に近いお面だった。小面と言うらしい、女性の顔をしたお面だ。
「あなたたちも、死んじゃったの? まだ若いと思うけれど……」
「貝火さんだって若いじゃないですか。僕は列車に轢かれたんですよ」
「あたし、あたしは何だったかしら。生きていた頃のことがぼんやりしていて……」
「みんなそうですよ」
福丸雑貨店で貝火さんの日用品を買い、満腹亭にてうどんを食べる。お金は僕らが出した。墨雪にもそうされたから。
彼女は墨雪のいた部屋に住むことになった。泥井さんに誘われたのもあるし、僕らがいるからというのもあるようだった。
「あなたたちがいてよかったわ。本当にありがとう」
お礼を言われて、なんだか居心地が悪かった。墨雪のいた記憶が、上書きされるような気がして、寂しさが少しぶり返したから。
貝火さんが来て数日たった。今日も今日とて駅へと向かう。貝火さんにも駅の看板についての説明はして、何か書かれてないかと待つ日々だ。貝火さんも一緒に来て、楽しみに待っている。
天の国のゲートをくぐり、草に囲まれた道を歩いて駅舎の開きづらい戸を蹴り開ける。もう慣れたものだ。そうして駅のホームへと階段を上る。
「あ、見てごらん笹目。駅の看板に何か書いてある」
駅の看板に違う場所が書かれているのは久しぶりだ。葉詰の指さす方へと二人で駆け寄る。書かれていた文字は「海」だった。
「『海』……だって」
「単純明快と言っていいのかなんなのか、分かりやすいようで分かりづらいね。こんなことなら、墨雪にもっといろんな場所のこと聞いておけばよかったな」
「あいつに聞いたって答えてもらえないだろう。『行けばわかる』って。それだけだって」
「墨雪さんって?」
遅れてきた貝火さんが尋ねる。
「前にここにいた人ですよ。いまは違うところにいます」
葉詰は当たり障りない回答をした。生まれ変わりのことを話すつもりはないのだと、彼は僕の部屋に来て言っていた。墨雪がそうしたように、僕らもそうすべきだろうと言うのだ。
「それにしてもどんなところか、相変わらずわかんないな」
「そうだね。財布はあるけれど、他にどうしよう。海って言うことは浜辺があるかな。おにぎりか何か作っていくかい?」
「そうしよう。貝火さんはどうします?」
「一緒に行ってもいいの?」
「もちろん」
「じゃああたしも作るわ」
僕らは一度長屋に戻って、炊いてあるご飯を使っておにぎりを握った。梅、シャケ、おかか。食べれる分だけ作る。とりあえずこのくらいか。塩昆布もほしいけれどなかった。今度買ってこよう。ラップに包んだそれを巾着に入れて長屋を出る。
駅に行くと列車が来ていた。僕らが前に立つと気の抜ける音をたてて扉が開く。
ボックス席に座って、窓の外を眺める。青い空と、澄み渡る水面。これも海なのだろうか。貝火さんはきょろきょろとあたりを見渡している。
「不思議ね、いつの間に景色が変わったのかしら」
「いつもこうですよ。そのうち眠くなるけれど、気にしないで寝てしまっていいですから」
タタンタタン、タタンタタン。
青い景色を眺めているうちにいつもの眠気がやってきて、起きた時には列車は停まっていた。
「葉詰、起きろよ。『海』に着いたみたいだぞ」
「うん……、ありがとう」
葉詰は口に手を当てながらあくびをして立ち上がった。貝火さんも目を覚ましたようで伸びをしている。あたりを見渡してみると窓の外の光が反射しているのか、光がゆらゆらとうごめいていた。まるで日の光に透かした薄絹がゆっくりとなびいている様で、綺麗だ。どこからか潮の匂いもする。
「なんだろうね、この光。海面の光が反射しているのかな?」
「外に出て見ればわかるだろ。行ってみよう」
僕らはおにぎりの入った巾着を手に、駅のホームへと降り立った。途端、足元でちゃぷんと音がして、靴が濡れる感触があった。ホームの上すれすれまで、水が来ているのだ。
「うわ。靴が濡れちゃった」
「さすが『海』と言ったところか。サンダルを買って来ればよかったかな」
仕方がないのでそのまま進む。「海」は駅のホームを残して、あたり一面見渡す限りの青色の水面が広がっていた。まるで列車の中から見た景色のようだった。その列車はと言うと、車輪に水をまきこみながら走り去って行った。
ホームを見渡してみても、どこの柱もひどく錆び付いていて、青かったであろうベンチの塗装はほとんど剥げかけていて座る気になれなかった。
「……こんなに何もないところだとは思わなかった」
「他のところは違うの?」
「桜がずっと咲いていてお酒の湧く泉があったり、温泉の街があったり、いろいろです」
足元では相変わらず塩水が靴とズボンとをちゃぷちゃぷ濡らす。ここはあまりいい場所ではないような気がしてきた。
「あ、魚……」
葉詰が呟くように言った。
「え? そんなのどこにいる?」
「ほら、あそこ。空に」
「あら、本当」
葉詰が指さす方、彼から見て斜め前の少し上に、小さな影が見えた。目を凝らしてみると、確かに魚の形をしていて、それが宙を泳ぐように飛んでいる。小さな尾ひれをひらひらとはためかせながら、銀色の魚は目の前までやってきた。葉詰が指を差し伸べると、ぴゅっと慌てたように足元の水面へと飛びこんだ。魚はそのままホームの階段を下るように水の中を泳いでいった。
「階段……」
「下に何かあるのかな」
僕と葉詰は顔を見合わせる。
「墨雪だったら」
「行ってるね。貝火さん、降りてみましょう」
階段まで行き、一段降りてから足をあげてみる。するとたしかに濡れた感触があったのに、足は乾いていた。雨が降ったあとの草原に潜った日のことを思いだす。僕らは意を決してざぶざぶと水の中に入っていった。
「わあ……」
水の中はやっぱり呼吸ができるようだった。そしてそこは、海面から射す日の光が幾重にも重なって光のヴェールとなって揺らぎ出迎えた。底の砂に足をつけてあたりを見渡すと、色とりどりの美しい珊瑚礁や、青や赤い色をした綺麗な魚の群れが出迎えた。
「綺麗な場所だね」
「あ、タコ」
目の前を大きなタコがふわりと浮かぶように長い触腕を広げては閉じ、横切っていく。葉詰の方を見ると彼の袴もまた、潮流に巻かれるようにふわふわと広がっている。貝火さんは今日はズボンだった。普段スカートだったから、捲れたら大変だっただろう。
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