16.理想

 ミシマジュンコはここ半年、体調を崩しがちだった。


 引っ越しを機に変わった環境に慣れなかったのか、それまで邁進していた仕事にも身が入らず、安定していた成績も落としがちで、近くエリアマネージャーからのレビューも決まっていたという。ノルマを守れない理由と、ここからの再起が可能かどうか見定める為だ。そこで目処がないと判断されてしまうと、明確に環境や待遇も変わってくる。


 だからこそ彼女を含めた従業員は最適なノルマを目指していた。日々定期的に購入してくれる手堅い顧客を得て、ローンという緩やかで長い拘束を以て関係を深め、長く関係を続けてもらう。


 彼女が長く付き合っていたイガラシという婦人は、その枠からは少し逸脱した異端だった。祖父が遺した土地を転がし、運良く需要と供給の恩恵を受けて懐の潤った父の資産に惹かれ結婚した母の一人娘として生まれ、不自由ない生活を送ってきた。


 甘やかされて育った彼女は、そのストレスのない生活の中で「自分の両手で抱え切れる範囲は確実に幸せにできる」という裏付けの無い確信を持って成長していった。恐らくは欲しいものはなんでも手に入ったが故のものだ。


 彼の夫も彼女が欲しいと言った男を父と母の協力を以て手に入れた言わば“トロフィー”のようなものだった。


 そんな彼女から生まれた息子たちにもそのイズムは継承された。

 だがその頃には、当時の潤沢な資産も徐々に目減りし、栄華を極めた社会も泡のように弾け、現実を目の当たりにした子供たちは皆それなりの恩恵は受けながらも数少ない財を以て守りを固め築く道を選んでいた。一人当時の光景に縋りつく母の姿は、彼らにどう見えていたのかは分からないが、少なくとも美しくは映ってはいなかったのではないだろうか。


 やがて夫を亡くし、息子達とも距離を置かれつつあった中で、彼女にとっての唯一の癒しは孫たちだけだった。可愛らしい顔をしておばあちゃんあばあちゃんと近寄ってくるその愛らしさに彼女はすっかり魅了された。

 

 中でも特に可愛がったのは、件の孫だった。


 引っ込み思案であまり人前に出るのを苦手とし、人付き合いもあまり積極的になれなかった彼は、親族の中でも少し浮ついていた存在だった。その若干の孤立感も良かったのだろうが、彼女は特にその顔に惹かれたという。あの頃、何がなんでも欲しくて手に入れた夫の面影を一番受け継いでいたのが、彼だったのだ。


 彼も彼女とは波長が合ったのだろう。幼い頃から彼はとても可愛がられ、それは成人した現在まで続いていた。


 彼の両親から何度叱られても、彼女は密かに彼と繋がりを持ち、両手で抱きしめて大切に扱った。大丈夫、ばあちゃんはお前の味方だよ、お前はあの人によく似ているから、きっと立派になる。気に入った相手がいれば、その気になればきっと手に入る。お前にはそれだけの力があるんだ。



「まあ、長年そういう話を聞けば、お孫さんもその気になるでしょう」


 店長のキサラギは深くため息をついた。僕とミヤマは顔を合わせ、それから彼女が用意してくれたアイスコーヒーを一口飲んだ。


「あの、そのお孫さんと、ミシマさんがトラブルになったってことですか?」


 長い客の話に痺れを切らしたのか、ミヤマが核心に触れる問いかけを口にする。キサラギはちらりと彼女を見た後、僕に目を向けて呆れたように微笑んだ。


「そう、お孫さんがね、行き過ぎたの」

「行き過ぎた、というのは」


 僕が尋ねると、彼女はその言葉の通り、と言った。


「イガラシさんね、孫の話をよくしてくるのよ。ミシマちゃんが一番、それこそうんざりするほど話を聞いていたと思うけど、彼女がいない時は別の子にも話をしたし、勿論私もね。とにかく彼女がお孫さんを溺愛していて、理想像を押し付けていたみたい。お前はもっと出来る、両親はそれを分かってない、理解できない他人なんて信じるな、私だけが味方だ、なんてね。お孫さんもそれを真に受けて育っちゃったみたいでね。まあ、ある意味では彼も被害者なのかな」


