第二章 ホラー編④

 絵度荊華は人と話すことが苦手だった。会話というものが上手くできない。自分の考えや意見を言うということが得意ではなかった。


 今まで友達と呼べるようなものができたことが人生で一度もない。きっとそれは彼女が抱える自分に対する自信のなさが原因なのだろう。


 特別勉強が得意なわけでも、運動神経が良いわけでも、特段容姿や顔がいいわけでもない。


 何をやっても失敗するし、人が当たり前にできることが自分にはできない。鈍臭いとはよく言われる。


 人に誇れるものなど何もなく、それゆえに自分が誰かと友達になれるなど、誰かと釣り合いが取れるなどとは思えない。


 だから、彼女は一人でいた。


 でも、それでもよかった。


 彼女は小さい頃から大人数で外で遊ぶよりも、家の中で一人で本を読むのを好むような少女だった。


 高校に入ってからだって、それは変わらなかった。一日中、学校で誰とも話さないということはザラにあった。


 それでもいいと思っていた。


 でも、今日詩録と波瑠の二人で一緒に過ごして、会話をして、笑い合って、誰かと一緒にいるのもいいものだとも思うようになった。


「堀田さんはこんなわたしにでも積極的に話しかけてくれるし、家達さんも少し怖いけど意外と優しいし……」


 そう独り言を呟き、眼鏡を外し、三つ編みを解いた少女は足を伸ばして座れるほど広い浴槽のお湯に肩まで浸りながら、天井を見上げる。詩録も波瑠も自分に一番風呂を譲ってくれたことを嬉しく思う。


 そして、わずかに口を綻ばせ一言。


「……ふふふ、少し、楽しい」


 言ってみたものの、恥ずかしくなったのか、誰にも聞かれているはずはないのに、誤魔化すために口を浸す。


 水面の下に沈む口元は、まだ少し綻んでいた。


 * * * 


 荊華が入浴を終え、次に波瑠が入れ違いにお風呂場へと向う。


 荊華はリビングへと戻ってきた。そこには、カーペットの上にあぐらで座り、テーブルの上にノートと問題集を広げる詩録の姿があった。


「……お風呂、ありがとうございました」


「あー、随分早かったな。もっとゆっくり入っても別によかったのに」


「……いえ、十分温まりましたので。……家達さんは勉強、しているんですか?」


「ああ、特にやることもないんでな。そういえば、お前は課題とかねえのか?」


 ギクリとする荊華。どうやら今の今まで課題の存在を忘却の彼方へと追放していたらしい。


 彼女はちょっとオロオロしながら目の前の上級生の男子に尋ねる。


「……あの、勉強見てもらってもいいですか……?」


「ああ、いいぞ。何の課題だ?」


「……数学です」


 そして、波瑠が入浴を終え、詩録の入浴の順番が回ってくるまで、しばしの間詩録は荊華の勉強を見ることに。


「……これはどうやって解けば、いいですか……?」


「それは一回グラフに起こせば可視化できてわかりやすくなる。しっかり値をグラフに書き込めば、見た目より難しくはねえ」


「……この方程式の、使い方がよくわかりません……」


「それは方程式の意味を理解してねえからだな。一回、自分で方程式を導けばいいぞ」


「……あの、この問題なんですけど……」


「ああ、それはな────」


 リビングのテーブルを囲み、荊華は詩録に教えてもらいながら順調に課題を片付けていく。気づけば、課題を始めた四〇分が経過していた。


「お風呂ありがとうございましたー。いいお湯でしたよー、詩録くん」


 ふと壁にかかる時計を見たタイミングで、廊下へ繋がる扉に背を向ける格好で座っていた詩録の背後から声がした。反射的に声のする方向を向く。


 そして、すぐさま視線を前に戻す。


 何とそこには、バスタオル一枚でいる波瑠の姿があった。


 すぐさま視線を戻したとはいえ、濡れた髪や風呂上がりでうっすら上気した頰、バスタオルによって押しつぶされた豊かな胸元、バスタオルの裾から覗くむっちとした太ももが瞼の下に焼きついて離れない。同性であるはずの荊華もお風呂上がりの波瑠のあまりに艶やかな姿に気まずそうに視線を逸らす。


