『エリカの小屋』202X年6月XX日公開エントリー本文より抜粋
最近は、梅雨空に気分が少し沈みますね。少し間が空いてしまいましたが、皆さん、元気に過ごされていますか。今朝引いたカードは魔術師。良くも悪くもないカードですが、少しだけ不安な気持ちになるのは灰色の雲が立ち込める空のせいでしょうか。占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦です。皆さんはどうか、あまりお気になさらず。(とはいえこんなところに書いてしまっては、うっかり読んでくださった方を巻き込んでしまうことになりますか)
しかし聞いてください。つい先日、私にとって、とても大きな嬉しいニュースが舞い込んできたのです。
私の大好きなあの彼、あの彼が所属しているバンドと、彼とかつて切磋琢磨したあの人――詳細は過去の記事をご覧頂けたらとても嬉しいです――がプロデュースするアイドルグループが、再来月に対バンライブをすることになったのです!
なんて嬉しいことでしょう。もう二度と、彼とあの人の間に接点なんて訪れないかと思っていたのに。どうやら私たちファンの知らぬところで、まだ彼らの間には関わりがあったようです。祭壇に込めた想いが、遂に夏フェスの神にでも届いたでしょうか。
今回のイベントは、都内でフェスやライブハウスでのサーキットイベントをいくつも企画しているイベンターさんが主宰をしているツーマンライブシリーズの一環なのだそう。浅学ながらよく存じ上げなかったのですが、神よりもこの方のもとに花束でも持って駆け付けた方がいいかもしれませんね。
お陰でここ数日、地面から少しだけ浮き上がったような気分で過ごしていました。地に足が付いておらず、常にスキップをして歩いているようで、私が歩いた道程には小さな花畑ができあがります。大学から最寄り駅、家の最寄り駅からささやかな白亜の城(1LDK)までの間に花道をつくりながら帰ると、スマホに通知が来ている事に気づきました。彼のSNSの通知です。どうやら今夜、生配信をする予定のよう。今夜のリラックスタイムの演目は、彼からのこの一行半のラブレターによって決定しました。配信が始まるまでにお風呂と夕飯を済ませ、駅前の商店街のお気に入りの紅茶屋さんで見つけた花の香りのお茶をティーポットから入れて、店員さんに相性がいいからとおすすめされた、ばらの花のジャムを入れます。実家から唯一持ってきた、子どもの頃から大事にしているピンク色のティーカップでゆっくりとお茶を楽しみながら、久しぶりの彼の配信を観る。完璧な幸せの夜です。これがこの世の最後の日でもいいなと思いながら過ごしていましたが、お風呂あがりらしくブローしたてのぼさぼさのピンクの髪でニコニコと、件の対バンライブの話をする彼の様子を見ていたら、やっぱりライブの当日までは生きていなければという気持ちになりました。
大量のCDが敷き詰められ、子どもの頃に大好きだったという魔法少女もののアニメのタペストリーがカーテン代わりにかけられたラックを背景に話す彼は、いつも通りに楽しそうな様子でどんどんとコメントを拾っていきますが、ふいにその表情を曇らせる瞬間がありました。それは、バンドでの曲作りについての話題になったとき。明らかに手元に置いてあるお酒を口にする回数が増えたので、私は思わず「もしかして、スランプだったりしますか?」とコメントをしてしまいました。彼はそれに気がついてくれたようで、よくわかったね、さすが、と少しおどけて微笑み、最近いい曲全然できなくて! と、友達に愚痴るような調子で話し始めたのです。
どうやら今、彼のバンドはアルバムの制作中のようです。今年メンバーがひとり脱退してしまって以来、別のミュージシャンとのコラボなど精力的に活動してきたようですが、思うように活動範囲を広げていけていないのだとか。正直言って私は彼以外に興味がないので彼のバンドの曲の再生数などはあまり気にしていなかったのですが、このままでは彼が音楽で生計を立てていくこともままならなくなってしまいます。それはさすがに困る。本当に正直に言えば、これに懲りてまたアイドルをやってくれたなら、そしてそのときにはあの人のもとで活躍してくれたなら……なんて考えてしまわなかったと言えば噓になりますが、彼は成長した姿を、かつての仲間であるあの人に見せたい、そのためには対バンまでにいい新曲を作りたいと考えている、と話していました。彼のいるバンドはメンバー全員が作詞作曲をできるバンドなのですが、メインで曲を作っていたメンバーが脱退してしまった今、彼の双肩にかかっているプレッシャーは察するに余りあります。
グループにいたときには果たせなかったミュージシャンとしての夢へ、一歩ずつでも向かっている彼の姿を、あの人にも認めてほしい。ファンとして、私もそう望まざるを得ませんでした。
彼の配信も終わり、歯を磨いてベッドの中に潜り込んだ頃、同じアプリから配信の通知が届きました。よく見ると、最近個人的に注目しているシンガーソングライターのアカウントからです。今とても人気のアニメのエンディングテーマなども歌っていて(具体的なタイトルを挙げたら特定されてしまいそうなほど人気のある人なので、それは避けておきますが)、実は、彼のバンドと先月コラボ曲を出した件のミュージシャンも、その人だったのです。その人――指示語が多すぎますね……ややこしくならないように、SNSのアイコンの柄から、「蝶々の君」とでもお呼びしましょうか――は、私がその存在を知った昨年にはまだインターネットの好事家からしか慕われていないマイナーな活動者でしたが、このアニソンのタイアップから一躍知名度を上げて、今やカリスマと言っても過言ではない存在になりつつある方です。こうして気まぐれに行われる配信には、深夜にもかかわらず同接一五〇〇人程度はザラに集まります。うつらうつらとしながらも私もいつも通り思わず通知をタップして、ふたたびインターネットへ舞い戻ってしまいました。