「被害者」

「高すぎる理想に、逃げられなくなったのよ」


 彼女はそう言って話を続けた。


「イガラシさん、時々販売会に孫を連れてきたの。ミシマちゃんもその辺りは特に気にしなかったみたい。時々親族を連れてやってくる人もいるから。それで食事をして、うちの商品をいくつか選んで購入を決めた時にね、彼女言ったのよ。うちの孫はどうかって」


 恐らくはそれが去年僕が店で聞いた出来事だ。


「それからもうちの店でミシマちゃんに何度もお見合いを勧めていたんだけど、のらりくらりとかわしてた。何より彼女自身が恋人がいることを何度も伝えていたし。でもね、それでもうちの孫の方が絶対にあなたを幸せにできるって言って引かなかった。流石に行き過ぎていたから注意して、本人自身はとうとう諦めたみたいだった」


「でも、お孫さんはその気になったままだった、と」


 ミヤマの言葉に彼女は頷く。


「初めにね、イガラシさんに連れられてきた彼を見た時、なんとなく手遅れだと思った。勿論そんなことをお客さんの前では言えないし、言う義理も無いから適当に話だけ合わせたけど、でも彼、何から何まで彼女の言うがままで、自分の意思もなくて、でもプライドだけはやけに高くて。彼女から聞き学んだ自慢話を延々としていた。怖いわよね、今更現実を受け入れることもできないから、誰かの理想に縋るしかない。そんな生き方」


--求められた理想像であり続けること。


 それに応えるというのは、どんなに大変なことだろう。僕は見たことのない彼の姿を想像する。親からは期待されず、懐いていた祖母には嘗て愛した彼女の中の理想の旦那の姿を当てはめられている。その期待に応えようとするうちに全てが手からこぼれ落ちていく。気がつけば自らを喪失し、唯一残った「祖母の理想」という自我に縋りつき、時代遅れの価値観だけが増長して、周囲が現代に生きる中で彼だけが彼女と共に「美しかったあの頃」に取り残されていく。


「最初はね、店の外から見ている程度だったのよ、丁度この位置」


 彼女の言葉に僕とミヤマは店の方に目を向ける。丁度店の全景が見える位置に僕たちは座っていた。壁面に沿って設置されたコの字型のショーケースと、その中で暇そうにルーティンを続ける女性店員たちの姿がよく見える。


「気づいていたけど、店に入ってくるわけじゃなかったから注意もしづらくてね。でも少しづつエスカレートして、ミシマちゃんがいない時には店で商品を見るようになって、イガラシさんの買い物にも帯同してくるようになった。彼女も注意を受けていたからその時にはもう彼を使って何かをすることはなかったし、ただのお客さんに戻っていた。でも、本人のケアまではできていなかったの」

「それでミシマさんに、何があったんですか?」


 彼女はもう一度呆れたように笑うと、首を横に振った。


「連絡先をね、聞きたかったみたい。それまでイガラシさんに同行しても本人が何かするわけじゃなかったから様子見程度だったんだけど、ある時スイッチが入ったみたいに喋り出したのよ。うちのばあちゃんはすごい、だから俺も期待されてるって、だからチャンスをくれないか、絶対に満足させてみせるからって。それに対してミシマちゃんが渡したのはうちの名刺だった。お渡しできる連絡先はここだけですって。馬鹿にされたと思ったみたいで、突然怒鳴り出して、それからはもう大騒ぎモールの警備員を呼んだり大騒ぎ」


 ミヤマと僕は顔を見合わせた。


「彼にとって、ミシマちゃんは最後の寄る方だったんだろうね」

「寄る方」

「理想に、現実が追いついちゃったのよ」


 理想に、現実が追いついてしまった。


 僕はしばらくその言葉を頭の中で反芻していた。彼は終始理想に生きていた。誰のかと言えば、それは間違いなく愛すべき祖母のだろう。だが、彼女が語る理想はあくまで彼女の中にある理想でしかなく、その十全を汲み取りきれない彼からすればそれは再現性のない理想でしかなかった。


 ミシマという存在は、そうした祖母から受ける途方も無い理想像を体現する上で実現性のあるものだった。現実に存在し、そして彼女を手に入れることで、祖母が思い描く理想像を、形ばかりでも達成することができる。


