『君に染まる』

『雪』

『君に染まる』

 暗闇に吐き出した吐息は真っ白な煙となって、乾いた夜の空に溶けて消える。羽織っていた上着の襟に隠れるようにして首を竦めると、足早に帰路に着く。

 暫く道なりに歩いて行けば、レトロ感とは異なる古めかしい外観のアパートが見えてくる。近隣の賃貸と比較しても遥かに安いボロアパートの一室を契約して、既に三年が経とうとしていた。

 入居当初は家賃だけで決めてしまった事にそれなりに後悔はあったのだが、住めば都とはよく言ったもので慣れてしまえば苦にならない程度の生活は送れている。

 アパートの外端に取り付けられた塗装の剥げた階段の段差を踏み締める度に、ギシギシと軋むような音を鳴らす。錆びだらけの外観も相まって、何かの拍子にあっさりと崩れ落ちるんじゃないかと階段を使う度に不安が過る。慎重に、しかし素早く登り切ると最低限の通路だけを確保した狭い廊下を渡って、隣人達の部屋の前を通り過ぎた。真ん中の部屋の扉にはここ数日の間に張り付けられたのであろう真新しい催促状らしき紙が張り付けられており、他人事ながら思わず溜め息が溢れ出た。

 コピー品である事を隠そうともしない安っぽい鍵を使って、建て付けの悪いアルミ製の扉を開く。後ろ手に扉を閉めて視線を少し下にやると、見覚えの無い女物のサンダルが脱ぎ散らかされているのが分かる。靴を脱ぎ、自分のものとサンダルを揃えて端に寄せる。短い廊下とワンルームを隔てる引戸の向こう側はぼんやりと明るい。薄っぺらな扉を引けば、ベッドやテーブルなど生活に必要な最低限の家具家電が押し込められた押入れの如き部屋、その中心には本来であれば隣の部屋で生活しているはずの隣人の姿があった。

 相も変わらず何を考えているか分からないような薄ら笑いを貼り付けたまま彼女は軽く手を挙げる。彼女の動きに合わせて墨色の長髪が僅かに揺れた。


「やあ、お邪魔してるよ。少年」


 あぁ、やっぱり放っておけば良かったんだ。取り繕う事もなく僕はため息をついた。




 彼女とはその日まで殆ど会話らしい会話をした事も無かった。元々大学に通うために借りた寝床だと割り切って家賃以外の全てを切り捨てて選んだのがこの物件だった。

 越してきた頃に一度菓子折りを持って挨拶をしたのが最後。それ以来、生活スタイルが違うのかばったり会うような事もなく、月日は流れていった。

 秋も深まり、深夜には冬の様相すら醸し出してくるようなある日の事、部屋の前で悠々と煙草を吹かしている隣人と目があった。挨拶がてら話を聞くと、部屋の鍵を失くしたらしい。大家さんにも連絡したが、交換出来るのは早くても明日以降だと言われ、近隣に知り合いもおらず、ホテルを借りる為の持ち合わせも無くて途方にくれているんだ、と言った事情を聞かされた上で、ではお大事にと別れるのはあんまりにも人の心が無いだろうという事で、一晩だけ泊める事になった。そこからだろうか、彼女は自分の部屋の鍵を変えて貰ってからも方法は不明なのだが、ウチに入り浸るようになった。

 扉の前に張られた催促状から分かる通り、彼女はちょっと所では無い程に金遣いが荒い。こうしてあらゆる督促状が張り出されている事も一度や二度では無く、結構な頻度でやれ水道が止まっただ、電気が止まったとウチに駆け込んで来る。どうも借金まであるらしい。出来れば関わりあいになりたくない類いの隣人である。


 バイト返りに貰ってきた廃棄品の弁当を腹に詰めてプラスチック容器を水道でサッと洗う。彼女と違ってウチは別に水も電気も止まった事はない。彼女はベランダの縁に腰掛け、紙煙草を吹かしていた。明日の朝か昼ご飯になるはずだったもう一つの弁当は当然のように彼女に奪われ、空っぽになった容器はいつの間にか流し台に置かれている。全開にした窓から夜風が流れてきて、只でさえ寒い部屋の温度を下げてゆく。悴む手を震わせながら洗い物を終えると、蛇口を止めた。

