第3話 奪われた未来を取り返すために

(これから、どうやって生きていけばいいんだろう)


 夜。部屋の天井を見上げて、俺は畳に背中を貼りつけたまま動けずにいた。

 いつもなら、靴ひもを結んで外に出る時間だ。走って、汗で頭を空っぽにして、明日の自分に投げる。そうやって、どうにか生きてきた。


 でも今日は、靴がただの物体に見えた。


 斉京グループのトップに言われた言葉が、耳の奥でまだ鳴っている。

 高校サッカー選手権には出さない。いや、「出さない」じゃない。


「出させない」。

 あの眼鏡越しの目は、感情じゃなくて確信で人を潰せる目だった。


(逆らってサッカーを続けたら……本当に、終わる)


 終わる、で済むか?

 脅しじゃない。あれは宣告だ。

 プロになって家計を楽にする。そのためにサッカーを始めたのに。

 なのに今、選択肢に「工場」がちらつく。父と同じ現場。金属の匂い。油の匂い。


(……腕や足、持ってかれたら。草サッカーすら無理だろ)


 思考が勝手に最悪へ走る。止めようとすると、逆にサッカーが好きだってことだけが浮き彫りになる。


 俺は、サッカーが好きだ。

 好きだから、進路に迷った。

 好きだから、全部を賭けた。

 そして、好きだから……今、息が苦しい。


(死にてぇ……)


