あるSが息を引き取る三日前

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 清潔に保たれた白い病室で、一人の男が晴れた空を見ていた。その枕元に置かれたサイドテーブルには彼が孫たちと撮った卒寿の祝賀会の様子が写っている。その写真を撮ってからまだ半年と経っていないが、今の彼は鼻に呼吸用のチューブが繋がり、めっきりと老けて見えた。


 つまらなさげに空を流れる雲を見るその老人の傍らには老婆が見舞客のための椅子に座って文庫本を読んでいる。その本の表紙にはベッドに寝ている老人が生気あふれる笑みを浮かべており、『人生を楽しむ方法』と銘打ってものを教えようと人差し指を立てている。


 暫くの間は機械音と老婆がページを捲る音だけが病室に響いていたが、老婆が本を半分ほど読んだあたりで老人が外を見たまま、老婆につむじを向けて平坦な声で言った。


「読むんじゃない」


 それを聞いた老婆はチラリと本から目を上げたが、すぐに本へ目線を戻してページを捲る。


「読むんじゃないと言ったんだ」


「あら、どうしてですか」


 老婆は字面を追いながら答えた。その声にはなんの気負いもなく、疑問の色すらも浮かんでいない。それに老人は気分を害した様子で、低く唸って言う。


「時間の無駄だ」


 しかし、老婆はそれに答えずページを捲る。老人はそれ以上何も言うことなく、再び病室には髪がこすれる音と呼吸器の規則的な作動音だけが響く。


 やがて老人が痺れを切らせた様子で老婆の方を見ると言う。


「良いから読むのをやめろ」


「良いじゃありませんか。私は好きですよ、この本」


「ああ、そうさ。そう書いたからな」


 老人は顔を真赤にして言った。彼はそのまま枯れ木のような腕に渾身の力を込め上体を起こすと、老婆と視線の高さを合わせて睨みつける。その顔は老婆の手にある顔とは対象的に不機嫌さを隠さない、偏屈な老人の偏屈者らしい表情そのものだった。


 老人が睨みつけて初めて、老婆は視線を本から完全に上げて老人の方を静かな目で見つめた。その落ち着ききった目に、並の癇癪なら諌められた気になって落ち着きそうだったが、老人の怒りにはひるませることの役にすら立っていない。


 老人は心拍数を測る機械が奏でる電子音のテンポを速くしながら、不機嫌そうな声のまま続ける。


「好かれるように書いた本が好かれなければ、なんの価値もないさ。だが好かれるように書いた本なんてものは綿菓子と同じだ」


「綿菓子、結構じゃないですの。雲みたいにふわふわで、夢のように甘い。私は綿菓子も好きですよ」


 ほほ笑みを浮かべて老婆が言うが、老人はそれを笑い飛ばした。


「ああそうさ、雲みたいに『ふわふわ』だとも。夢のように『甘い』のさ。中身がなくて地に足がついていないんだよ」


 老人につながった心電図は激しく震え、機械も警告灯を付けるか迷うほどであったが、それとは対象的に老婆は穏やかな様子である。老婆は本を閉じて膝の上に置くと上品に手を重ねて座り直した。


「それが悪いわけでもないでしょう」


「ああ、悪くないさ。悪くないとも」


 そう言うと老人は目を血走らせながら腕を広げ、声を張り上げ言った。


「みんな大好き!『あの』エンターテイナー、ロバートソンが教えてくれる!人生をみんなで楽しもう!」


「旦那様は有名ですからねえ」


 老婆の相槌に、老人は目元を泣きそうなほど歪ませて肩を落とし下を向く。


「有名になったんだ。俺は有名になって、栄光を手に入れたんだ。あいつらが欲しい言葉をくれてやって、素敵な夢を見せてやった。ずっと綿菓子を売ってきたんだ」


 先ほどと打って変わって消え入りそうな小さな声で呟く老人を、老婆は静かな瞳で見つめた。


「みんな、俺の綿菓子が大好きだった。口当たりの良い、すぐに溶けて消える言葉をみんな欲しがって。その本だってそうさ、みいんなその本が大好きなんだ」


 気弱な声で懺悔するようにつぶやく老人。その姿に、老婆はゆっくりとまぶたを閉じる。


「だけどそれが何だ。騒がれたのは最初だけ、見舞いの手紙も最初だけ。今じゃ孫も、ガキどもも、誰も見舞いに来ない。長く連れ添った女には逃げられた。俺が売りつけてきた言葉と同じように、すぐに溶けて消えちまうんだ」


「そうですね」


 目を瞑ったまま老婆が打った相槌に老人の方が小さく震える。その手にはシーツが強く握りしめられ、老人の顔に浮かんだ皺と同様に激しい山岳を形作っていた。


「だが、良いんだ。みんな笑ってたんだ。笑ってるなら良いじゃないか。そうだろう?」


 そう問いかける声は、しかし答えを求める響きはなく、老人自身へと言い聞かせるように呟かれた。そのためか、老婆は答えず、ただ目を開けただけである。老人は乾いた笑みを作って言った。


「もっと笑えるぞ。俺は自分が何を売りつけているのかわかってたんだ。わかって、詐欺師のように売っていた。いや、俺は詐欺師なんだよ」


「存じ上げておりましたよ」


 老婆はここで初めて穏やかだった顔を歪めて、憐れむような声で言った。一方の老人はその言葉に固まって、懺悔の言葉を止める。


「旦那様にお使えした頃から、ずっと。 60年の間ずっと存じ上げておりました」


 老婆はそう言うと、窓の外に流れる雲を目で追ったが、その目には雲は映っていなかった。


「初めて旦那様にお会いした時、この方はなんて胡散臭い方なのかしらと思いましたもの。きっと、その内大きく転げて、坂の下まで転がり落ちてしまうんだと思いましたよ」


 そこで老婆は一度言葉を切って、窓の端から端へと飛んでいく燕を顔で追い、こちらを睨みつける老人と目を合わせた。


「けれど、旦那様ったらいつまで経っても人気者のままなんですもの。私、拍子抜けしちゃいましたよ」


「そんな人気が!」


「嘘みたいな話ですよ」


 老婆は老人の怒号に、意図して被せながら続ける。


「嘘つきが、嘘みたいな話で、嘘みたいな人生を全うして。人生をかけたコメディです。そんな趣味の悪いものですよ」


 趣味の悪いと言われた老人は鼻頭に皺を寄せ、獣のように唸る。その野性的な威嚇を、老婆は意に介さず目を細めた。


「けれど、私もね。趣味が悪いんでしょうね。かぶりつきでそんなコメディを見て。面白かったんですもの」


 その言葉に老人の顔から表情が消える。老婆は能面のような顔をチラリと見たあと、膝に乗せた本を開いて続きを読み始めた。


「ですから、私は。好きですよ」


 老人はその言葉に答えず、ベッドへと横になり体ごと老婆に背を向けて言った。


「出ていけ」


「嫌です」


 それから先は、何の言葉も互いに交わされることはなく、ただ機械音とページを捲る音、そして鼻をすするような息遣いだけが病室に響いた。


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 一言:元ネタは特にいません。

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