Freewheel Burning (2)

 記憶を頼りに境まで辿り着いた平だったが、ふと尻込みした。

――そういえば、外に出て大丈夫なのだろうか……

 授業を完全放棄することになるし、クズハや教頭に大目玉を喰らうのは目に見えていた。いや、大目玉ならまだ良いが、今度ばかりは愛想を尽かされて追い出されるかもしれない。それに、路地裏に出た瞬間、柳田の母に対する傷害事件を捜査中の警官とバッタリ出くわす可能性もある。だが、背に腹は代えられない。ワッチが暴走したのは自分のせいだ。罪もない子どもたちが犠牲になることだけは避けなければならない。平は一つ大きく息を吸い込むと、外へと踏み出した。

 眩い光が晴れると、平は路地裏に出ていた。明るい。雨が続いていた中での晴れ間。日差しで蒸発した雨が不快指数を急上昇させていた。六限の授業を抜けてきているから、だいたい午後三時前後といったところだろうか。規制線や警官の姿はなく、平はひとまず胸を撫で下ろした。

 慌てて出てきたものの、探す当ては無かった。町中を駆けずり回ってでも捜索するよりなかった。が、どうやらその必要はないようだ。路地裏を出るなり、見計らったように悲鳴が聞こえてきたのだ。瞬間、平は何の躊躇もなく駆け出していた。

 悲鳴はパチンコ屋の車道を挟んだ斜向かいにある公園から聞こえてきていた。公園へと近づくにつれ、悲鳴がはっきりと聞こえるようになっていく。幼児と大人の悲鳴が入り混じっている。

 公園に辿り着いて、平は慄然とした。轟音を立てて広場を駆け回る巨大な一双の車輪。その車軸受けからニュッと生えた筋骨隆々の腕が、一人の幼女を掲げていた。

「イヤアアァァ! ママ助けてエェェェ!」

 公園に幼女の悲鳴が響き渡る。広場の隅では恐らくママ友集団なのか、女性たちが各々の子どもを抱きかかえて戦々恐々としている。その中で一人、とりわけ狂ったように泣き喚いている女性がいる。恐らく幼女の母親なのだろう。

 平はその光景を見て違和感を覚えた。輪入道に抱えられた幼女を含め、子どもたちは怯え、泣き喚いている。だが、ママ友集団はポカンとした顔で幼女を目で追っているのだ。いくら母は強しといえども、あの恐ろしい輪入道の姿に対する反応としては落ち着きすぎている。

『そもそも人間は我々のことなど認識さえしなくなってしまっていたのです』

 平は教頭の言葉を思い出していた。

――なるほど、見えていないのか。つまり彼女たちには、あの幼女が一人でに宙を舞っているように見えているわけだな。そして恐らく、子どもたちだけにはワッチの姿が見えている。それは幼子の純粋さゆえか……いや、そんなことは今どうでもいい。

 平は輪入道がグルグルと駆け回る軌道の脇へ駆け寄ると、両手を広げて呼びかけた。

「おい、ワッチ!聞こえるか。僕だ。平だ。その子を離すんだ!」

 だが、輪入道は平の声に耳を貸すどころか、恍惚として「ようじょ、ようじょ」と歓喜の声を上げるだけだった。

「ダメだ! なんというか、その表情は凄くアウトだ。頼むからその子を離して僕の話を聞いてくれ!」

「よ、ようじょ! ようじょおぉぉ!」

「だからようじょはダメだ! 僕が悪かった! 僕が悪かったから!」

 正気を失っているワッチに必死で呼びかける。だが、ここで平にとって思いがけない事態が発生した。

「ちょっと、あの人ヤバいんじゃないの?」

「完全に頭のオカシイ奴よね……」

 平の耳に、ママ友たちのヒソヒソ声が聞こえ始めたのだ。無理もない。彼女たちには輪入道の姿が見えていないのだ。客観的に見れば、平は宙を舞う幼女に向かって意味不明のことを叫ぶ変質者なのである。

「ねえ、あれ、通報した方がいいのかしらん」

 その言葉を聞いて、平は思わず叫んでいた。

「ちょっと、通報だけはやめてください! いろいろと……いろいろと拙いんです!」

――なんてこった。変質者を止めるために奮闘しているこちらが変質者扱いを受けるだなんて。無情だ。世は無情すぎる。とにかく、早急にワッチを止めないと……だが、どうすれば……

 駆け回る輪入道の軌道に割り込んで止めることは不可能だった。そんなことをすれば、一瞬で四肢がバラバラになってしまう。

――そうだ、『此処勝母之里』の札を……

 思い出すと同時にアッと声を上げる。ポケットをくまなく弄るも、見つかるはずはなかった。平は自分の間抜けさを責めたが、同時に安心もしていた。力なく崩れ落ちたワッチの姿……もうあんなものは使いたくなかった。

