見て見ぬふりができたなら

「せいやぁぁぁぁー!!」


 王城を覆う緑が登り行く陽に映える中、中庭にサヴィアーデルの声が凛と響く。


 見えざる敵と戦うかの如く振り下ろされる剣軌は正しく苛烈だが、まだ仄暗さが残る早朝の時分である。城勤めのエルフ達が、渡り廊下や個々の部屋から何事かと顔を出すのも無理はない。


「……精が出るのは結構だが」


 あからさまに眠そうな顔をしたルフェッドが、堪らず彼女に歩み寄る。


「流石に時間を考えてくれ。こうも毎朝奇声で叩き起こされたのでは、寝覚めが悪くて敵わん」

「失礼した」


 短く応じたサヴィアーデルの剣が、ぶんと音を立てて風を切る。


「たぁぁぁぁぁー!!」

「人の話は聞くものだぞ、客将」


 弱った様に頭を掻いたルフェッドだったが、眼前で稽古に打ち込むその横顔を眺めているうちに、我知らず片眉を上げた。


「サヴィアーデル…貴公、何かあっ」

「何もない!何も!」


 鬼気迫る勢いで白刃を閃かせるサヴィアーデルの頬を、無数の汗が伝い散る。


「私は!いつも通りだ!これからも!今までも!!」

「…生き様を問うた覚えはないがな」


 ひとつ嘆息した後、ルフェッドは肩を竦めると身を翻した。背中越しに客将へと声を投げる。


「暫く剣を振っていないのだろう、ほどほどにしておけ」


 多くの侍従達が視線を注ぐ中、ルフェッドは欠伸を噛み殺して歩き出した。その胸中がわずかにささくれ立つ。

 この国に留まり続け、少しずつ柔らかさを覚えてきたはずのサヴィアーデルは、まるでグリーグレアンに足を踏み入れたその日に戻ってしまったかの様に見えた。


 あの女に何があったのか、知りたいとは思わない。だが、言い様のない小さな失意が自分を襲っている事もまた、ルフェッドは否定出来ないでいる。




 ルフェッドの密かな落胆など、無論サヴィアーデルは知る由もない。だが、誰よりも自分に失望しているのは、他ならぬ彼女自身だった。


「くそっ!」


 部屋に戻ってもとめどなく込み上げる苛立ちに、思わず大声が口を吐く。恐らく、通りすがった侍従のエルフ達が廊下でびくりとしているに違いない。

 申し訳ないとは思いながらも、サヴィアーデルは自らへの嫌悪を抑えられなかった。乱暴にベッドに腰を下ろし、長い髪を掻きむしる。


「……何を……やっているのだ、私は……!」



 今にして思えば、リソルデ王妃の進言から全てが始まっていた。


 彼女の見解によれば、ケスディルスは心の奥底に深い傷を作っているのだという。だが、誘われるまま散策に同行し、幾度となく時間を重ねても尚、彼に差し込んでいるだろう影の一端さえ、サヴィアーデルには見つける事が出来なかった。


 一度気になった事象には極めて真摯に、そして愚直に向き合うのがサヴィアーデルという人間である。つまり、散策の度にケスディルスを注意深く観察する日々が始まった。


「見よ、この見事な果実を。生命とはかくあるべきよ」


 赤く熟れた果実を手に見せた、陶酔した眼差し。


「おぉ、これは染み入る…。心が洗われる様だ」


 新たに見つけた湧き水を掬って飲み干した、子供の様な表情。


「……あれに比べれば、我らの何と矮小な事よ」


 夕暮れにかかった大きな虹を前にした、凛とした佇まい。そして。


「美しいな」


 あの日、朝靄に濡れた巨木を見上げたケスディルスの何気ない一言に、サヴィアーデルは全てを剥奪されてしまった。


 もし、……あの言葉が、あの視線が、

 私に向けられたら。



「……馬鹿か、私は!!」


 急激な火照りを顔に感じながら、サヴィアーデルはベッドをひたすらに片手で叩いた。何の罪もない枕が行き場のない苛立ちを被り終えた頃、サヴィアーデルは両手で顔を覆う。


「……嫌だ、もう……」


 ナツェルトが誇る将軍、最高位「三虎」の一人。音に聞こえた武勲や誉れ高き名声を併せ持っていても、結局は一人の人間。故に、自分の中で渦巻くこの感情の名をサヴィアーデルは知っていた。


 どれほど剣を振って断ち切ろうとしても鎮み得ない、身体の真ん中から自分を自分でなくしてしまう熱の正体は、紛れもなく恋である。

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