17 石山詣で

 石山寺に行くのはもう少し先の予定だったけど、その日突然、誰にも言わずに出かけようとひとり心に思い立ち、同居している妹にもさえ知らせず、夜が明けた始めたころに家を走り出た。鴨川のほとり辺りでどうやって知ったのか後を追ってやって来る人がいる。有明の月が明るく照っているが、道には誰もいなかった。河原にはたくさん死体が転がっていると聞くけど、そんなことちっとも怖くなかった。夢中で走って粟田山というところまで来て、ひどく息が苦しくなって少し休んだ。どうしてこんなことをしたのか自分でもわからず涙がこぼれた。誰かに見られるかもしれないと涙を隠しながら平然を取り繕ってひたすら走っていった。

 山科ですっかり夜が明けた。太陽が明るく照らす中で姿が丸見えになり、恥ずかしくて頭の中が真っ白になり、何が何だか訳がわからなくなりながら夢中で進んだ。供人は目立たないように少し離れたところを先に行ったり遅れて来たりして分かれて歩いていくので、すれ違う人たちがみんなそんな私たちの一行を怪訝に思ってひそひそ話をしているのが見えて辛かった。

 やっとのことで人の多い山科を抜けて、逢坂の関の清水まできた。お弁当を食べようと幕を引き巡らせてあれこれ支度をしていると、大声で先払いする一行がやって来た。どうしよう、誰だろう、供人のことを見知る人もいるかもしれないと思って大変だと冷や汗をかいていたら、馬に乗った侍がたくさんいて、続いて車が二つ三つ威勢よくやって来る。

「若狭の守の車のようです。」

停まることなく行き過ぎていったのでほっと胸を撫で下ろした。あぁ、あの程度の身分だけれど何と誇らしげに堂々としているものよ。それにしてもあの人の周りで明けても暮れてもひざまづいて媚びへつらっている者どもが、こんなふうに大威張りで地方に下っていくのだなと思って、胸が張り裂けそうになった。若狭の守の一行の中の下々の者たちのうち何人かが列を離れて、私たちのいる幕の近くの清水に立ち寄って水浴びして騒いでいた。その振る舞いがこの上なく無礼だったので、こちらの供人が遠慮気味に、

「あの、そこをどいて。」

などと言っているようだったが、

「ここは行き来する旅人たちが立ち寄るところと知らないのか。咎めたりするなんて。」

などと言い返されているのを見る気持ちは、なんて言ったらいいのだろう。

 一行をやり過ごしてさらに先を行った。関を超えて打出の浜に死にそうな思いでやっと辿り着いた。先に行っていた者たちが屋形舟を準備しておいてくれた。何が何だかわからない有様で這うように舟に乗ると舟人が竿を刺してはるばると漕ぎ出していく。その時の気持ちは侘しくて苦しくて悲しくて、今まで経験したことがないものだった。

 午後五時ごろ石山寺に着いた。潔斎のための湯殿には敷物が敷いてあって、そこに横たわって休んだ。気分がどうしようもなく苦しくてうつ伏せで身をよじりながら泣いた。夜になるとお湯に浸かって、それからお堂に上った。我が身の有様を仏様に申し上げるけれど、涙にむせって言葉にならない。夜が更けて外の方を見やると、お堂は高いところにあって下には谷が見えた。片側の崖には木々が生い茂って真っ暗だった。二十日月が夜更けでもとても明るかったので、木陰を透かして登ってきた道が続いているのが見えた。下の方を見下ろすと、麓にある池は鏡のようだった。高欄にもたれかかってしばらく辺りの景色に目を凝らしていると、片方の崖の草の中にそよそよと白っぽいものがうごめいて妙な声を立てている。

「あれはなんですか。」

と聞いたら、

「鹿が鳴いているのです。」

と言う。どうして普通の声で泣かないのだろうと思っていると、少し離れた谷の方からとても若々しい声で長く尾を引くように鳴くのが聞こえた。鹿が恋人を求める声を聞いて気が遠くなりそうだった。一心不乱に勤行をして頭の中を空っぽにしていたのに、遠くに見える山のあちら側で田んぼの番人が何かを追い払うために粗野で乱暴な声をあげている。出家して山奥で暮らしたら毎日こんな経験をして心を痛めることが多いのだろうと思っては心が塞がる思いだった。それから後夜の勤行を終えてお堂を下りた。体が弱っていたので、湯殿で休んだ。

