流転、若しくはラッキーストライク④
吉良に促されて向かったのは、おれたちも過去に出演したことのある老舗のライブハウスだった。三階建てのビルの一階がバーになっており、その店内に地下のライブハウス空間へ繋がる階段がある。時刻は十時半、普段ならライブを終えて閉店した店内にバンドマンやその知り合いだけが集まってダラダラ過ごしているため、ガラス張りの店先にはうっすらと灯りが点いているはずだが、その日は真っ暗だった。
吉良はジーンズの尻ポケットに入れていた財布から鍵を取り出し、雑に扉を開ける。脳裡にぼんやりと、これはいわゆる〝敵の根城に来てしまった〟というやつなのではないか、という思いが過った。まさか。二時間ドラマじゃあるまいし。おれたちは潜入捜査官でもなんでもないただの売れない――最近ちょっと売れてきたバンドマンでしかないし。いや、そもそもその覚悟で数多の飲み屋から吉良の行きつけを見つけたのではなかったか(貢献したのは主にフッちゃんだが)。
「ここはね、僕も昔、バンドやってた頃によく舞台に立たせてもらったハコなんだ。疫病の流行の煽りで財政難に喘いでいてね、気の毒に思って、我が社で支援している」
細くて急な階段が軋み音を鳴らす。何度も降りていて頑丈な造りだと知っているはずなのに、次の瞬間軽量のスケッチャーズがずぶりと暗闇に呑み込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。スマホを取り出して足元を照らす。吉良のウェービーヘアの後頭部が闇に溶け込んで見える。何故か背後で九野ちゃんが、小さく悲鳴を上げた。転びそうになったのかと思いおっかなびっくり振り返ったが、その目は吉良の後ろ姿をじっと見つめて怯えた表情を浮かべていた。彼の言葉の裏から、なにか、聞こえてしまったのかもしれない。
重い扉を開けて中に入っていく吉良を追い、がらんどうのハコの中に踏み込んだ。暗くて何も見えない。馴染みのある冷たく湿った空気と埃っぽいにおいを想像して中に入ると、おれは眩暈を覚えて少し立ち止まった。
空気が違う。生温い。まるで、空気自体に質量があるみたいだ。ぬたっと重く、指や髪にまで絡みついてねっとりと纏わりついてくる。長時間生肉を入れたままにした冷蔵庫のチルド室を開けたときと同じようなにおいがした。腥く、人肌で、他を拒絶するように重い。もしも他人の胃の中に突然放り込まれたなら、そこはこんな空間なのではないか、と思った。
脚がもつれそうになって壁に指を這わせた。指先に、ミミズを握ったときのような、ぐにゃりとした感触が伝わってきて思わず手を離した。
客電が点く。ここいらのライブハウスでは比較的高い位置にある舞台の前に、吉良が姿を現した。後ろ手に手を組んで、まるで愛の告白でもする前の女学生のようにもじもじしている。
「よくわかったね! 確かに僕もあの夜、あの店にいたんだ。都市伝説に僕も願いをかけた。まさかあの場に居合わせた君たちとこうして仕事を共にする仲になるなんて、これも神様の思し召しかもね」
彼の隣には、車椅子のようなものが置かれている。座席の上にはレース模様の布がかけられていて、到底人間が座っているようには見えなかった。真っ赤な座面と背もたれ、銀色に目を刺すホイール。心臓の奥に太い針で注射針を刺されたように、嫌な予感が広がって胸苦しくなる。吐いた息でメガネが曇った。
吉良は笑みを浮かべていた。しかし、口角が少し上がっているだけで、目は笑っていない。無表情とは少し違う。表情を作ろうとしていない、と言った方がいい。顔色は石のように白く、眼球は正面を向いたまま硬直している。まるで、死人が喋っているみたいだ。
「ご要望通り会わせてあげよう、君たちの仲間に。ただし、君たちが知っている姿とは、全く違うだろうね、多分」
死人が車椅子の前に跪き、レースの布を恭しく外した。
そこにあったのは、大きな桃色の、繭玉のようなものだった。
柔らかそうな質感の繭玉のようなものは、ちょうどバイクのヘルメットと同様ほどのサイズだ。前面がくり抜かれていて、その中には原寸大の人形の頭のようなものがすっぽりと収まっているのが見える。薄暗い照明の下でもわかる、真っ白な頬は陶器のように滑らかで、無機質に客電を跳ね返していた。飴細工のように色素の薄い前髪がふんわりと覆った目はしっかりと閉じていて、まるで眠っているみたいだ。緩く結ばれた唇だけが不自然に赤く、まるで噛み締めすぎて、血が滲んでしまったようだった。
