流転、若しくはラッキーストライク③

目が回るように忙しい。まるで、誰もストップボタンを知らないベルトコンベアに載せられたまま、そこから降りる術も知らずに回り続けているみたいだ。


今からひと月前だ。フーディエが死んだ。らしい。


おれが「らしい」と書いたのは、たった数カ月とはいえフーディエと友人として接し、共に音楽をやってきた仲間として信じたくないという気持ちがあるのは当然のことだが、そんなごく個人的な内心の問題だけではなかった。

フーディエがもうこの世にはいない、という事実が、未だに信じられないのだ。そのことについて実感を抱きうる事実を、この目で目撃することができていないのだから、仕方ない。

おれたちがその訃報を知ったのは朝のニュースだった。スイッチを入れた主が既に出勤しているリビングのテレビで、ひとりでに流れていた芸能コーナーのたった三十秒程度の一場面。フッちゃんは飯を食いながら眺めたSNSに流れてきた音楽メディアの投稿で、九野ちゃんは寝ぼけまなこで見たスマホ画面に届いていた〝おすすめニュース〟の通知で、おれたちはそれぞれその知らせを目にして家を飛び出すようにして事務所へ向かった。

フーディエの死因についての発表は一切されていなかったが、ネットには、フーディエの自殺を疑う書き込みが後を絶たなかった。当然だ、あんなことがあったのだから。「プロデューサーへの裏切り行為」「信用していたフィーチャリングバンドのメンバーによる暴言音声流出」、これらによって気を病み、死に追い込まれたのだろうというのがネットの総意のようだった。

ほとんどバンドメンバーのようなおれたちに、どうしてそのことを教えてくれなかったのか、当然事務所の者は知っていただろうに、どうして連絡を怠ったのかと責めるおれの言葉に吉良は答えなかった。答えない代わりにオフィスの片隅の窓の外を眺め、いち社員のそれとなんらデザインの変わらない自分のデスクからノートパソコンを取り出した。メタリックな表面には左端に偏って、無数のカラフルなステッカーがびっしりと貼られている。ゼロ年代ヴィジュアル系バンドのロゴに、洋服屋で貰ったらしいブランドのアイコンマーク、レインボーフラッグ。フーディエのものだとすぐにわかった。吉良はパソコンを開き、幾つかの操作をしてから画面をこちらへ向けてくる。そこでは、無数の音声ファイルが収められたフォルダが開封されていた。

「フーディエが残した楽曲の構想たちだ。あの子は、これらを君たちに演奏してほしいと言っていた。この事態を止められなかったのは残念だが、君たちにはせめて、あの子の遺志を受け取ってほしい」

お願いだ、このとおり。おれたちの目を正面から、ひとりひとり見つめた吉良は、今まで見たこともないほど深々と頭を下げた。たかが売り出し中の若手バンドマンに、豊かな毛量の脳天まで見せて頭を下げるやり手のプロデューサー。おれたちはその勢いに気圧されて威勢を失ってしまい、気がつけばその日から、早ひと月が経っていた。



このひと月の間に、おれたちはフーディエの遺したデモをもとに十曲は収録した。そのうち一曲は既に配信シングルとして発表されている。ネットで検索すると、リアルタイムにはこんな書き込みが並んでいた。


「HAUSNAILS最高! これならフーディエがいなくても淋しくない(泣き顔の絵文字)」

「ハウネルちゃんなら安心して任せられるわ、源くんも歌は上手いしなあ」

「トリビュートライブ待ってます!」


異常だと思う。歌を褒めてもらえるのは満更ではないが、お気楽に喜ぶ気力も湧かない。何故なら少し前まで、おれはフーディエの自殺の原因として非難の中心だったはずなのだ。異常だ。スマホをベッドの上に投げて吐き気を堪えるために炭酸水を飲んだ。生温くて、レモンの風味がやたら甘い。

おれなら、大好きでこれからの活躍に期待していたミュージシャンが死んでからひと月も経たないうちに、そんなテンションにはなれない。そもそも金の匂いすら感じる。二次元のキャラクターでさえ、SNSでワニが死んだ直後にその生涯がアニメ映画化されたなら心優しくひねくれたネット民から嘆きと非難が轟々と届くはずなのに、フーディエに関する書き込みにはそのような意見が一切見られないのがひたすら不思議だった。フーディエについての投稿数はそのときの前後一時間ほどで七千八百件。そのどれもが、フーディエへの愛を語る熱烈なファンの投稿と、すっかりトリビュートバンドと化したおれたちへの期待を綴ったものばかり。同じアカウントのほかの投稿を覗きに行っても、つい最近まで悪者だったはずのおれへの非難も、おれたちの裏で後方腕組みをしているあのプロデューサーを叩くような投稿も、されていないように見えた。