「……波瑠っっ!! なんで着替えてから来ないんだよっ!!!」


「ふふふ、すみません。私としたことが、コンビニで買ったはずの下着を鞄の中に忘れてしまいまして」


「なら、絵度に取りに来させるとかすればよかっただろ……!」


 と、叫んでみたのだが、返ってきたのは波瑠の棒読みのセリフ。


「ふふふ、そうですねー。私としたことが、うっかりしてましたー」


「お前絶対わざとだろ……! 俺をからかうためだけに身体張りすぎだっっ!!!」


 そうして、宣言通り自分の鞄からコンビニで買った下着を回収する波瑠。詩録は目を固く瞑り、心を無にする。こういうときは素数を数えるべきだ。


「ふふふ、どうしましょう? 少しはしたないですけど、もう一度脱衣所に戻るのも手間ですし、ここで着替えてしまいましょうか」


「それだけはやめてくださいっ……!!!」


 懇願とも悲鳴ともとれる叫びをあげた詩録であった。


 * * *


 一悶着はあったものの、無事詩録まで入浴を終え、気づけば時刻は一〇時過ぎ。高校生の就寝時間にはいささか早い気もするが、疲れただろう荊華を気遣い早めに眠ることに。


「俺はこのままソファで寝る。寝室に来客用の布団敷いといたから、お前らはそこで寝ろ」


 とのことなので、荊華はベットに、波瑠は敷かれた布団に寝ることに。


「あ、そうだ、お前ら。念の為にから寝ろよ」


「「???」」


 と言われたので、素直は二人は言われた通りスマホの電源を落とし、布団に潜り込む。


 のだが、その後しばらくしても荊華は全く寝られなかった。何回か寝返りを打ってみても、睡魔が襲ってくる気配はない。


 ふと枕元の目覚まし時計を見てみれば、時刻すでに一二時。さすがにそろそろ寝なければ、明日の学校に差し支える。だが、寝ようと思い焦れば焦るほど寝られないものである。


「荊華さん、もう寝ましたか?」


 穏やかな声で語り掛けられた。


「……まだ、起きています……」


「寝られませんか?」


「……はい……」


「なら少し、お話しましょうか」


 波瑠がそういうと二人の間に少し沈黙が下りる。これはどちらかが話題を提供しなきゃならない流れなのか。


 そう思った荊華は意を決して自分から波瑠に話しかける。


「……堀田さんは、実際話してみると、聞いていたイメージとは、違ってました」


 波瑠はその家柄と美貌、高い能力ゆえに奏朔高校でも有名人なのである。


「イメージと違う……? あら? そうですか? どんなイメージだったんですか?」


「……頭が良くて、運動もできて、優しくて、友達がいっぱいいて……。……こう、もっと、冷たい人だと思ってました」


 そう言って、荊華は自分の言葉が足りなかったことを悟る。今の言い方では誤解される。だが、


「ふふふ、冷たい人……?」


 波瑠が優しく穏やかな声で問い返してくれて安心した。


「……何でもできて、どんな人にも好かれて……、わたしとは、何もかも、違っていて……。……何でもできる、完璧な人だから、もっと、こう、あの、人間味がないなって、勝手に思ってました……」


「ふふふ、確かに少し前までの私は、絵度さんの言う通り、自分で言うのもなんですが、完璧すぎて人間味がなかったかもしれませんね。……実際に私とお話ししてみて、どうでした? 今も私もやっぱり人間味がありませんか……?」


 そういう波瑠の声が不安に揺れているように感じたのはきっと荊華の勘違いだろう。


 寝るために三つ編みを解き、眼鏡を外した少女は少しだけ勇気を込めて言う。


「……堀田さんは、ジャンクフードが好きで、家達さんをからかうのが好きで、好奇心旺盛で、優しくて。そんなあなたがわたしは好きです」


 きっとこんなに勇気を出せたのは、暗くて直接顔が見えないからだろう。自分で言って信じられないくらいに、彼女は勇気を出してその言葉を言った。


「……嬉しいです。……荊華さん」


 そうして二人の間は少し照れくさくて、自然と会話は終わってしまった。でもその静寂は居心地の悪いものではなかった。


 気づけば荊華はいつの間にか微睡に落ちていた。


 * * *


 午前二時。それは草木も眠る丑三つ時。


『……ん。……ちゃん』


 絵度荊華は遠くで微かに聞こえる聞き慣れた声によって水面から顔を出すように微睡から意識を半分浮上させる。


 そして、聞こえてくる声に耳を澄ました。


『……荊華ちゃん。荊華ちゃん』


 その声は母親のものだった。どうやら玄関の方から声がするらしい。


 荊華は隣で眠る波瑠を起こさないように慎重にベットから降り、寝室を出て、廊下を通り、玄関へと、声のするほうへと向かう。


『……荊華ちゃん、お母さんよ。やっぱり心配で迎えに来たわ。もう夜遅いけど一緒にお家に帰りましょう?』


 玄関の扉の向こうでは、黒い人影が蠢いている。


 荊華は眠気によって閉じようとしている瞼を擦りながら、玄関に置いてあったサンダルを拝借して玄関に出て、その扉のドアノブに手をかけた。





 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る