a fact of life (1)

 用務員室では、三人の男が卓袱台を囲んでいた。卓袱台の上には五〇〇ミリペットボトルの緑茶と紙コップが三組置かれ、平はそれをぼんやりと見つめていた。理科担当のカガミ教諭が気まずい沈黙に耐えかねたのか、ペットボトルを開けて三人のコップに注ぐ。

「どうして、白池先生が……」

 カガミが茶を注ぎ終わったタイミングで、平がぽつりと漏らした。殆ど独り言のようだった。カガミは困った顔で教頭を見たが、教頭は悠長に茶を啜ると

「うーん、やっぱり茶は熱い方がよろしおますな」

 と席を立とうとした。カガミがそれを手で制し、「ワタクシが」とコンロの方へいそいそ歩いて行く。いかにも気の利く素振りだったが、実際は気まずい空気から逃げたかったのだろう。水道の音、薬缶が五徳に置かれる音、カチカチっというコンロの着火音がほとんど等間隔に響いた後は、再び沈黙が場を支配した。

 平はずっとペットボトルと紙コップを見つめていた。どこかで見た光景だった。だが、それを思い出すことを、彼の脳が拒否しているようだった。

 カガミが戻ってくると、ようやく教頭が口を開いた。

「そもそも、おかしいと思いまへんか?」

 平は怪訝な顔を教頭に向けた。

「どうして、平先生には我々が見えているのか……」

 そういえばそうだな、と平は思う。だが、今は全く関係のない話だった。虚ろな生返事を返した平に構わず、教頭は続ける。

「別にこれは、平先生に霊感があるとか、超能力があるとかいう話ではないのです。むしろ、本来人間には我々のことが見えておるのです。しかしながら、大部分の人間は自分の中にある常識と異なるモノが目に入った時、無意識にそれを意識の外へ追いやってしまうのですな。トリックアートだのマジックだのは、そういう人間の特性を利用したものが多い。たしか、認知症不良婆、といいましたかな」

 認知的不協和だ、というツッコミを口に出す元気もなく、平はまた生返事をする。

「以前にも似たようなことを言いましたが、現代社会においては、我々妖怪など存在しないという常識を人間が共有しているがために、我々は認識さえされなくなっておるわけですな。ところがです」

 教頭は冷たい茶を一口啜り、あからさまに顔をしかめると、続ける。

「平先生には、それがないのです。そこにあるもの、見えているもの、聞こえているもの、全てをあるがままに受け入れてしまう、特殊な感覚の持ち主なのです。だから、我々のことが見えるし、話すことも出来てしまう。非常に子どもに近い、純真無垢な感性を持っておいでなのです」

 平はそろそろ限界だった。どこまで話を逸らせば気が済むのだ、このハゲは。

「それが何の関係があるんです? ミサキ先生は無事なんですか? どうして白池先生があんなことを? いったい何なんですか、これは!」

 平は思わず語気を強めたが、相変わらず教頭は動じなかった。

「まあまあ、落ち着いて聞いてください。ここから話さんと分かりまへんのですわ」

 カガミが居心地悪そうにしているのを見て、平は取り敢えず座りなおした。教頭は少し間を空けて再開する。

「ただ、それが悪い方向に働くこともあります。人一倍違和感に敏感な分、普通の人間であれば覚える違和感を受け流してしまうきらいがあるのです。『これはそういうものなんだろう』『他の人にとってはこれが常識なんだろう』とね。或いは、それは平先生が優し過ぎることに起因するのかもしれまへんが」

 違和感を受け流す、という言葉を聞いて、再び平は卓袱台に目を落とした。

――そう、そういえばあの時……いや……


  ダメだ。考えてはいけない……


 葛藤する平の脳内へ潜り込むように、滑瓢教頭は鋭い言葉で投げかけた。

「そう、そんな風に、ですわ。そんな風に態と盲目になってしまうのです。それは平先生なりの優しさであり、慮りなのでしょうな。しかし、それが致命的なのでおます。優しさはときにそのまま無責任と等価。結果、周囲を、或いは平先生自身を傷つけてきたという事実に、そろそろ向き合ってもらわなあきまへん」


