第31部 4202年31月31日

 時計の針を眺めながら、時間とは何だろうと僕は考える。


 前にも考えたことがあるトピックだった。すでに何度も考えている。しかし、これまでに結論が得られたことはなく、大抵の場合、考えている内にお腹が減ってきて、美味しいものを食べて、それで満足して、問題の存在自体を忘れてしまう。今はその問題が再来したときだった。それほど退屈なのかもしれない。あるいは、アイデアというのは、こういう状態のときに思いつくものだろうか。


 たしかに、退屈といえば退屈だった。僕は彼女の帰りを待っている。彼女が帰ってくる時刻は決まっているので、早くその時刻にならないかと思って、時計と睨めっこを始めたのだ。


 時計の針が動くことを理由に、時間の存在を証明することはできない。そもそも、時間とは「存在する」ものであるのかどうかも分からない。存在の対象は、基本的に物体的なものでしかありえない。とすると、もし時間が「存在する」とすると、時間は物体的なものということになってしまう。しかし、それは直感に反していた。論理的に時間が物体的でないことを論じることは難しいけれど……。


 空間と時間を比べたとき、いつも、空間の方が一次的であり、時間の方が二次的であるように思える。それは、おそらく、人間(あるいは、動物一般?)が感覚の中でも視覚を最も頼りにして世界を把握するからだろう。見るという認識は、空間的な対象を捉えようとする。もちろん、時間的な対象をも捉えるが、その点では、どちらかというと、聴覚の方が優れている気がする。


 文章を読むときは、左から右へと、時間の流れに沿って読むことになるが、それ以前に、文章全体の形、つまりは、段落の凸凹や、句点や読点によって句切られた文の長さなどを、瞬間的に把握する段階がある。そうした空間的な把握のあとで、時間的な理解へと進むのではないだろうか。


 しかし、文章全体の形を把握するにしても、そこに時間がまったく介在していないとはいえない。どれほど瞬間的であっても、やはり時間はかかる。


 では、微分の考え方を導入したら、どうなるか?


 瞬間的であればあるほど、その瞬間は、限りなくゼロに近くなる。


 僕達は、それを、時間の経過と認識するだろうか?


 玄関のドアが開く音がする。後ろを振り返ると、彼女がそこに立っていた。


「tadaima」と彼女が言う。


 僕は、彼女の姿を見て、とても嬉しくなった。あまりに嬉しくて、これまでずっと待ち続けていた、その時間を忘れてしまった。


 時間とは何かを理解するためには、常に時間のことを考えていなければならない。


 しかし、それは、人間には、いや、少なくとも僕には無理なようだ。

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