 彼女の方をちらりと見ると、ちょうど灰皿に煙草の先を押し付け火を消すところだった。紫煙の残りをふぅと吐き出してからゆっくりと窓を閉める。

 こちらの方が年下とはいえども、男にズカズカと歩み寄られてなお、飄々とした態度のままの彼女が気に入らなくて、やや強引に布団の山へと押し倒した。彼女は少しだけ驚いた表情を見せたが、それも僅かな間であり、直ぐに何時もの薄ら笑いに戻る。どうにも上手く乗せられているような気さえしてきて、悔しさを隠すように噛み付くような野蛮なキスを一つ、彼女の唇に落とす。


「……マッズい、煙草の味しかしねぇ」


「勝手に人の唇を奪って置いて言う台詞かい?」


 目の前に要るのは最低な女だ。借金はあるし、フラフラと定職にも付かずギャンブル通い。直ぐに返すからと騙され、幾ら貸したかなんてもう覚えちゃいない。オマケに年がら年中スパスパと吸うもんだからせっかくの綺麗な髪も含めて全身から煙草の匂いがする。奇跡的に酒には弱いのだが、その酔い方は褒められたものではない。毎回ウチのトイレを小一時間占領された挙げ句、ずっとえずいているのを聞かされる身にもなって欲しい。そんなカスみたいな隣人。

 あの日からダラダラと付き合いを重ねていく内に、弾みで一線を越えてしまった。彼女との行為は付き合っていた過去の女の誰よりも深い快楽をもたらした。彼女と身体を重ねる度に戻れない程に深みに沈んでいくような、そんな気さえしてくる。

 蕩けてゆく理性が鳴らす警告の鐘の音など聞こえないフリをして、再び彼女と唇を重ねた。




 遮光カーテンの隙間から差し込む朝日が瞼越しに突き刺さる。緩やかに覚醒してゆく意識と共に、身体のあちこちがじわじわと痛み出す。抱き付かれていた彼女の腕をそっと剥がして上半身だけを起こすと、ぼやける視界で辺りを見渡した。乱れきったシングルベッドに一糸纏わぬままの彼女と身を寄せ合うように眠っていたらしい。凝り固まった身体を伸ばし、欠伸を一つ噛み殺す。ふと昨晩の情事がフラッシュバックして、今更ながら凄まじい後悔の念に襲われた。

 どう取り繕おうとも彼女との関係は公に出来るものでは無いし、決して褒められたものでも無いだろう。誰かにこの関係が露見すれば、早々に縁を切るべきだと言われるだろう。そんな事は言われずとも自分が一番分かっているのだ。

 それにも関わらず彼女から離れない、いや離れられないというべきなのだろう。蜘蛛の巣に絡め捕られた獲物のように、踠けば踠くほどに深みにハマってゆく。

 きっと自分の未来は録なものにはならないだろう、と当たり前過ぎる分析に思わず嘆息する。この事を彼女が知れば、何というのだろうか。或いはあの何も変わらない薄ら笑いを意味有りげに返すのだろうか。

 思考を切り上げて布団から抜け出し、彼女が脱ぎ散らかした衣服のポケットを漁る。如何にもなデザインの安っぽい紙煙草を一本とライターを拝借した。這うようにしてベランダの方へと向かい、窓を少しだけ空けて煙の逃げ道を作る。見上げた空は自分の憂鬱な心象風景とは違い、透き通るように晴れ渡っていた。

 そんな空模様にすら言い様の無い苛立ちを覚え、せめてもの抵抗に紫煙の一つくらい浮かべてやらなければ気が済まない、と紙煙草の先端に火を灯す。肺一杯に煙と酸素を吸い込めば、クラクラとするような感覚に襲われる。むせ返るように煙を吐き出して、揺蕩う紫掛かった煙が青空に溶ける様にほんの僅かに溜飲を下げた。

 辺りに漂う苦い煙草の香りに僅かに顔をしかめると、半分以上残った煙草を灰皿に押し付けて鎮火する。溢した溜め息からは当然の様に色濃く煙草の香りがしたのであった。

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『君に染まる』 『雪』 @snow_03

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