第13話
ドンという扉が閉まる音と同時に、立っていた少女がこちらに振り向いた。
振り向いた?
そう、彼女はそこにいた。
誰もいない、僕だけが死ぬはずの屋上。そう思っていた場所に少女はいた。
学生服の上にベージュのカーディガンを羽織っている、白い肌の少女だった。胸元まである黒い髪はまとめられていないのに、ツヤのある光沢を帯びたまま、すらっとしたフォルムを維持している。前髪はスプレーで固めてあるのか均等に
触れたら壊れてしまいそうな、そんな儚く繊細なシルエットのなかで、目だけが異常に見開かれ僕を凝視している。
僕も理解できなかった。
なぜこんな場所にいるのか、何をしようとしているのか。
お互いが予想しなかった出来事にうろたえ、突如現れた異物に
どれくらい経っただろう、拮抗を破いたのは彼女だった。
「なに?」
「えっ?」
「なんでこんなとこにいるの?」
「なんでって……。扉が開いていたから」
的を射ない回答に少女の眉間のしわが深くなる。そして間髪入れず突き放すように言った。
「私、いまから飛び降りようとしてるの」
「このビルから?」
「……そう」
僕はそこであらためて屋上を見渡した。塔屋があるだけのがらんとした空間で、囲いも低いパラペットがあるだけで、転落を防止できるような柵はない。
その無機質な屋上の端に少女は
「死んじゃうよ」
想像し得る事態に僕は胸を痛めた。
「いいの。別に私がいなくなっても、誰も悲しまないから」
そう言って少女は僕から目をそらし、遠くの街、いや空を見つめた。
さながら黒い墓標を連想させるビル群の上で、夕日を背景に水平線みたいな雲がいくつも
風がふわりと舞い、なびいた髪が少女の唇を覆う。でも、彼女は拭おうとはしない。
きれいだった。吸い込まれるほどまっすぐな瞳だった。決意を実行に移さんとする凛とした眼差しは瞬きすらなく、それでいて悲哀を含み涙に潤んでいる。空のキャンバスは今日一番のオレンジを彩り、燃え尽きる花火がせめて最後にその存在を際立たせようとするように、最大限の閃光で少女の透明な肌を紅潮させている。
すべてがキラキラと
なのに、こんなにも可憐で美しい人ですら自殺を選択しようとしている。
「止めるの?」
少女はふたたび僕のほうに顔を向けてそう問いかけた。
僕は力なく首を振った。
「いや、止めるつもりはないよ。僕は君のことを何も知らない、何に苦しんでいるのかもわからない。口を出す権利なんてない。ただ——」
そこで一度言葉を区切った。そのあとを続けていいのか、それを聞いて答えてくれるのか、不安だった。
「ただ?」
しびれを切らした彼女の苛立ちに僕は言った。
「もし死のうとしているのなら、もし自殺しようとしているのなら、その理由を……わけを教えてくれないか?」
ずっと知りたかった答え。どんなに考えてもたどり着けなかった答え。
もし少女が打ち明けてくれたのなら、僕自身も自殺することができるかもしれない。簡易なホームドアすらない、それどころか黄色い点字ブロックすら越えることのできない臆病な僕の背中を、力いっぱい押して線路へと突き落としてくれるかもしれない。
淡い期待に僕は祈った。
でも、返事は残酷だった。
「なんであなたにそんなこと話さないといけないの」
「知りたいんだ」
「言うわけないじゃん」
「そっか……、そうだよね」
僕は肩を落とした。
その態度を不思議に思ったのか少女は尋ねた。
「どうして聞きたいの?」
うつろな瞳を少女に向ける。
「僕も、死にたいと思ってるから……」
少女がはっと息を呑んだ。
また沈黙が屋上を包む。だがそれは、当初の拒絶や不信といった厚い壁ではなかった。
硬い空気は解け、隔たりは消える。僕と少女の間にはある種の信頼関係が生まれようとしていた。理由は違えども互いに自身の死を願い、この世界からの脱却を望むもの。それがシンパシーとなって、僕と少女を結び付けようとしていた。
「一緒に死ぬ?」
風に消え去りそうな音で、少女はそうつぶやいた。
僕は迷った。
なぜ?
悩む必要なんてない。
何度も反芻しただろう。僕に未来はない。
生きていればいいことがあるなんていうのは、たまたま成功した人間が布教しているだけの幻想だ。
もちろんすこしはマシなこともあって、全部が全部イヤなことではないのは知っている。だが、どんなに苦慮しても最終的に待ち受けているのは絶望だ。朝から晩まで放送している、あらゆるニュースもそれを示唆している。
上がり続ける物価、低迷する経済。いがみ合い、足を引っ張り合うだけ人間性。他人の不幸には拍手を送り、幸せにはブーイングをする。
もういいじゃないか。
みんな自殺しよう。
クソみたいな親、クソみたいな容姿、クソみたいな環境、クソみたいな人生。
何も変わらないよ。どんなに懸命に努力してもがんばっても何ひとつ報われない。
もしかしたらお金持ちになれる? もしかしたら愛される? もしかしたら幸せになれる?