本当に、人形のように美しい。しかし、おれは自分がそれをそう思ったことに対して、少しだけ不快感を抱いていた。いや、不快、とは少し違うか。気恥ずかしさ、と言った方が正しい。
遠目からでもわかる。繭玉のようなものの中に入っていたその人形の頭の顔は、平清澄によく似ていた。
平清澄。今年三月に、おれたちのバンドをなんの前触れもなく辞めた、ベースボーカル。
何が「可能性を感じられなくなった」やねん。自分、ずっと一緒におったんやないか、おれたちと。
床に膝をついたままだった吉良が、繭玉をそっと撫でる。まるで花のつぼみにでも触るように、そっと指先で触れるようにして撫でたあと、大事なぬいぐるみを抱きしめる子供のように、両手で繭玉を抱え込んだ。
「とんだじゃじゃ馬だったが、やっと大人しくしてくれたよ。まったく、手がかかるね、僕の神様は」
辺りに漂っている空気と同じ響きの声だった。粘液のように鼓膜にねばり付いて、吐き気を覚えさせる。震える肩を自分の腕で抑え、気がついたら脚が動いていた。繭玉を吉良から引き離し、車椅子の背もたれを両手で掴んで身体全体で繭玉を覆い隠す。なんてややこしいことをしてくれたんや。おれは花びらのように薄く透けた繭玉の中で眠る相方を、この物体が、相方であると自分に言い聞かせるような気持ちで叱りつけていた。このどアホが、なんか言え!
「僕の神様が口を聞くわけないじゃないか、君たち如きに」
合成音声のように無感情な声が聞こえた方向に、おれは顔を向けた。死人が、微笑んでいる。幸せの絶頂で死を迎えたデスマスクのような顔で。
吉良は、車椅子の上の繭玉を、「僕の神様」と呼んだ。「僕の神様」には人間の肉体は必要がなく、自分がそこから解き放ってあげたのだ、と。「神様」は人間の姿を気に入っていたようだが、醜く、欲深く、窮屈な肉体から早く切り離そうと、吉良は何度も「神様」に縋ったのだという。「神様」がどのような世界線に出現しても、そこに必ず自分が身を置けるよう、幾つも幾つもパラレルワールドを渡り歩き、「神様」を探し続けたと。
無事に手に入れた「神様」は、「世界中の人々のために音楽を作り続けるだけの存在」になるのだと、吉良は子供のように無邪気な笑顔で言った。本当は歌をうたえるような姿で残してあげたかったけれど、そこはまあ、僕の力量不足かな。それだけは悪いことをしたと思っているよ。独り言のようにそう口走ると、今度はおれたちの顔を見回して、まばたきひとつせずに言った。
「君たちには僕の神様の手伝いをしてもらうつもりなんだ。これから一生を賭けて、僕の神様の音楽を世界に届けてほしい。自分では曲を作らなくていいのだし、絶対に売れる。僕が売ってみせる。いい仕事だと思わないかい?」
背中を汗が流れていくのを感じた。粘性のある、じっとりとした、糸を引くような汗。
客席の方から、フッちゃんの声が聞こえた。
「いいじゃん」
九野ちゃんの肩を抱くようにして身を固くしていたフッちゃんが、やおら顔を上げて吉良の方へ歩いていこうとする。口角は上がり、目を見開いて、笑顔を見せている。時々おれの方を見やっては、言う。「いいじゃん、吉良さんの言う通りにしてみようよ」
九野ちゃんもフッちゃんにつられるようにして、一緒に吉良の方へ向かおうとする。顔には笑みを浮かべて、「そうだね、曲作らなくても売れるとか最高」
まるで、誰かに手で無理矢理、口の端と目尻を引っ張られて、笑顔を作らされているような顔だ。
Tシャツから剥き出しの腕が鳥肌まみれだ。おれの脳裡に、まだ対バンもしたことがなかった、あの少しだけ先輩のバンドマンのことが過った。
「おいオッサン、もしかしてりょぉくんが死んだのも」
「そうだよ、僕がやったんだ。彼は動画配信者のデマ動画なんかをネタにして、お金を強請ろうとしてきた不孝者だったからね。大人しくさせてやったんだ。でも、あれも彼自身の意思だよ。きっともう今は、お金に困ったりもしていないはずだよね。すごいだろ、僕の力は」
なんの屈託もない笑顔。しかしその顔色は死人のそれだ。無邪気な死体。このままでは、フッちゃんも九野ちゃんもこいつの言いなりになってしまう。