 平は一つ深呼吸をすると、ワッチのことを観察した。そう、観察だ。授業で養った観察眼を駆使するのだ。

 車輪の怪物は相変わらず一定の軌道を描いて暴走を続け、止まる気配がない。


 グルグル

      グールグル


――いやあ、それにしても、ずいぶんと回ってるなぁ……


       グルングルン

       ぐるぐるぐるん   


――あれ、あいつ、もしかして……いや、まさかな……

 平はグルグル回り続ける輪入道を観察した結果、とてもとても馬鹿馬鹿しい可能性に辿り着きつつあった。


          ぐるぐるぐるぐる

    ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……


――うん、そうだよな……

 馬鹿馬鹿しい可能性は、確信に変わりつつあった。いつまでも同じ軌道を回り続ける車輪。ワッチの狂喜しつつも、どこか焦点の定まらない視線。何人もの生徒を見てきた平の勘が冴え渡る。そう、あれは……

――目的を見失った者の目だ!

 平は意を決して車輪の軌道に立ち塞がる。そして、向かってくるワッチに向かって冷静に、しかし声を張り上げて語り掛けた。

「ところでワッチ。お前、その子を攫ったとして……」

「うへぇっ!ようじょ!ようじょ!」

「それで、それからその子をどうするつもりなんだ?」

「ようじょ!よう……よ……」

 平の目前まで迫っていたワッチが急ブレーキをかけ、あわや轢殺というところで何とか停止した。

「あ?何だって?」

 血走ったワッチの目が平をねめつける。

「いや、だから、その子をかどわかしたとしてだ、そのあとどうするつもりなんだと聞いているんだ」

 ワッチは首を傾げて宙を仰いだ。

「どうって、言われてもなぁ……」

「身代金でも要求するのか?」

「はあ? そんな下らねえことするわけないだろう!」

「そうだよな。人間風情から金を頂戴するなんて妖怪としての矜持が許さないよな。じゃあ何だ? そんな可愛らしい幼女を八つ裂きにでもするのか?」

 ワッチの顔から一気に血の気が引く。

「や、八つ裂き? そんなカアイソウなことするわけないだろう!」

 明らかにワッチは動揺していた。平はその隙を見逃さない。

「ほおぉぉう!八つ裂きにもしないというのか。では残る可能性は一つだな。そんな年端もいかない幼女に、あんなことや、こんなことを、したりいいィィィ、させたりいィィィ!」

 一転、ワッチの面皮が急速に沸騰した。

「ば、馬鹿にしてんじゃあねえぞ! 断じて……そんなつもりは断じてない! 確かにようじょは尊い! ようじょは大正義! ようじょしか勝たん! だが決して俺は、ようじょを性的対象としては見ていない!」

「ほほう! つまりワッチ、君は『YES!ロリータ!NO!タッチ!』この古より伝わる紳士の精神を貫いていると、そう自負しているわけだね」

「そうだ!俺は紛れもない紳士! 紳士だ!」

「だが!」

 平は満腔マンコウの自信をもって幼女を指差した。

「ワッチ、君はもう、タッチしているではないか!」

 ワッチはおもむろに自分の掲げた腕を見上げた。そして次の瞬間、その目は絶望に見開かれた。

「あぁ……ああぁぁぁ……」

 再びワッチの顔面から血の気が引いていく。

 彼は見てしまったのだ。自らの節くれだった指が、幼女の白い太腿に食い込んでいるのを。

「あぁぁぁ……お、俺は……オデは……何てことを……!」

 ワッチは自らの冒した罪を認識し、わなわなと震え始めた。ショックのあまり、幼女をその手から取り落とす。平はすかさずワッチの懐へ駆け込むと、幼女の体を優しくキャッチした。

「もう大丈夫だよ。ママのところへお帰り」

 慈愛に満ちたスマイルで幼女を地面に降ろす。幼女は喚きながら平のスマイルに蹴りを入れると、母親のところへ走り去っていった。母親は平に感謝を述べることもなく、ゴミを見るような一瞥をお見舞いし、そそくさと帰っていった。

――ああ、無情……

 遠い目で母親の後ろ姿を見送っていた平だったが、突然背後から声が掛けられた。

「先生……すまねぇ。俺が間違っていた」

 振り返ると、ワッチの顔は車輪の間でしょぼくれていた。平は目頭を熱くした。そうか、分かってくれたのか。思えば、輪入道へと姿を変えたときに彼は言っていた。「先公のくせに」と。あれは平を見下した罵倒の言葉などではなく、平のことを先生として信頼してくれていた裏返しだったのだ。彼は平が思っているよりもずっと素直で……

「『NO!タッチ』を貫け無かった俺に紳士と名乗る資格はない。本物の紳士となるべく、俺は精進するぜ」

「ああ、そっち?」

 平は脱力して膝から崩れ落ちた。


 次の瞬間……


 小さな稲光のようなものがワッチの頭上に光った。


 刹那、辺りを真っ白にするほどの閃光が場を包み、低い悲鳴が響き渡る。その声は紛れもなくワッチのものだった。平はすっかり目が眩んで全く状況を掴めなかった。そしてようやく目が慣れてくると、平はさらに混乱した。ワッチが青白い炎に包まれていたのだ。

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