Stormbringer (2)
ボタリ、ボタリと、何かがアスファルトに落ちる音が響く。少し間を置いて、少女の体が膝から崩れ落ちた。平の脳が目の前の光景を理解するより先に、ヨルが地面を蹴っていた。意味不明の怒号と共にクーちゃんの元へ駆け寄っていく。だが、その疾走は半ばで遮られた。ヨルの前に黒い影が立ちはだかったのだ。
「ンだテメェゴルアァァ! どきやがれゴルアァァ!」
完全に正気を失ったヨルの叫びが闇をビリビリと震わせる。しかしながら、対する返答は実に飄々とした口調だった。
「へえぇ、君、もしかして夜行さんじゃないの?」
平はそこでようやく状況を飲み込んだ。飲み込まざるを得なかった。それは他ならぬ篠田晴の声だったのだから。
強烈な眩暈が平を襲う。目の前で教え子の女子生徒が殺され、恐らく彼女に思いを寄せていた男子生徒がそれを目の当たりにして正気を失っている。あまつさえ、手を下したのは自分の元教え子……最悪中の最悪といっても過言ではなかった。
「てめぇがやったのか……」
ヨルの声は先ほどまでの半狂乱が嘘のように、冷静さを取り戻していた。かといって、いつものイキった調子でもない。低く、どん底まで落ちるような冷たさに支配されていた。だが、挑発なのか強がりなのか、はたまたとんでもなく鈍感なのか、篠田の口調は変わらず飄としていた。
「いやぁ、なんだかアッサリだったよね。可愛いからちょっと勿体なかったけど。ま、安心してよ。今は君とやりあう気はな……」
言い終わらない内に、篠田の体が宙高く舞う。アッパーカットを振り抜いた夜行の顔には、ゾッとするような笑みが浮かんでいた。
アスファルトに叩きつけられ、篠田は地面をのたうち回る。ヨルが大股に距離を詰めていく。篠田はしばらく悶絶していたが、ヨルが近づくのを察してヨロヨロと立ち上がった。平の背筋に厭なものが走る。ゆっくりと上げた篠田の顔は無残にも左の顎から頬にかけて腫れあがり、口からは粘性の血液がダラダラと垂れていた。にも関わらず、
少年は笑っていた。
ヨルが地面を蹴り、一気に距離を詰める。篠田は慌てて懐から形代を取り出したが、全く間に合わなかった。否、どういうわけか平には、間に合わせる気が無いようにさえ見えた。ヨルの拳が信太の右頬にめり込む。くぐもった破砕音が響く。信太の体は再びもんどり打って、近くに積まれたゴミ袋の山へ深々と頭から突き刺さった。
ヨルは痙攣を起こしている篠田の足首を無造作に掴むと、ゴミの山から引きずり出した。そして馬乗りになると、躊躇なくハンマーナックルを振り上げる。
――拙い。本当に殺す気だ。
ギリギリと音が聞こえるほど握りしめられたヨルの両拳に、みるみる青筋が浮かんでいく。圧倒されて動けずにいた平は、無意識に駆け出していた。
「やめるんだ!」
平は叫びながら、振り下ろされる寸前でヨルの腕に組みついた。だが、人間である平の力はあまりにも非力だった。平はヨルの腕にしがみついたまま、ずるずると引き摺られていく。
「なあ、センセイ。なんで邪魔すんの?」
ヨルの声は笑っていた。「とっとと離せよこのカス、てめえからぶっ殺すぞ」と翻訳できることは明らかだ。それでも、平は手を離すわけにはいかなかった。
「なあ、正直に言えよ。グルなんだろ? やっぱり」
「違うって言ってるだろう!」
「じゃあ何で止めるんだよ。コイツはチビを殺したんだぜ? あんた教師だろ。チビはあんたの授業を受けてただろ? それとも何か? やっぱりあんたにとっちゃ、俺たち妖怪どもは生徒でも何でもないってことか?」
言いながら振り払おうとするも、平はしつこく食らいついて離れなかった。
「ンだよ! しつけぇなぁ! てめぇからぶっ殺されたいのか!」
「違うんだよ!」
平が叫んだ。情けなく上ずった声色に虚をつかれたのか、ヨルの力が一瞬緩む。闇夜にズルズルという奇怪な音が響く。思わず振り向いたヨルは顔を引き攣らせた。
「違うんだよぉ……違うんだよぉ……クーちゃんも、お前も、篠田もおぉ……」
平太郎、御歳二十六、顔面をぐしゃぐしゃにし、鼻水まみれでしゃくりあげていた。ヨルの顔が青ざめる。
「ウゲェッ、なに泣いてんだよ! 気持ち悪い。いや、マジで気持ち悪い……」
直球の蔑みにも構わず、平はしゃくりあげて泣き続けていた。ヨルは洗濯物についたナメクジでも見るような視線を平に向けていたが、すぐに嫌悪は怒りに戻った。
「しつけぇんだよ、このニンゲン野郎が! もういい、てめぇごとこのクソガキに叩きつけてやる!」
ヨルは腕に力を込め直し、信太の額に狙いを定める。
「そこまでよ。ヨル君」
正面から声がして、ヨルはゆっくりと視線を上げた。
「は? なんであんたがここにいるんだよ?」
ヨルが片眉を吊り上げる。いつの間にか、ミサキがすぐ横に立っていた。
「ヨル君、あなただって分かっているでしょう。今日は庚申の日じゃない。もしその少年を殺したら、あなただってタダでは済まないのよ」
冷静なミサキの口調に、ヨルは唾を吐いた。
「ンなこと関係あるかよ! チビがあんなことになっちまったんだぞ!」
「は? あたしがどうかした?」
「えっ?」と、ヨルと平が同時に顔を上げる。ミサキの背後からクーちゃんが顔をのぞかせた。
「は? いや、え? お前……」
わなわなと唇を震わせるヨルの顔が俄かに上気していく。クーちゃんはそれを醒めた目で一瞥すると、
「ていうか、二人とも尾行してたのバレバレなんですけど。キモすぎ……」
そう言って踵を返した。チリチリと、蜻蛉玉の音が闇に溶けていった。
ヨルは暫くポカンとしていたが、思い出したように憎々し気な眼差しを篠田に向けると、ブツブツ言いながら立ち上がった。邪険に振り落とされた平は尾骶骨を強かに打ち付けて悶絶していたが、やがて立ち上がると、篠田の腕を肩に抱えた。
「ケッ! やっぱりお仲間ってわけか。好きにしろ。ただし、二度と俺たちの世界に関わるな。顔も見たくねぇ!」
ヨルは毒づいて平の頭に唾を吐きかけた。だが、平はそんなことはお構いなく、ミサキに頭を下げた。
「すみません。コイツを保健室に連れて行って治療したいんです。良いですか?」
ミサキが頷く。
「ええ、そうしましょう。いろいろと聞かなきゃいけないこともありますからね」
瞬間、ヨルが目を血走らせた。
「ふざけんじゃねぇ! そいつは俺らの敵だぞ。そんなことさせてたまるかよ!」
息まいたヨルの目を、平はまっすぐに見つめた。いつになく真剣な眼差しに、ヨルが一瞬怯む。
「こいつは……いや、こいつも、俺の生徒なんだ」
ヨルは眉を顰め、平の目を睨み返していた。彼はしばらく平の肚を探るように無言でじっとそうしていたが、ケッと吐き捨てて背を向けた。
「勝手にしろや」
蓬髪が溶け込んだ闇夜の中から、ぽつりと響いた。
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