腕の血管が浮き上がる音が耳の奥で聞こえた。ガラス窓にヒビが入るときのような、ピキ、という音。右腕が熱を持ち、全身の血液が熱く滾る。さっき入ってきた入口のすぐ傍に、パイプ椅子が何脚かあるのが見えた。駆け寄ってすぐにそれを手に取る。ここから投げれば確実に吉良の頭に直撃する。あわよくば――
「殺したいかい?」
吉良が言った。行動を読まれた。あいつ、テレパシーも使えるのか。吉良の声色は、落ち着き払っている。
「ギフトを使って、僕を殺すつもりかい。今ここで僕を殺せば、相当スッキリするだろうね。でも、ミュージシャンとしては一巻の終わりだ」
その言葉は、まるでその、見開かれた目の奥から出力されているようだった。目をスピーカーのようにして、おれの目の奥の、鼓膜の奥の、脳にまで届く。
「君の力は傷つけることしかできないんだよ。君、自分が何をしたか、覚えているはずだろ?」
吉良にそう言われ、おれの頭の中にはさっき読んだばかりのあの文章が蘇っていた。おれと同じ文体で、おれが使いそうな言葉を使い、おれが全く覚えていない日常が描かれた文章。そして、最後に暴かれる、おれの身に覚えのない、おれが犯したのであろう、罪。
「もう一度言おう。君の力は、誰かを傷つけ、従わせることしかできない。僕と、同じだ」
吉良はさっきからずっと楽しそうにしている。まるで玩具を手に入れた子供だ。怯えているのはおれだけだ。足元が崩れ、転がり落ちるような感覚。奈落と隣り合わせに立っているような感覚。
その感覚には身に覚えがあった。もしもうっかり足を踏み外し、奈落の底に落ちたなら。そんなことを常に考えながら過ごすようになったのは、いったいいつからだろう。
三歳の春の夜、家を出る前の父親と、大阪の自宅の居間で過ごしていた日のことだった。その日は休日で、オカンがおれの好物のカレーを作っている間、おれはテレビに齧り付いて音楽番組を観ていた。その日は当時おれが大好きだった女性バンドが出演するということで、元気有り余る幼児を少しでも大人しくさせておこうと、オカンはテレビの前に幼いおれを置いておいたのだろうと思う。
そのバンドは今でも活躍し続けている。まだ幼稚園にも行かないようなガキ坊のおれがどうしてそんなにもハマりこんでいたのかといえば、綺麗なオネーサンたちだったからというのも少なからずはあっただろうが、曲や演奏する姿、きらびやかな衣装が、幼心に純粋にカッコよく見えたというのが一番の理由だった。
バチバチの演奏を披露するそのバンドを、液晶に額を押し付けるようにして見つめながら踊りまくるおれの後ろで、缶ビールを啜っていた父親が、「女のくせによくやるな」と言った。その言葉は、幼いおれの耳にも、決して褒めているようには聞こえなかった。寧ろ咄嗟に、ごく直感的に、ああ、おれの大好きなこのネーチャンたちは今、このわからずやのジジイに馬鹿にされたのだと感じたのだった。次の瞬間、おれの目の前には煙を上げて壊れたテレビと割れた窓、そしてカレーのかぐわしい香りを放ちながら、おれ専用の小さな皿を手にして呆然としている母親、そしてローテーブルの上にビールの湖を作った父親だけがあった。
そのときの怯えた父親の顔は未だに思い出せる。父親は、それ以来おれの前ではそのバンドをばかにするようなことは言わなくなった。しかし、まだ言葉もおぼつかない息子に、まるで悪魔の子でも見るような目を向けるようになった。
おれは齢三歳にして、ギフトを使えば、他人を驚かせて従わせることができるのだと身をもって知った。
父親は元々、「家族なら雑に扱っても良し」とでも思っていそうなタイプの男だった。自分もよくからかわれたし、母のことも「愚妻」などと言って同僚や友達に紹介するような人間だったのだと、後に母はぼやいていた。それが、たった三歳のおれには怯えた目を向けてきたのだ。つい最近まで虫けら同様に価値もないと思っていたはずのちっぽけなガキに、従わざるを得なくなっている四十代男性の姿はたいそう滑稽で痛快だったが――
しかし、おれはそれ以上に、悔しかった。
本当は言葉で伝えたかったのだ。自分が好きだと思っている存在について、そのひとたちがどれほど素晴らしいのか、理解してほしかっただけだったのだ。女だとか男だとかは関係なく、「おれがこのひとたちを好き」だということを言葉で伝えたかったのだ。子供だからと馬鹿にせずに、耳を傾けてほしかったのだ。こんなはずじゃなかったのに。こんなはずじゃなかったのに!