 そういった意味では、ミシマという存在は彼が初めて巡り会った実現性の高い理想だったのだろう。だから彼も躍起になったし、その姿を見たイガラシもまた、初めて自分の理想に近づく愛すべき孫の姿に高揚した。その結果は、惨憺たるものであったのだが。


「彼も、可哀想な人だったわ」

「彼も?」


 ミヤマは繰り返す。その表情に嫌悪の念が見える辺り、ストーカーとしての彼の容疑を容認するような彼女の発言に疑問を持ったようだった。勿論その疑念を店長も見逃さず、ミヤマに目を向けると一度だけ首を振った。


「彼は、彼なりに身の丈にあった生き方を目指せば良かった。きっと両親もそれを望んでいたし、そうなる筈だった。彼なりに思い描く理想があって、その理想に対する現実があって。そういう挫折の数々が、人を形作っていくものだから」


 彼女は慈愛にも、同情にも見える面持ちでそう口にし、それから最後にそっと、諦めたように最後の一言を告げた。


「でも、彼は委ねるだけ委ねて何もしなかったの、何もね。それが全て」




 長い話になってしまったことを詫びると、キサラギは首を横に振った。どうせ暇だから、と自虐気味に笑った後、彼女は僕を見て優しく笑うと、こう言った。


「あのペンダントは渡せた?」


 その言葉に僕は思わず息を呑んだ。その反応を見て、彼女の答え合わせは終わったようだった。 彼女は穏やかな、少しだけ呆れたような笑みを浮かべると「それが今日話すことにした理由」と言った。


 同時に僕も、胸の内にあった小さな疑念が払拭された。ずっと疑問だったのだ、どうして彼女がこんなにもすんなりと事の次第を話してくれるのか。


「顧客カード、残しちゃったら見るに決まってるじゃない。お客さんの情報は私たちの命だから。あの子、びっくりしていたけど、楽しみにしていたのよ」

「ミシマが?」

「異動する間際まであなたの残したそのカードを時折見ていたわ。とても寂しそうにね」


 僕は想像する。

 商談スペースの傍に座り、僕がうっかり書いてしまったその顧客カードを眺める彼女を。普段とは違う仕事の緊張感を持ちながらも、表情だけは穏やかで、柔和で、口元に笑みを蓄えながらそっと指先で僕の名前をなぞっていた。


「私はね、彼女とは配属されてからの長い関係だから。全てとは言わないまでも多少なりとも彼女の事情は知っているつもり。彼女の身に起きた悲劇も含めてね」

「それは……」


 その名を口にしようとした時、彼女は僕のその後の言葉を手で制すると、首を横に振った。


「大切なのは、あなたは何をしたいのかってこと。どんな時でも、最後に頼れるのは、振り返った時に見える自分の足跡だけ」


 彼女はおしまい、と言って席を立った。僕とミヤマも同様に席を立つと、会話の時間を貰えたことに対する礼を告げた。


 その場を後にしようとした時、ミヤマだけが彼女に呼ばれて店内に入っていき、そこで少しだけ彼女と会話をしているのが見えた。彼女の言葉にミヤマは時折首を振りながら、最後にはその手を優しく握ってもらっていた。


 短い彼女とミヤマの会話が終わり、ミヤマが戻ってくると、彼女はいつもの溌剌とした様子で「さあ、次行きましょ」と僕に向けて笑った。何の話をしていたのかと尋ねたが、彼女は笑顔のままさあ、と惚けながら肩を竦めてみせると、二、三歩僕の前を歩いた後、こう言った。


「ごめんなさいねって、それだけですよ」


 ミヤマはそう言って僕に笑いかけた。


   ○


「結局ペンダント、渡せたんですか?」


 車内に戻って第一声がそれだった。運転席に深く座り込み、ミヤマは帰りがけに買ったカフェラテを啜っている。遠慮も何もないなと思いながら、今更伏せる必要もない情報に僕は一言だけ「家にある」とだけ告げた。


「え、ヨドノさんの元カノさん、めちゃくちゃ待ってたんじゃないですか? だって自分の店でペンダント買ってるなんて知ったら、いつどこで出てくるか気になるじゃ無いですか。私だったら耐えられずに聞いちゃいますよ」