訃報の直後には朝や夕方のニュースで、毎日のようにその功績を讃え、楽曲を紹介するコーナーが数分程ではあるが放送され、そのどれもがポジティブな言葉に溢れていた。

アナウンサーのしっとりしたナレーションをバックに、スローモーションでスタンドマイクを握り、歌うフーディエの姿が映し出される。その直後、〝盟友〟としてHAUSNAILSが紹介され、おれたちのアーティスト写真が映し出された。

つい一週間前に撮影した、三人での新しいアー写。センターで身長よりも少し大きい赤いフラッグを持たされた自分自身の姿に、違和感しか覚えない。


先日は、朝のワイドショーの生放送に生まれて初めて出演した。朝が弱く、このままでは当面単独で夏フェスに出ることもなさそうだったから早朝に仕事で目覚めることとは全く無縁だろうと思っていたためあまり乗り気ではなかった。

しかしパネラーのひとりに結構好きな芸人がいることに気がつき、少しだけやる気を蘇らせながら全身全霊での演奏に取り組んだものの、その後コメントを求められたその芸人が無邪気に発した感想に、おれはすっかり失望する羽目になる。

「もうこんなん、バンド漫画とか描けないんじゃないですかね? 世の漫画家さんたちは!」

演奏をする前に、おれたちの略歴がVTRで紹介されていた。突如夭折した盟友の遺志を継ぎ、悲しみを乗り越えて活動を続けるロックバンド。その美しく編集されたプロフィールに対して、彼が抱いた感想はこれだったのだ。

出演コーナー後のCM中を使って、出演者一同に挨拶をしてから楽屋へ戻る。モヤモヤと渦巻く言葉を胸の奥に呑み込みながら、結構好きなはずだった四十代の男性芸人と握手をすると、相手はすっかり腰が引けて笑顔が引きつっていた。楽屋に戻ってから九野ちゃんに教えてもらったが、どうやらあのときおれは笑顔が上手く作れずに、詐欺のカモを前にしたインテリヤクザのような表情でほくそ笑んでいるように見えたらしい。だっておかしいやろ、バンド漫画ぐらい描けるわ、漫画家馬鹿にすんな。

家に帰ると母親がテレビの前で優雅に午前のティータイムをしていた。ニコニコ笑顔のマシンガントークで感想をぶつけられ、中学生の頃から使っている――最近はあまり普段使いはしない、二軍へ降格した仮面ライダーのマグカップに紅茶を淹れてくれた。どうにも落ち着かない気分のまま茶を啜り、空になったカップは母親の制止を振り切って自分で洗った。どうやら息子が人気ミュージシャンへの道程を歩き始めた実感を、やっと得られたようだった。しかしこんな理由で脚光を浴びても嬉しくもなんともない。こんな理由で、ナゴムギャルだった母親を唸らせても嬉しくもなんともない。

そんなことを考えながらカップを洗っていたら、手にしていた母親のボーンチャイナが真っ二つに割れた。まるでペーパークラフトのティーカップをハサミで切り分けたようだ。慌てて水を止め、母親を呼ぶと、気に入っていたはずの真っ白なティーカップよりもおれの手を心配している。ケガしとらんの? 仕事道具やからな、大事にせなあかんよ。

ここでおれが仲間を亡くして気を落としているはずだということに気がついたらしい母親は、割れたカップをビニール袋に入れながら言う。

「あんたは昔っから気持ちが弱るとギフトが暴走しやすくなるから……無理して頑張らんでもええんよ、一回休んで好きなことだけしたら?」

喉の奥が、グッと詰まるようだった。大丈夫、ちょっと散歩してくるわ、とだけ声を絞り出し、家を出る。母親の素直な優しさすらも息が詰まる。


この一カ月余りの間、常に目が回っているようだった。葬式にも当然行かせてもらえず、吉良には「近親者のみで既に行われた」と、紋切り型の回答をされた。フッちゃんや九野ちゃんも同じようかと思いきや、彼らは吉良から説得を受けたその日のうちに既に瞳を輝かせていて、やる気に満ちた様子で制作に取り組んでいる。もしかしたら、空元気なのかもしれない。空元気すら出せず、初めて会ったゲーノージンを軒並み眼光の鋭さで怯えさせてしまったおれはプロ失格かもしれない。