猛烈な悔しさで目が覚めたおれは、自分の頬を掌で叩いて吉良から目を逸らした。こいつに従っても碌なことがあるはずもない。とにかくキヨスミを正気に戻さないといけないと思った。いつまでもクソタヌキイケオジの神様役をやらせておくわけにはいかない。〝フーディエ〟は死に、HAUSNAILSはタヌキイケオジに従うほか道はない。ここで活動の指針となるはずのタヌキイケオジが死ねば、HAUSNAILSの「売れたい」という野望はまず果たされないこととなるだろう。そうなれば、――キヨスミが書き記していたらしいあの文章によれば――キヨスミは別のパラレルワールドへ転移できるはずだ。
しかし、肝心のキヨスミがあの姿では、異世界転移もあったもんじゃない。生首になったメンバーを人間に戻したことのあるバンドマンがいたならアドバイス賜りたいほどだが、そんなやついるはずもなかろう。思考が猛スピードで脳内を巡る。そのとき、組長、とフッちゃんの声が聞こえて、おれは顔を上げた。
吉良の方へ向かっていたはずのフッちゃんが、おれに向かって何かを投げる。思わず手を伸ばして受け止めると、それは掌の上に乗る程度のサイズのポータブルスピーカーだった。
フッちゃんは、さっきとは全く違う鋭い目線でおれを見ている。「礼なら九野ちゃんに」と、幼馴染の肩を改めて強く抱いた。九野ちゃんも、真っ直ぐにおれを見て、親指を立てる。まるで空元気の笑顔だが、さっきのよりずっと愛嬌があっていい顔だ。
おれの頭のなかを巡った数多の思考から、九野ちゃんが有効な手段を聞き取ったらしい。持つべきものはテレパスの友人とオーディオマニアの友人だ。おれはバングアンドオルフセンの高そうなポータブルスピーカーを床に置き、自分のスマホと無線で繋いだ。選ぶ動画はもう決めた。フォルダから最短距離で見つけ出し、引き金を引くように再生ボタンを押した。
スピーカーから流れるのは、拙いバンドサウンド。六年前、初めてネットに公開したスタジオライブ映像だ。当時既にキヨスミはメインコンポーザーの役割を担っており、この曲も、当時ライブ会場だけで手売りをしていたCDのリードトラックで、キヨスミが作詞作曲を手がけたものだった。
思い返せば、音楽の好みもバラバラで、なにをどうしたら一緒にバンドをやろうなどと考えるのかわからない奴らだ。ただしメロコアとヴィジュアル系バンドはみんな好きだったから、それをイメージしてやってみよう、なんて、手探りで初めて作ったEPだった。
昔から上手かったけれど、今よりもずっと荒っぽいフッちゃんのギターに、今よりも無闇に手数が多くて何故かシュワシュワしている九野ちゃんのドラム、今よりも地味なキヨスミのベース、聴くに耐えないおれのバッキング。まるでがなるような喉を壊しそうなおれの歌、そして、無理矢理コアを気取ったおれの作った空気を、一瞬で甘ったるく飾りつけるキヨスミの声。まだハモリにも全く自信がなくて、コーラスの声がお互い小さすぎるが、ブレイクダウン前には一丁前にキヨスミがシンセサイザーを弾くパートなんかもある。そのときやりたかったことを全て詰め込んだのだろうことが、大サビまで聴かなくてもわかる。
ああ、楽しそうだと、他人事のように思った。
爆音のバンドサウンドに紛れて、ぱり、ぱり、と、何かがめくれるような音が聞こえる。首を捻って音のする方を見ると、柔らかそうな繭玉に包まれたキヨスミの頭が、目を開けていた。
ひとの内臓が溶けたような色をしたピンクの花びらが、彼の頭を包み込むようにして、繭のなかに詰め込まれている。花びらに包まれた白い顔を、真上から覗き込んだ。メガネが曇ったり滑ったりしないように、スマホを持っていない方の手でテンプルを支える。