「しょうがないだろ、タイミングがなかったんだから」

「しかも、うっかり顧客カード書いてたなんて、隠す気ないでしょ、気づいてくださいって言ってるようなもんですし、それもうアピールですよアピール。恋人だったから良かったけど、先輩、一歩間違えたらイガラシさんのお孫さんですよ」


 それについては何も言えなかった。


「まあ、好きな人か特に何の気もない人かで抱く印象なんて変わるもんですけどね」

「そういうものかな?」

「当たり前ですよ、だって前提が違うんですから」


 僕の言葉に彼女はひどく驚いた表情を浮かべ、それから強めの口調でそう言うと、少し強めにイグニッションキーを押してエンジンをかけた。様子を見るに、少し怒っているようだった。


「だってヨドノさんは、何かを乗り越えたくてあの場所に行ったんでしょう? その為にペンダントを買ったんじゃないんですか。自分の身の丈で考えた結果が、そのペンダントを買うことだったんだとして、それを知った恋人が何も思わないわけないじゃないですか」


 そう言って深くアクセルを踏んだ彼女は、速度を維持したまま手慣れたハンドル捌きで狭い立体駐車場の道路を曲がり切ると出口へ向かっていく。慣性に押されてシートに埋もれたまま僕は、あの時買ったペンダントについて考える。



--相手の方のことを深く知りたがらないと、不安になんてならないですよ。その人の為に贈りたい。でも自分の知っている姿が彼女の本質なのかが分からない。だから不安になるんです。ヨドノ様の今抱えている不安は、とても素敵で、美しいものだと私は思います。



 あの時、丁寧にラッピングをしてくれた女性店員は僕にそう言ってくれた。僕の不安は、とても美しいものだと。


 彼女は普段から白いシルバー系のアクセサリーを身につけることが多かった。どんな服にも合わせやすくて、使いやすいと彼女はよく言っていた。けれども僕は、ずっと彼女がもっと華やかなものを身につけて、着飾る姿が見たかった。例えそれがヤサカマサトの好みに反していたとしても、僕は、彼女のあの時折見せる無邪気で明るくて、闊達に笑う姿が好きだったし、それに合うような明るい姿をして欲しかった。


 であれば、それが正解だったのかもしれない。


 隣でただ、僕の存在が彼女の隙間を埋められるかとか、ヤサカの理想通りの良い人として彼女を救えているかとか、そう言ったありとあらゆる物事はただの理由にすぎなくて、案外結論はもっと単純なところにあったのかもしれない。


 僕は、笑っていて欲しかったのだ。

 彼女に。


「なあ、ミヤマ、少し長旅になってもいいかな」

「なんなりと。あ、今日はダメですよ、ちゃんと日程を決めてくれるなら合わせます」


 そう言って彼女はにっこりと笑った。つくづく僕は人に恵まれていると思った。トニムラに拾われて、自由に仕事に邁進しながらこんな寄り道もさせてもらえている。いつか、この恵まれた環境に対する感謝を返さなくてはいけないと思う。仕事の成果という形で。


 僕は携帯を取り出すと電話帳からヤサカリョウヘイの名前をタップする。

 果たしてこれが今もまだ繋がっているかどうかは正直賭けのようなものだったが、そこまで彼が卑怯ではないというある種信頼感に賭けた。

 彼ができることは、距離を置くことだけが限界だと。


「……よう、久しぶり」


 スリーコール目で出たその声で、彼は出た。


 スピーカー越しでもわかるくらい、その声は震えていた。まるで咎を待っていた罪人のように、彼は僕からの通話を見て、何かを悟ったようだった。


「新婚生活は落ち着いた?」

「大分な、九州はいいぞ、飯は美味いし、居心地も良い--」

「リョウヘイ、お前の実家の住所と連絡先を教えてくれ」


 彼の言葉が止まった。僕は構わず続ける。


「お前の兄さんに何があったのか知りたい。お前が語ったことがお前の全てで、これ以上なにもないなら、お前の両親にも話を聞かせてもらう。その他に何か……遺書とかが残っているなら、それも見せてもらう。とにかく全部だよ、僕は今、全部が知りたい」


 一呼吸入れて、僕は更に告げた。


「リョウヘイ、ここが分水嶺だよ、僕にとっても、お前にとっても」


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