綺麗なオーロラ色に染められた髪で目元が隠れた「蝶々の君」は変わらずのパジャマ姿で、鍵盤を叩きながらコメントを拾っていきます。今回はファンからの質問や相談にこたえる気分のようで、左下に流れていくやわらかな言葉たちを拾っていきます。今日のお昼ごはんはなんでしたか、髪色はどんな美容室で染めてるんですか、好きな香りはなんですか。歌ってほしい曲、弾いてほしい曲、新曲の聴きどころ、作詞作曲で得意なことや苦手なこと……ひとつひとつ丁寧に、ときに煙に巻くようにこたえていく様子を見ていると、この人になら相談してもいいかもしれない、と思いました。
配信が終わってから、私は「蝶々の君」のアカウントを開き、解放されているDMにメッセージを送りました。忙しい「蝶々の君」のことです、読んでもらえない可能性の方が高い。でも、それでもいいと思いました。才能があって、真摯で物腰が柔らかく、さらに彼のバンドと一緒に曲を作ったこともある人。この人以上に今頼れる人はいないと思ったのです。念のため彼の名前は伏せ、伝わらないようにフィルターを何枚も挟むようにしてメッセージを綴りました。気がついたら二時を過ぎていたけれど、次の日は午前の授業が休講だったので問題ありません。
『貴方様よりもまだずっと有名ではありませんが、大好きで尊敬しているミュージシャンがいます。その人が今、スランプで苦しんでいるようなのです。今度、その人にとって一世一代の大舞台があるのですが、それまでにいい曲が作れるようにしてあげたいです。いちファンでしかない私ですが、なにかできることはありませんでしょうか?』
正直に言って、自己満足だったと思います。そのままスマホを伏せてベッドサイドに置き、その日は眠りにつきました。
翌日の同じ頃でしょうか。本屋さんでの週三回のアルバイトを終え、駅前のチェーンカフェで適当にお夕飯を済ませてお風呂もそこそこにベッドに倒れ込んだ頃、スマホにひとつ、通知が届きました。こんな時間ではどうせ急ぎの連絡でもなかろうと、一瞬無視してしまおうかとも思いましたが、不思議な勘がはたらき、一度伏せた画面を見ると、そこにはSNSのDMが届いたとの報せが。そこに輝いていたアイコンは、見覚えのある紫色とピンク色の蝶のイラストでした。私は思わず弾かれたように起き上がり、ベッドの上に正座して通知を開きます。別に寝転がったままでも問題ないはずなのに、何故か自然と背筋が伸びます。「蝶々の君」だわ。「蝶々の君」が、私のDMにお返事をくれたのです。
メッセージの内容は、決して長いものではありませんでしたが、丁寧に言葉を選んで真摯にこたえてくださったことが伝わってくる言葉でした。そんな内容をそのままここに記載するような野暮は致しませんが、「応援している、貴方の曲が好きだ、という気持ちを何度もしつこいぐらいに伝えていくようにしてください」というようなことが綴られていました。
正直に言って、それだけでは私がここに綴るほど感銘を受ける出来事にはならなかったと思います。あの「蝶々の君」からDMの返信をいただいたという体験はかけがえのないものですが、それだけであれば胸の中にだけ秘めておいて、衆目の前に記録しておこうとは思いません。嬉しかったけれど、DMの内容自体は、当たり障りのないものだな、と思ってしまったのです。貴方もそう思いませんでしたか?
ですが、そのDMには、音声ファイルが添付されていたのです。
「私が自分自身の曲の中で使うのは避けた音源ですが、とても気に入っていたので勿体なく、誰かに使ってもらえたら嬉しいと思っていたものです。貴方の好きな方の創作における参考にしていただければ幸い。私の名前を彼に伝える必要はありませんので、貴方の想いを込めて、彼に送ってあげてください。」とコメントが添えられたその三十秒ほどの短い音源を、私は迷わずダウンロードしました。スマホのフォルダの中に、「ALTER.wav」と冠された音声ファイルが表示されます。思わずイヤホンを探しましたが、運悪く手元に見つかりません。もしかしたら、玄関の棚に置いた通学用の鞄に仕舞ったままかもしれない。そのままスマホのスピーカーで聴いてしまっても良かったのですが、せっかく「蝶々の君」がその貴重な時間を使って提供してくれた未公開音源を、安っぽいスマホのスピーカー如きで済ませてしまうのは勿体なさ過ぎる。ミシュラン三ツ星のパティシエによる最高のドルチェをスイーツパラダイスの期間限定ブースで食べてしまうようなものです。そもそもあの方が作った音源ができの悪いものであるはずなどありません。私は音源を自分の耳で確認する前に、あの方の言う通りに想いを込めた言葉を添え、同じSNSのDMで彼に送りました。本当に参考にしてくれるだなんて思ってはいませんでしたが、何かしらの支えになれば……という気持ちで。
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