第2話 不法侵入(2)

 人魚ってあの人魚……か?

「いやいや、お姉ちゃん。酔いすぎだって、それは」

 いくらここがよくわからない研究施設だったとして、人魚なんているわけがない。

『ほんとだって! いいからこっち来な! そしたら本当だってわかるから。私の見間違いじゃなければね!』

 本当だと言いつつ見間違いでなければと念を押すお姉ちゃんが少しおかしかった。自分でもしたたかに酔っている自覚はあるのだろう。

「……わかったよ。それ見たら帰ろう、ね!」

 私はそこで電話を切った。そしてお姉ちゃんの言う通り、プールを探して歩いた。真っ直ぐ行って左手正面、だったか……。

「あ、お姉ちゃん」

「杏奈ちゃん、こっちこっち!」

 暗がりでお姉ちゃんが手招きをする。案外近くにいたようだった。

「で、人魚はどこ?」

「そこそこ! そこがプールみたいなんだけど、大きな尾びれと人の頭が交互に見えたんだよ! 人魚だと思わない?」

 お姉ちゃんが指さす先をじっと見る。暗くてはっきりは見えないが確かにプールにありがちなフェンスが設置されている。地面よりも一メートルほど高い位置にプールサイドが作られているせいで水面の様子はここから見えない。

「『思わない?』って聞かれてもなー。わかんないよ」

「じゃあ確認しに行こう。そしたらもう帰るからっ。ね?」

 有無を言わさず私の手を取り歩き出すお姉ちゃん。

 うーん、デジャヴュ。

 私とお姉ちゃんはプールサイドをぐるりと囲むフェンスに手をかけた。が、足をかけるべき部分はフェンスの土台としてコンクリートで固められているのでどうにも滑ってしまう。

「えー、さすがにこれは無理だなぁ」 

 猪突猛進なお姉ちゃんでもそう判断することもあるのだ。

「それならしょうがないね。帰ろう、ほら」

 私の声が耳に入らなかったのか、お姉ちゃんはフェンスの周囲をゆっくり歩き始めた。

「どっかから入れないかな」

 諦めたわけじゃなかったのかよ。

 逆に私は諦めた。お姉ちゃんを御することを。

 お姉ちゃんのあとについてフェンスの横を歩く。するとプールサイドへ続くようなスロープを見つけた。簡易的な鉄柵はあるが、軽々と越えられる高さだ。

「なーんだ! 楽勝で入れるんじゃん!」 

 もう何も言うまい。

 お姉ちゃんが先に鉄柵を越え、例に漏れず私も続く。スロープを十数歩進むとそこには懐かしさを感じさせるプールがあった。

 しかし、懐かしさを感じたのも束の間。プールの中に誰かがいた。水面に鼻から上だけを出してこちらをじっと窺っている。

「えっ! こわ! 人魚じゃなくて幽霊なんじゃないの!?」

 じっとり濡れた黒髪とスマホのライトで照らされた瞳が怪しく見える。

「……うん、なんかそう思えてきた」

 幽霊と人魚、あえてどちらの方がレアリティが高いかと言えば当然人魚だろう。それなら出会う確率が高いのは幽霊だ。ということはやっぱり幽霊……いや?この場合そんな比較をする意味ないか。もうわけがわからなくなってきた。

 暑さと眠気と酔いでボーっとしている頭を振って、再度プールを見る。

 やはり何かいる。

 私はお姉ちゃんの耳にも聞こえるくらいの勢いで唾を飲み込み、に話しかけてみた。

「お、おーい! 人魚……さん? 幽霊かもしれないけど! まー、いいや。とにかく、こんな所で何してんの?」

 半分ひっくり返った声がプールサイドに響く。私は恐る恐るプールに近づいた。もうあと一歩踏み出せばプールに落ちそうなほどに。それと同時に水面から出ていた頭の上半分が消えた。どうやら水中に潜ったようだ。

 隠れてしまった。

 ように思ったがその何かは勢いをつけてザバッとプールサイドに飛び上がってきた。

 長袖のテラテラしたウエットスーツを着た人の上半身にシルバーに輝く魚の尾。セミロングの黒髪は肩の辺りにぺったりと張り付いている。

 うーん、これは人魚。

 議論の余地がないほど、見紛うことなき人魚だった。

 

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