真っ黒よりも紺色に近い色をした目の奥を覗き込むと、そこには途方もない密度の、夜空のような色が広がっていた。まるで目の前の生首の、陶器のような皮膚のなかに、怒涛の如き宇宙が無理やり詰め込まれているかのようだった。それだけでなく、その目のなかの宇宙は絶え間なく膨張を繰り返してはその輝きの密度を秒単位で高めているように見える。このままでは、彼の表面を支える皮膚がギチギチになった宇宙を留めておけなくなって、いつか、風船のように爆発してしまうかもしれない、なんて、馬鹿みたいなことを思った。もしかしたら、彼にとってはどんな肉体であっても窮屈なのに変わりはないのかもしれない。
しかし、生きてはいる。彼は確かにここで、生きているのだ。
空を裂くような悲鳴が聞こえて、我に返った。悲鳴の主は吉良だった。叫びというより喉の奥から絞り出すような呻き声を吐き出しながらフラフラと、夢遊病のようにフロアの中心まで歩いてきた吉良は、両手で苦しそうに口をおさえたかと思うと、真っ赤な物体を無数に口から吐き出した。
思わず足が竦む。おそるおそる少しだけ近づいてみると、吉良の足元に水溜まりを作っていた真っ赤な何かが、うぞうぞと動いているのが見えた。
虫だ。
人間の手首程度の太さの、幼虫のような何かが、床をのたうつように動いている。てんでばらばらな動きをしながら血の海で溺れているようなそれは、吉良が嘔吐する度に増えていく。まるで、腸や脳味噌が別の生き物になって、口から漏れ出してきているようだった。
口の周りを真っ赤に染めた吉良は、手負いの獣のように肩で呼吸をしている。同じく真っ赤な両手で髪を掻きむしり、何かに裏切られたような顔で、どうして、と呟いた。
吉良はそのまま膝をつき、赤い虫の群れの中に倒れ込んだ。跳ねた水飛沫が、Tシャツに幾つかシミを作った。
死んだのか、と思わず口をつく。どこからか、死んでるよ、と声が聞こえて、思わず震え上がった。
ライブハウスの広い壁。その真っ白な空白に、キヨスミの顔が映し出されていた。
「やあ、久しぶり。俺のこと、思い出してくれた?」
辺りを見回したが、天井に備え付けられているプロジェクターは動いていないようだった。ただそこに、キヨスミの肩から上の姿が、映画のように映し出されている。拍子抜けするほど呑気な口調で挨拶するベースボーカルに、おれたちは三人揃ってすっかり毒気を抜かれてしまった。絶句しているふたりの代わりに、お陰様で吐き気がするほど思い出したわ、と悪態で応戦する。
何から言い出せばいいのかわからないおれは、気になってしまったことをまず聞いてみる。
「暴力は何も解決しないんやないんか?」
おれが指をさした先の真っ赤な死体をちらりと見やったキヨスミは、少し笑って返した。
「諸悪の根源はさ、もとから絶たないと」
目を細め、肉厚の唇を緩く結んで口角を柔らかく上げた笑顔。憎たらしいほど見覚えのある笑い方だ。まったく、つくづく恐ろしい奴である。
心優しい九野ちゃんは、「キヨちゃんは、これからどうなるの?」と聞いた。確かにそれが一番聞きたいことだったかもしれない。キヨスミは少しだけ口ごもると、順を追って話すから、最後まで聞いてね、と前置きをした。
「フーディエは、神様になる。そこの虫吐き王様の言う通りにね。これからもきっと、音楽を作り続けるんだと思う。とりあえずインターネットのなかにデータとして留まって、正体不明のボカロPにでもなろうかな。平清澄は、消える。存在自体が。近いうちに、みんなの記憶からも消えるよ。だから、寂しくない」
俯いた九野ちゃんが、前で組んだ両手を、ぎゅっと握り締めるのが見えた。ジーンズに裾をインした、明るい緑色のサマーニットの袖に水滴がひとつ、ふたつと落ちる。キヨスミは声色を柔らかくして、「寂しくないよ、九野ちゃん」と繰り返す。
世間的にはとんだ目撃者だな、と、フッちゃんが明るい声を出した。キヨスミも、ほとぼりが冷めるまでは音楽やらない方がいいかも、と言って少し笑う。フーディエよりも歯並びの悪い前歯が下唇に刺さった。