何も考えずに新宿駅まで出た。何も考えずに改札機の内部をいじってエラーを出して挟まり、何も考えずにコンビニでマウントレーニアを買うとき、支払い額丁度入っていた小銭入れのなかから小銭を全てレジ前の募金箱の中へワープさせてやった。仕方なしに会計は交通系ICカードで済ませる。

もしかして、ここ最近ツイていたおれがこの〝習慣〟を手放してしまったから、こんなにも理不尽なことばかりがフーディエやおれたちに襲いかかるのではないか。いや、まさかそんなはずはないと、馬鹿馬鹿しい思い込みだと頭ではわかっているのに、強迫観念は頭から消えてくれない。せっかく治りかけていたおれの強迫症は、再び悪化の一途を辿っていた。

夕暮れの下北沢の駅前はパチ屋とオオゼキとピーコックが一番眩しい。平日だからか、路上ミュージシャンの姿はまだ見えなかった。事務所の新オフィスが入居しているビルを背に、やや往来の邪魔になっている数名の若者たちに倣い、階段の片隅に腰掛けてカップのカフェラテを啜った。新調したオーテクのワイヤレスイヤホンのスイッチを入れて、なんの気なしに音楽アプリを触る。

選んだのは、バタフライエイミーの『アリステア』。昔、吉良が所属していたヴィジュアル系バンドだ。


おれが生まれた頃、バタフライエイミーは既に解散していた。ボーカルが自殺したのだ。

おれが生まれる少し前のバンドブームで、バタフライエイミーは頭角を表したバンドだ。ライブハウスでの堅実なライブ活動が実を結んで結成五年でメジャーデビュー、今でも放送が続いている国民的なキッズアニメのエンディングテーマを手がけたりもしていたほどだ。当時まだそのキッズアニメのメイン視聴者層であるキッズにすらなれず、オトンかオカンの細胞の一部でしかなかったおれでさえ、懐メロ特集などでテレビに映る、女性のように綺麗な容姿をしたボーカルのエイミーさんのことはよく覚えている。

おれが生まれた頃から中坊になるぐらいの間の時期は、ポルノグラフィティも椎名林檎も既に時代の寵児だったが、イエモンは活動休止していたしヒットチャートは握手会参加券付きで売上を伸ばしまくっていたアイドルばかりで、バンプが孤軍奮闘していた。よく言えば世代交代とも言えるが、九十年代のバンドブームは終わり、ロックバンドにとって冬の時代だったと言えるだろう。そんな時代を、バンド解散後の吉良は裏方のトラックメーカーやプロデューサーとして活動してきたらしい。

当然ガキ坊だったおれはそんな大人の事情は知る由もなく、ロック少年だったとはいえプロデューサーなんて地味な職業の人物を知っているはずもない。更にバンド時代にも吉良は地味で物静かなギタリストに徹していて、メインコンポーザーという重要ポジションのうえ〝キラー・M〟などという厨二病剥き出しのステージネームだった割には、あまりバンギャたちの印象にも残らなかったようだった。

イヤホンから流れる、古式ゆかしいバンドサウンド。ギターソロもきちんとあって、Aメロ、Bメロ、サビ、大サビ、のわかりやすい展開。それでもパイプオルガンやチェンバロの音を使ったトラックは何度聴いても飽きなくて、エイミーの甘く透き通ったボーカルは嫉妬するほど美しい。ふと、ブラックデニムの短パンのポケットの中に手を入れると、くしゃくしゃになった紙切れが飛び出してきた。何事かと開き、駅構内から漏れ出す光に透かせると、そこには「http」から始まるなにかのホームページのアドレスが、手書きの文字で記されていた。

ボディバッグの中に突っ込んだままだったスマホを取り出して、ブラウザを開く。邪魔な通知や母親からのメッセージを無視したまま、URL入力欄に件のアドレスを入力した。今の今まで忘れていたが、フッちゃんが〝ゲリラ千里眼〟で視たというアドレスだ。もしかしたら、フーディエや吉良に関わることが、なにかわかるかもしれない。今朝はテレビにだって出たというのに、こんなところで蹲っていても、誰もおれの存在に気づかない。世界の全てがちぐはぐで、バンドが有名になるのは悲願だったはずなのに、どうにも煮え切らない気持ちがあるのは何故なのか。不思議なことだが、そのアドレスにアクセスすれば、何か手がかりが得られるような気がしていた。

手打ちで、一文字たりとも間違えないように入力していく。開いたその先のサイトは、いわゆる小説投稿サイトで公開された、素人の投稿作文だった。

おれが何故このような、少し投げやりな言い回しを選んだかというと、なんとそこで公開されていたその作文は、おれがかつてネットで公開していたエッセイのようなものと、殆ど内容が一緒だったのだ。