そんなことあるわけがない。
わかっているだろう? ゼロに何をかけてもゼロだ。
なにが順風満帆なレーンだ。大学でハブられたら、些細な好意がセクハラと訴えられたら、悪意ある人間に精神的に追い詰められたら。見えない穴だらけの道をすべて回避し続けるなんて不可能に近い。そして一度でも転落したら最後、この国はやり直すことすら許さない。惨めに地べたを這いずり回り、ドブ水をすするしかない。
ラッキーなことにこの少女は僕なんかみたいなやつと一緒に死んでくれると言っている。首を吊る勇気も電車に飛び込む度胸もない臆病者に手を差し伸べてくれている。いざビルの真下を覗いてもし恐怖心が芽生えたとしても、目をつぶり彼女が落ちる体重に身を任せればいい。少女の細くか弱い腕でも、重力が後押しして僕の体をアスファルトへ叩きつけてくれる。
そもそも“死”をずっと望んでいたじゃないか。
少女の言葉にうなずく。
そのたった1つの勇気ですべてが終わる。それ以降はもう何も考えなくていい。
僕は少女を見た。
少女も僕を見ていた。
無表情な視線が交わり、足を踏み出そうとしたそのとき、突風が吹き、持っていたビニール袋が
「ごめん、それはできない」
僕ははっきりと拒否した。
少女はため息をつき、あからさまに落胆したあと、
「怖いんだ」
いつもならひるんでしまうような厳しい視線。だが、僕はたじろがなかった。
「そうじゃない。死にたいと思ってるのは本当。けど、いまは無理なんだ」
「どういうこと?」少女がいぶかしげな顔をした。
「ウサギを飼っているんだ」
突然のワードに少女が面食らう。
「今日もその子のためにエサを買いに行ってきたんだ。家を出てからかなりの時間が経ってしまった。僕が帰らなかったら、ウサギも死んでしまう」
「世話をする人がいなくなって、餓死しちゃうってこと?」
「違う、そうじゃない」
僕は首を振った。
「さみしくて死んでしまうんだ」
涙がこぼれそうだった。
なぜ僕は、僕自身が荒唐無稽で根拠もなにもない、くだらない迷信と決めつけたことにこだわっているのか見当もつかなかった。わけのわからないデタラメに意地を張ろうとしているのか理解できなかった。
それでも、いま僕のなかにあるのはウサギだ。ウサギだけだ。
くりくりとした黒い瞳。ぺたんと垂れた耳。ちいさくて短い手足。ボールを投げると、あごと前足で上に乗ろうとする。僕が移動すると、後をちょこちょことついてくる。頭を撫でると鼻を鳴らし、抱き寄せると嬉しそうにヒゲを擦り付けてくる。疲れたら居心地良さそうに膝の上で眠り、背中を撫でると喜びに身を震わせる。そんなウサギの一挙一動がありありと思い起こされ、絶え間なく僕の心に浮かんだ。
いまここで僕がいなくなったら、ウサギは寿命が尽きる前に死ぬ。
愚かで呆れた妄想、他人の虚言、ただの思い込み。
でも、僕は絶対にそうなると信じていた。
さみしくて死んでしまうと疑わなかった。
「意味わかんないんだけど」
少女は小馬鹿にしたように笑ったが、僕は黙っていた。
言葉が途切れる。お互い無言のまましばらくの時間が過ぎた。
その間、僕はこぶしを固くしたままうつむき、唇をかみしめていた。
「ウサギ、可愛いの?」
突然、穏やかな口調で少女が聞いてきた。
「えっ……? うん、たぶん可愛いと……思う」
返答の言葉に迷いつつもそう答える。
「写真とかある? 見せてよ」
「写真!?」
僕はとっさにポケットの中のスマホをつかんだ。ロックを解除したところで愕然となる。そういえば、1枚もウサギの姿を撮った記憶がない。
「……写真はないんだ」
「マジ!? ふつう可愛かったら撮るでしょ」
「いや、あんまり考えたことなかった」
「信じられない」
言葉とは裏腹に少女は微笑んでいた。
そして何を思ったか、ずけずけとこちらのほうに向かってきた。
「スマホ貸して」
「えっ?」
僕の返事を待たずに、少女はスマホをふんだくると慣れた手つきで操作をし始めた。
「これで良し。スタンプ送っておいたから」
「えっと……、僕はどうすれば」
押し返された自分のスマホを手に、おずおずと問いかける。
「ウサギの写真送って。とびっきり可愛いやつ!」
そう言うと少女は満足げにうなずき、屋上から立ち去ろうとした。
「自殺……しないの?」
後姿の少女に声をかける。少女は背を向けたままつぶやいた。
「今日はしない」
「……なんで?」
すこしの間があった。少女はこちらに振り向くと、優しい笑顔で口元を緩めた。
「だってウサギの写真、まだ見てないじゃん」
そのまま踵を返し屋上のドアを開ける。
「必ず送ってよね!」
最後にもう一度振り返り、そう叫んで少女は姿を消した。階段を下りる足音がゆっくりと遠のいていく。
僕は
いつのまに沈んだのか、夕日は役目を終え、静かな闇があたりを満たしていた。それは僕の影を包み込むように広がり、やがて一体となって消えた。
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