第7話 訪ねてくる者達
不快なまどろみの中に浸るローラを起こしたのは彼女の師匠だった。
「ほら、ローラ。いい加減に起きなさい」
師匠のひんやりとした手に心地良さを感じながら、ローラは毛布を顔の上まで引っ張り上げた。
「頭痛と吐き気がします。これは風邪ですよ。風邪。なのでウチは寝ます」
「ふーん、頭痛と吐き気……他に症状は?」
「咳もあります」
シズカは腰に手を当てながら、毛布の陰でわざとらしく喉を震わせるローラを見下ろした。
「発熱は?当然、測るんでしょうね?」
「いえ、熱は無いと思います……が、寒気があるので、そのうち発熱するでしょうね」
ローラがそう言うや否や、シズカは彼女の口に水銀の温度計を突っ込んだ。
「36度5分……あなたの通常時の平熱ぴったりよ。他に言うことは?」
「で、でも熱が無いだけで……本当に––」
ガバッとローラの毛布が捲られる。
突然、襲いかかってくる外気から身を守るように丸まるも、シズカはローラの体に容赦無く触れた。
「腺の炎症無し。喉奥の炎症無し。気管支に異音無し。脈拍も正常。私があなたの症状をお伝えしますね……二日酔いと怠けです!」
そう言い放つと、シズカはローラの頭をぺちりと叩いた。
「さっさと顔を洗って着替えなさい!朝食を取ったら、ドミトリ先生の所へ手伝いに行くのよ!今日は使い物にならないと思うから、ドミトリ先生のやり方をよーーく見て学ぶように!」
「うう……」
医者の不養生するなかれ––それが第一の教えだった。
医者たる者、常に緊急の状況に備えなければならない。その医者が体調不良では話にならない。また、体調が悪いにも関わらず患者を診てはならない。医術においては寸分の過失が命取りとなる––。
自分の健康を患者の健康以上に注意せよ––。
それにしても––冷水に洗われた顔を見ながら、ローラは昨夜の断片的な記憶を手繰り寄せる。
あの2人は何故、ハツラツとして動けるのだろう?
楽しく杯を交わしていたのは3人とも同じだったはず。
ドワーフは傾向として、酒に強い種族だ。3人とも同じペースで飲んでいて、それなのに真っ先に自分が潰れ……薄ぼんやりとした映像の中で、ベッドに運ばれたこと、2人が瓶を手に外へ出ていったことは覚えている。
あの後も2人は2人だけで飲んでいたのだろう。それなのに––。
ローラはもう1度、桶の水を顔へかけた。
食堂のテーブルに置かれた、チーズを乗せたパン。その皿の下には〈嫌でも食べること!〉と書き置きがあった。
今日はシズカにとっても心おきなく休める日。そして––。
チーズを乗せたパンを齧りながら、白い外套を羽織り、診察室へと向かう。
案の定、待合室からは元気な話し声が聞こえてきていた。
「おやあ、ローラちゃん寝坊かい?」
診察室に入るや否や丁寧な挨拶が飛ぶ。
「女の子は朝弱いんですう。そんなこと言うと奥様に言いつけますよゲーニックさん」
ドミトリは深緑色のローブといういつもの見慣れた格好で、すでに患者と向かい合っていた。
シズカが用意したカルテから目を上げ、ドミトリはゲーニックという毛むくじゃらの老人の目を真っ直ぐに見た。
「ゲーニックさん。頭が痛いとのことですが……。体の方に異常は見当たりませんでした。ただ、お酒をかなり召されているようですね」
ゲーニックの息からアルコールの匂いがぷんぷんと立ち昇っている。
ローラは息を大きく吸い込み声を張り上げた。
「この中でドミトリ先生とただ話したいだけの方!プレゼントを渡したいだけの方!話を聞きたいだけの方!本を読み聞かせて欲しいだけの子達!手を挙げて!」
騒がしかった診療所が一瞬で波を打ったように静まり返る。皆、周りをキョロキョロ見回しながら1人また1人と手を挙げていく。およそ9割程の人が手を挙げただろうか、ローラはすかさず付け加えた。
「今夜、ドミトリ先生はマーケットの〈超詰め亭〉に行きますので、本当に診療所に用のある方以外はご遠慮願います!」