それは、今年の三月にバンドメンバーと交わした会話をもとに、少しだけ脚色を加えた、エッセイというよりは私小説のような文章だ。都市伝説が好きなメンバーが、知り合いに聞いたという下北沢にまつわる怪しい噂を話して聞かせてきたことから始まるスラップスティック劇。確か、「霧の深い夜に下北沢の街に取り残されるとパラレルワールドへ行ける」「その体験をしたバンドマンや芸人はもれなく成功している」とかなんとかだったような。文体も内容も、おれが個人的に書いていたものと、殆ど同じ。ただし、おれが書いていたそれはその冒頭の文章だけで頓挫していたはずなのだ。なぜなら、当然ながらそんな都市伝説じみた噂なぞ単なる眉唾の噂でしかなく、パラレルワールドになど行けないままだったから。私小説の題材として面白そうな出来事だったため、思いつきで書いてみたものの、すぐに展開に困りエタってしまったのだった。自分も含め、登場人物の名前は全て(仮名)。もしも面白く書くことができて、万一バズりなどしたならば、本名を明かしてバンドの知名度に貢献でもできればと目論んだが、そんな小賢しい野望は夢に終わった。

そのサイトで公開されていた文章にはその先があった。おれの知らないおれが、おれの知らない世界線でおれの知らない日常を過ごしている。同一なのは、①件の都市伝説好きのメンバーがバンドをやめたこと、②フーディエに出会ったこと。この二点だけだ。

まるで、パラレルワールドで生活する自分自身の日常を垣間見たようだった。

おれはそのサイトで公開されている文章を、一気に最後まで読んだ。辺りはすっかり暮れて、酔っ払いの大学生と帰宅途中の会社員が増えた。そして、そのリンクを急いでメンバーに送る。早急に目を通すよう伝えると、以前は読めなかったはずのそのサイトを、ふたりも閲覧できるようになっていたようだった。おれはまず、一番最近公開されたらしいエントリーだけをとりあえずふたりに読んでもらい、すぐに下北沢へ来るよう言った。




お陰様で多忙を極めているうちに痩せたためか、駅前の再開発が始まる前からそこにある、いきなりステーキの目の前の雑居ビルの急な階段を四階まで駆けのぼっても息が上がることはなかった。琥珀色の木製の扉を開け、有名なミュージシャンがオーナーをしている、音楽関係者が集まる名の知れたカフェバーの店内に入る。すっかり小洒落た間接照明で薄暗くなった店の奥、下北沢の街を一望できる窓際に座っている、ルイヴィトンのモノグラム柄のシャツを身につけた背中を見つけるや否や、電影少女とハードコアチョコレートのダブルネームTシャツを着たフッちゃんの背中は、まるで水面に巨大魚を見つけたトンビのように、長い脚を駆使して真っ直ぐ歩いていく。肩を叩かれた吉良はこちらを振り向くと、意外なものを見たといった表情を作ってみせた。耳元で、過剰なシルバーピアスが幾つも瞬いている。

吉良が口を開く前に、フッちゃんは問いかけた。

「吉良さん、あの日、あの中華屋にいらっしゃいましたよね?」

「ん? 何の話だい」

行きつけでひとり晩酌とでも洒落込んでいたのか、手にしたハイボールを一口啜る。綺麗にスタイリングされたセンターパートの前髪が、隙を作るように一筋だけ鼻先に流れた。

「あの、三月の霧の深い夜の話です」

怒りのためか、不安のためか、背の高いテーブルに突いたフッちゃんの拳は震えていた。しかし、吉良は変わらずとぼけたような顔をしている。おれは矢も盾もたまらず、フッちゃんを制して自分が身を乗り出し、吉良に向かって言った。

「言い方を変えます。フーディエに会わせてください」

すると、吉良の表情が変わった。

「ごめんね。悪いけど、フーディエはもう、」

絞り出すような、優しい声色の言葉。顔に貼り付けた表情は、見覚えのあるものだった。

眉は斜め四十五度に下げ、口角を少しだけ上げた、哀れみの笑み。悲しそうに〝見える〟顔。

おれは目を閉じて、吉良のピアスが光る耳元へ顔を寄せる。

「もう一度、言い方を変えます。平清澄に会わせろ」

瞼の裏の暗闇に、さっきより少しくぐもった吉良の声が届いた。

「……少し、静かなところへ移動しようか。そこで話をしよう。大事な話だからね」


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