 嫌だ。


 知りたくない。


 気付きたくない。


「正直なところ、これをやるのはもう少し先にするつもりでした。むしろカガミ先生無しでことが進むのが理想だったのです。あまり露骨に現実を見せてしまうと、平先生が壊れてしまう可能性がありますからな。しかし、向こうが直接あのような形で接触してきた以上、隠していても仕方ありまへんし、平先生にも現実と向き合っていただく必要がおますのや」

 そう言うと、教頭はカガミに目配せをした。カガミは出し抜けに四つん這いになると、綺麗に頭頂の禿げた頭を平に晒す。

――なんだ、いつぞやの自虐ネタか?

 思わず身構えた平の前で、禿げ頭の頭皮が波打ち始める。一つ波打つごとに凹凸が消え、だんだんと平面になっていく。同時に、その色は金属光沢を持った鈍色に変化し、側頭部や後頭部に残る毛髪がうねうねと火炎模様を描いていく。

 最終的に、カガミの頭は一枚の銅鏡へと変化した。カガミは俯いたまま、口上を述べるような厳かさで言った。

「ワタクシ、人間がいうところの雲外鏡でございます。鏡を覗き込んだ者が目を背けている現実を強制的にお見せするのがワタクシの仕事。さあ、平先生、向き合う時間ですぞ」

 ハゲ頭が銅鏡に変わるという珍奇極まりない現象に見惚れていた平は、拒絶する間もなく鏡面を見つめる形になっていた。鏡の中の自分と目が合った瞬間、平は鏡に吸い込まれるような感覚を覚え、意識が急速に遠のいていった。


   ※


「おはようございます、平先生」

 白池の声で、平は目を覚ました。メキメキ☆エデュケイションの職員室だった。

「ああ、白池先生。今日はありがとう。ごめんね、忙しいだろうに」

「いえいえ、卒論もだいたい目処がついてますし、もうサークルの方は三年に任してますからね。何より、平先生のためならお安い御用ですよ」

 平の意志とは関係なしに会話が進んでいく。その会話には覚えがあった。英語検定当日の朝に交わした会話だ。

「はい、どうぞ、眠気覚ましです」

 机に緑茶の五〇〇ミリペットボトルが二本置かれる。

「ええ、ごめんね! こんなの僕が用意しないといけないのに……」

「いえいえ、平先生にはいつもお世話になってますから」

 白池はコンビニのビニール袋から紙コップを取り出すと、ペットボトルの横に置いた。

 突然、白池の動きが止まる。否、白池だけではない。先ほどまで聞こえていた時計の音も、外から聞こえてくる喧騒も聞こえなくなっていた。平の体も固まったまま動かない。完全なる静寂。時間が静止したようだった。

――え? 何だこれ。何が起こったんだ?

 固まったままの体勢で困惑している平の頭上から声がした。カガミの声だ。

「そこは平先生の記憶の中にございます。先生にはご自身の記憶を追体験していただきます。が、先生が少しでも違和感を感じた場合、記憶は自動で一時停止いたします。ご自身が違和感の正体を認知するまで、停止は解除されません。もちろん、勝手に記憶の中から抜け出すことも出来ません」

 滅茶苦茶だ、と言いたかったが、あくまでも記憶を追体験しているだけの平に発言することは出来なかった。

 そんな状況においても、やはり平は認知を拒否していた。懸命に目の前の光景から目を逸らそうとする。しかしながら、記憶の中で平自身の体も固まっているわけだから、僅かに視線を動かすことだに出来ない。そのうち、平は異様な息苦しさに気付く。いや、息苦しいのではない。息をしていないのだ。