「俺はここではもうだめだから、別の世界線へ行ってみるよ。でもみんなはさ、諦めずにやってよ、音楽。またいつか、この世界で」
彼のその言葉で、おれは思い出した。そうだ、こことは別のパラレルワールドには、きっとまだ四人でバンドをやっているおれたちがいるのだろう。今ここにいるおれたちがこれからどうなってしまうのかなんて正直わかりやしない。せっかく思い出したキヨスミのことを忘れてしまって、HAUSNAILSが三人になって、フーディエもいなくなって、そのうえ、この後おれたちは警察のご厄介になる。所属レーベルCEOの怪死に立ち会ったロックバンドなんて、きっとネットニュースの餌食だ。考えただけで頭痛がした。
しかし、キヨスミはほかの世界線へ、また向かうのだ。そこでまた、四人のHAUSNAILSをやり直そうとする。
今おれは、この出来事が起こった日の夜にこの文章を書いている。事情聴取は意外とあっさりと終わり、翌日事務所に顔を出すことになった。とにかく明日が来るのが怖い。久しぶりに眠れなくなってしまったから、これを書き終えたら眠剤を飲んでから少しだけ寝ようと思う。スマホの時計は四時を指している。きっと起きるのは昼近くになるだろう。
マイスリーは依存性が高いからデエビゴしか使ったことがない。キヨスミはマイスリーを愛用していた。今年のはじめ、最近は薬を飲まなくても寝つきがよくなってきたと言って笑っていたのを思い出した。いつも余裕そうに振る舞うその左横顔が嫌いだった。おれは明け方まで眠れなくても意地でも薬を飲みたくない日もあるというのに。自分のそんな思い切りの悪さは、もっと嫌いだった。
この文章を書き残したのは、ここではない、別の世界線のおれの目にこの文章が届いたなら、今おれがいるこの世界線よりも、もっといい結末へと導くことができるのではないかと考えたからだ。吉良とおれたちとの接点を上手いこと避けられれば万々歳だが、本当は、キヨスミが脱退だなんて馬鹿なことを考えないでいてくれるのが一番いいだろう。だから、三月のあの日よりも、もっと前のおれの目に届いたらいい。ひとまず奇跡を信じて、信頼できそうなひとにウェブ上で公開してもらうことにする。たとえ数百の世界線でバンドが死んでも、たったひとつの世界線で生きていてくれさえすれば、それでいい。
こんな荒唐無稽な話、今まさにスマホ片手に仕事帰りの電車の中で読み流してくれている読者諸兄諸姉には、下手な小説もどきにしか思えないだろう。せめて下手なりに、フィクションとして少しでも楽しんでもらえたなら幸いだ。おれがこの文章をこの身に降りかかった事実として伝えたいのは、この世にひとりだけ、他の誰でもない、おれ自身だけだからだ。
もしも三月のよく晴れた日、下北沢の格安レコスタへ向かう予定があるなら、メンバーと待ち合わせた予定の時間より少し遅刻することになるだろう。メンバーには詫びも兼ねて、駅前のコンビニでアイスを買っていくことになる。スタジオの帰り道には都市伝説好きのベースボーカルが、「下北沢の霧の夜」の話をする。「霧の深い夜に下北沢の街に取り残されると、パラレルワールドに転移することができる」「その経験をしたことがある芸人やバンドマンはみんな成功する」というような、荒唐無稽な話だ。ここだ。ここで釘を刺しておいた方がいい。
「実力で売れろや実力で! いくら売れへんからって都市伝説にまで頼んなや」
しかし、あのベースボーカルはこの程度でめげるほど殊勝なタマじゃない。その後、きっとこう答えるはずだ。
「実力なら今だって充分あんじゃん。だって俺たち、ただツイてないだけでしょ?」
#俺たちはただツイてないだけ イガラシ文章 @henkorecord
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