 夜が明けるさまを見ていると、東側には風がのどかに吹いていて霧が立ち込めていた。川の向こうは絵に描いたようだった。川辺に放牧されている馬が餌を探して歩いているのが遥かに見え、しみじみと見入っていた。これ以上なく可愛がっている息子をも人目を憚って置いてきたので、家を離れたついでに死ぬ準備をしようかと思うが、息子のことを思うと恋しくて悲しくてならない。涙が枯れ果てるまで泣き尽くした。ふと供の男たちの会話が聞こえてきた。

「ここからごく近いそうだよ。さぁ、佐久奈谷を見に行ってみないか。」

「谷の口は吸い込まれそうだと聞くぞ。気が進まないなぁ。」

それを聞いて、いっそその口に吸い込まれてしまいたいと思った。

 こんなふうに心がちぎれそうな精神状態なので、ものを食べることもできなかった。

「お寺の裏手にある池にしぶきと言う草が生えているそうです。」

と心配した乳母子が優しく言うので、

「摘んできてみて。」

と言ったら摘みに行ったようだった。摘んできたしぶきを調理し切った柚子を添えて綺麗にお皿に盛り付けて出してきたのを見て、なんて風情があるのかしらと思った。

 夜になった。お堂に入ってあれこれお祈りし、泣き明かして暁方にうとうとしていたら、夢を見た。このお寺の別当と思われる僧が銚子に水を入れて持ってきて、私の右の膝に注ぎかけた。はっと驚いて目を覚まし、きっと仏様が見せてくださった夢なのだろうと思って、ますます心を打たれて悲しかった。

 そろそろ夜が明けますと言う声がして、すぐにお堂を下りた。まだとても暗いけれど湖面が白々と遠くまで見え渡って、木沓の片方ほどの大きさの舟が見下ろせた。立ち去り難いけれどいよいよ帰るということになり、寺を出て今朝ほど見た木沓のような舟に乗り込んだ。いくらお忍びとはいっても二十人ほどの人が乗るにはあまりに貧弱で心もとなかった。御燈明の奉納などの世話を焼いてくれた僧が見送りで岸に立っていた。私たちの乗っている舟がどんどん漕ぎ出してしまうのを見つめて、僧は心細げに立ち尽くしていた。今は長く住み着いて新鮮味も無くなった地に取り残されて、京に帰る我々が羨ましくてならないかのように寂しそうに見えた。供の男たちが、

「またすぐ、来年の七月に参ろうぞ。」

と大声で呼びかけると、

「わかりました。」

と答えた。舟が遠くなるにつれて僧の姿が影のように浮かんで見えたのが悲しかった。

 空を見ると月はとても細くて湖にも月が浮かんでいた。風が吹いて湖面が波打ち、ザワザワと騒がしい。若い供の男たちが、

「声細やかにぃー 面痩せているぅー」

と歌を歌い出したのを聴いて、ぽろぽろ涙がこぼれた。いかが崎や山吹の崎などというところを遠目に見やって葦の間を漕ぎ進んでいく。まだ物の形がはっきりと見えないほどだったが、遠くから楫の音がして心細く歌いながら来る舟があった。すれ違うときに、

「どちら様の舟ですか。」

と供の誰かが聞いたら、

「石山へ人のお迎えに。」

と答えたようだ。その声がよく知っているように聞こえたのは、こちらで呼びつけていた舟だったからだった。到着が遅くて他の舟で帰ってきてしまったので入れ違いになりそうだったところをちょうどここですれ違った。そこで舟をいったん止めてこちら側に乗っていた供の男たちは後から来た舟に移り乗って、広くなった舟にゆったり乗りながら心のままに歌い進んだ。瀬田の橋のところにさしかかった頃、夜がほのぼのと明けてきた。千鳥が空高く飛び上がりながら行き交っていた。何もかもが心にしみて悲しいこと限りない。さて、行きにも来た浜に舟が到着すると迎えの車が来ていた。京には午前十時ごろに着いた。

 家では心配した人々が集まっていて、

「もしやどこか遠いところへ行ってしまったのではと大騒ぎしてたのよ。」

と言うので、

「どうなろうとかまわないけど、でも今はまだやっぱり思うようにはならない身なのよ。」

と答えた。

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