蟻が巣穴から出て行くかの如く。診療所から人が消えていった。
ドミトリがアイル坑道で診察する初日の恒例行事。多くの人々が具合が悪いという理由ではなく、野次馬根性で診療所を占拠する。
頬の髭をかきながら、ゲーニックも恥ずかしそうに立ち上がった。
「ゲーニックさん、お酒は飲み過ぎないように。飲む前にウコン等の薬草を口に入れておけば、2日酔いは和らぎますよ」
ドミトリの言葉にゲーニックは顔を赤くしながらもほころばせた。
その言葉を、大声を出した反動でガンガンと鳴る頭に刻み込みつつ、ローラは必要な分だけのカルテと器具を用意する。
最初は発熱をした男の子、次に持病の喘息がひどくなってしまった青年。心臓の病を持つ人間の老人から話を聞き、謎の胸焼けがする女の子の原因を探る。
ここの住人をずっと診て来た訳ではないのに、カルテを見て、患者の話を聞きながらドミトリはテキパキと人々を診察していく。
その判断の早さは大陸中を旅してきた経験からだろう。手を動かしつつもローラはドミトリの一挙手一投足を注視していた。
腰痛が悪化したお婆さんにマッサージをし、湿布を貼り終え、送り出した時であった。
「人気者は辛いねえ」
聞き覚えのある声が聞こえた。
よれよれのシャツに薄汚れた黒いベストを着た男。赤みの強い茶髪は相変わらずボサボサであったが、昨日とは違い罪人のローブを纏っていないせいか、その格好は少しマシであった。
「……貴様……!」
ローラは呻きながら男を睨みつける。ドミトリは目を丸くしたが、いたって冷静に言葉を投げかけた。
「トッドだったかな。おめでとう。釈放されたんだね」
「ああ、昨日が期限だったからな。決まりは守る。ここは良い街だな」
薄ら笑いを浮かべながら診療所のドアの枠に寄りかかるトッド。その顔を見据えるように眺めていたドミトリであったが、1つ疑問が頭に浮かんだ。
––傷が少なすぎる––
見届けてはいないが、あの後、人々にしこたま殴られたはずである。確かにアザや切り傷が残ってはいる。しかし、ほとんど、いや、全くと言っていいほど腫れが無い。
「どんな用かな?」
ドミトリは訊ねた。
「用って……ここは診療所だろ?怪我だって診てくれるよなあ」
顎の輪郭をなぞりながらトッドは言った。
「怪我?君の怪我は––」
言いかけたところであった。
物凄い地響きと共に爆音が坑道に反響する。
机や棚の上の瓶が地面で砕ける中、突っ伏しそうになるローラを咄嗟に支え、ドミトリは周りを見回した。
「2人共大丈夫?!」
シズカが刀を手に診察室に飛び込んできた。
「僕は大丈夫だ!ローラを頼む!」
ローラをシズカに預け、診療所の外へ飛び出す。
坑道の更に奥。採掘区域の方角から土煙が上がっていた。
緊急事態を告げる大鐘が鳴り、警備部隊が往来を走り抜けていく。住人達は驚きと恐怖でただその場に立ち尽くし、昇りゆく煙を呆然と眺めているのみ。
「シズカ、ローラ、みんなに声をかけて居住地区まで避難するんだ」
ドミトリは診療所の中へ踵を返すと、2人の肩に手を乗せ落ち着かせるように語りかけた。
「待って!ドミトリ、あなたは!?」
振り返ろうとするドミトリの腕をシズカが引いた。
「僕は採掘区域へ向かう。現場で応急手当てに当たる」
「待って!私も!」
掴み続けるシズカの手に自らの手を重ね、ドミトリはしゃがみ込んだ。
「ダメだ。2人ではリスクが高すぎる。君には避難した先で医療班を設置して欲しい。手当てをしたすぐに搬送して行くから準備を頼む」
シズカは強い目で頷き立ち上がる。
「行くわよローラ。薬師の人達を確保してミリルにも––無事だといいけど」
3人はそれぞれ診療所を飛び出していく。
ただ1人、トッドだけは戦慄と少しばかりの興奮を宿しながら冷ややかに笑っていた。
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