「ああ、ちなみに……」また頭上からカガミの声がする。

「そこでは時間が止まっていますので、平先生の呼吸も止まっています。平先生が自由に出来るのは思考だけ。呼吸を含めた身体的行動は一切できませんので悪しからず」

 ふざけるな、と叫びたかったが、やはり出来なかった。そうしている間にも息苦しさは増す。平の痩せ我慢は早くも限界を迎えつつあった。

――だめだ。このままじゃ、死ぬ……

 もはや選択の余地は無かった。平は頭の中で感じた違和感を言語化する。

――そう、なんで白池先生はわざわざ紙コップを買ってきたんだ? 五〇〇ミリのペットボトルが一人一本ずつあるのに……

 映像が動き出し、平はようやく窒息から解放された。

 試験会場の設営が終わり、二人は一息つく。白池が甲斐甲斐しく茶を紙コップに注ぎ、平の前に差し出す。

「ありがとう。いただくよ」

 平は紙コップの茶を一口飲む……と同時に、また映像が止まる。平は一瞬躊躇するが、違和感を認める外なかった。

――そうだ。このとき一瞬、変な味がしたんだ。茶の苦みとは明らかに違う、どこかケミカルな……

 また映像が動きだす。平の意識に、どす黒いものが影を落としつつあった。

――まさか、あの紙コップに……

 試験が始まる。リスニングCDをラジカセにセットし、注意事項のトラックを再生し、受験生にスマートフォンの電源を切らせ、鞄にしまうよう指示する。やがて試験が始まる。そしてしばらくもしないうち、平は強烈な眠気に襲われた。

――ダメだ。ここで寝ちゃいけない!

 平は記憶の中の自分に対して強く念じたが、無駄だった。意志とは関係なく瞼が閉じては開き閉じては開きを断続的に繰り返し、やがて世界が暗闇に包まれた。平は諦めきれずに何度も自分自身へ呼びかけたが、やはり徒労に終わった。

 どれだけの時間が経っただろうか。あの時に見た夢が繰り返される。血の海、生徒たちの叫び声、無残にも首から上を失った教室長。そして、日本刀を持つ男……凶刃をヌラリと光らせ、男がゆっくりと振り返る。そう、あれは……

「先生!」

 半ば叫ぶような声がして、ようやく平の瞼が開く。女子生徒の山中が引き攣った顔で平を見ている。記憶の中の平はゆっくりと時計を見る。と、そこでまた映像が止まった。

――そう、このときもおかしかったんだ。山中に起こされたとき、すでに試験終了間際の十一時三十分だった。筆記試験は十時半から十一時五分だから、二十五分の空白があったことになる。試験時間はホワイトボードに書いていたのに、こんなギリギリになるまで誰も気がつかなかったのだろうか。いや、五分や十分は気付かないかもしれない。ずっと起こしていたけど、僕が一向に起きなかったのかもしれない。だが、それならもっと早い段階で白池先生を呼びにいったはずだ。真面目な山中ならなおのこと、そうしたはずなのに……

 また記憶が動き出す。平は緩慢な動きで教室を見渡す。と、また映像が止まる。平の中で、何かが決壊しようとしていた。

――ハハ……そうだよなぁ。あの時はパニックになっていたし、酷い頭痛でそこまで気にしていられなかったんだよなぁ。柳田、ニヤニヤしているのはいつものことだが、どうしてお前は鞄にしまったはずのスマートフォンを机に出しているんだ……

 白池が教室に駆け付けてくる。もはや一時停止の必要もなく、平は思い出していた。

――試験終了の時間になっても出てこないから駆け付けただって? アハハ、変じゃないか。試験が終了したら、試験終了の放送を流して、解答用紙を回収して、受験生がホームページで合否確認をするための受験番号とパスワードをメモしているか確認して……アハハ、終了時間ピッタリに出てくるわけがないだろう。ウヒ、アゥヒヒィ……せっかちだなァ、白池先生は……


 それから時間は進み、受験生がすっかり帰ってしまった教室で白池が笑っている。

「アハハ、大丈夫ですよ。試験が終わったあとで、俺の方からそれとなく言い含めておきましたから……」

――言い含めた?

ねえ、何を?

何を言い含めたのかなァ


 平の脳裏で、日本刀を持った男が振り向いていた。男は小麦色の肌を血に染め、白い歯を剥きだして笑っていた。


ねえ、白池先生……


 ピィィーッと薬缶がけたたましい声を上げ、平の意識は再び遠のいていった。

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