 口に出さなかった。出したら、決まりそうだったからだ。

 死んだら、残された親父はどうなる。あいつは、俺のために無理して働いて、無理して笑って。

 俺が死んだら、最後に残すのは「呪い」だ。


 拳を握って、開く。握って、開く。

 その反復で、ようやく一つだけ決めた。


 確認する。

 俺は、嘘で潰されたのか。俺が勝手に潰れたのか。


 スマホを掴む。指が冷たい。番号履歴の一番上。昨日の「スカウト」。


 コール音が二回鳴って、すぐ繋がった。


「……もしもし。昨日の件で。豆芝です」

「あぁぁぁ〜〜!豆芝くぅん!昨日はありがとねぇぇ!」


 湿った上機嫌が耳に貼りつく。俺の胃が、先に嫌がった。


「ありがと……?俺は何も——」

「いやいや、助かった助かった。君さ、ほんと素直。釣れやすい。最高〜」


 瞬間、喉の奥が熱くなる。


「何の話だ。俺は——」

「昨日のスカウト?あれね。嘘。テスト。斉京グループのお嬢さんから頼まれてさ。君を“それっぽい話”で踊らせてって」


 頭の中で、何かが一回転して止まった。


「……琴音が?」

「そそ。君が安心して飛びつくように“推薦の匂い”嗅がせてさ。で、君がどう動くか見る。いやぁ、結果は大成功」


 俺は畳に爪を立てる。ギシ、と音がした。部屋が急に狭い。


「俺は、蹴ってない。推薦を蹴るわけがないだろ」

「君が蹴ったことになってるんだよ。紙って便利だよねぇ。しかもさ、君の“個人意思”って形。きれいでしょ?」


 息が止まった。

 紙。個人意思。

 昨日、斉京で見せられた視線。全部つながる。


「……なんで」

「ん?」

「なんで琴音が、そんなことをする」


 質問のはずなのに、声が薄い。自分の声が自分じゃない。


「さぁ?君、そこ気づいてなかったの?彼女、ずっと君のこと——」

「黙れ」


 短く言った。勝手に震える声を、言葉の短さで押さえつける。


 相手は笑った。小さく、楽しそうに。


「黙らない黙らない。だって面白いんだもん。教えてあげる。君の彼女さ、浮気してたよ」

「……は?」

「相手、君のチームのキャプテン。神門って子。あぁ、君の脳内で“信頼”って札が貼ってある子ね」


 視界が白くなる。

 頭の中で、練習後のロッカールームが勝手に再生される。神門の笑い声。琴音の視線。俺が見落とした“間”。


「嘘だ。琴音が——」

「嘘が嫌いなら、証拠聞く?ほら、君って“裏取り”しないタイプでしょ。今から矯正してあげる」


 機械音。タップ。

 次に流れてきたのは、雑音混じりの音声だった。だけど、声だけははっきり分かった。


『……ありがとう。とりあえず五十万円渡しておくね』

『ワァオ。やっぱ金持ちはちげぇや。でさ、君、彼嫌いなの?』

『嫌いよ。嫌いだから……こう頼んでるんじゃない』


 その一言で、胸の内側が「べこっ」と凹んだ。

 痛みじゃない。形が変わる音だ。俺の中の何かが、戻らない形に折れた。


 録音が切れた。


「ね。聞こえた?聞こえたよねぇ?」

「……」


 声が出ない。否定したいのに、否定の材料がない。

 思い出の琴音が、黒く塗りつぶされる。笑顔も、真面目さも、試合前に結んでくれた髪も。全部が“嘘”に見えてくる。


「君さ、これからどうすんの?高校サッカー界で有名なところ?無理無理。斉京に睨まれた選手を取る学校なんて、馬鹿しかいないから」

「……うるせぇ」

「うるさいのは君の人生だよ。で、もう一個。もっと楽しいニュース」


 声のトーンが、わざと明るくなる。


「親父さん、事故ったって」

「……は?」

「さっき聞いた。ほら、不在着信、入ってるでしょ。見なよ。現実って、ちゃんと追い打ちしてくるからさ」

「待て、おい——」


 ツー、ツー、ツー。

 規則正しい音が、俺の鼓膜を殴った。


 スマホを握りしめたまま、不在着信を開く。

 知らない番号。留守電。


 再生ボタンを押した。


『……二子石総合病院です。豆芝さんのお父さまが……本日、勤務先での事故により搬送され——』


 それ以上、聞けなかった。

 スマホが手から落ちる。床に当たる鈍い音が、やけに遠い。


「……うそだろ」


 立ち上がろうとして、膝が折れた。

 胃が勝手にひっくり返る。這うようにトイレへ行って、吐いた。何も食ってないのに、胃が“絶望”を吐き出そうとして空回りする。酸っぱい味が口いっぱいに広がる。


 息が、浅い。

 頭が、熱い。

 目が、回る。


「……もう、無理だろ……」


 濡れた床に手をついたまま、言葉がこぼれる。

 父。夢。琴音。サッカー。

 奪われた、じゃない。削り取られた。


 気づいたら外に出ていた。靴も履かずに。

 雨が降っている。最初はぽつぽつ、すぐに叩きつける音へ変わる。街灯の光が滲む。人の声が遠い。クラクションも遠い。


 俺は、ただ高いところへ向かった。

 理由を言葉にすると、決まりそうだったから、言葉にしなかった。


 手すりを掴む。冷たい。

 下を見るな。見るな。

 でも脳が勝手に「終わり」を描く。終われば楽になる、と囁く。


(俺も……そっちへ行くよ、親父)


 片足に力を込める。

 身体が言うことを聞かない。心臓だけがうるさい。


 次の瞬間、俺は手すりを殴っていた。がん、と骨に響く。


「できるわけねぇだろ……!」


 声が雨に掻き消される。

 俺は死にたいんじゃない。苦しいのを止めたいだけだ。

 なのに、止め方が分からない。


「死にたくて死んでる人間なんて……いやしねぇんだよ……!」


 喉が裂けそうになる。

 雨が顔を叩く。涙なのか雨なのか、もう区別がつかない。


「琴音……なんで——!」


 名前を呼んだ瞬間、胸の中の“好き”が、棘になって刺さった。

 優しくされた記憶が、今は毒だ。助けられた記憶が、今は首輪だ。


 俺はしゃがみ込んだ。腕で自分を締める。ぎりぎりと。身体に「生きろ」と命令するみたいに。


 苦しい。

 でも、苦しさの向こうに行けない。


「それが、贖罪になんてならないぜ。ボーイ」


 声がした。近い。雨音の中でも、やけに芯がある声。


 顔を上げると、男が立っていた。黒いロン毛。サングラス。黒いスーツ。

 傘は、さしていない。濡れているのに、気にした様子がない。


 男は俺の前にしゃがみ、いきなり両手首を掴んだ。力が強い。抵抗しても、ほどけない。


「……誰だよ」

「Mr.J。ユーに協力してほしいことがあって、来た」


「ふざけてんのか」


 名前も見た目も、冗談みたいだ。だけど掴む手は冗談じゃない。


「親父も夢も彼女も、全部奪われた!そんな俺に、何ができるってんだ!」

「できるさ。足がある」

「……は?」


 男は、笑った。へらへらと。なのに目だけが笑ってない。


「でも、足以外は弱いねぇ。ユーは“抜ける”けど、“耐えられない”」

「黙れ」

「黙らない。海外なら、今のユーは使われない。体が弱い。簡単に壊れる。壊されたら終わり。……今みたいにね」


 言い返せない。

 悔しさが、歯の間に砂を噛ませる。


 Mr.Jはポケットからスマホを出し、画面を俺に向けた。


 写真。

 血だらけの男が地面に倒れている。顔が腫れて、口元が割れている。

 さっきのスカウトだ。


「……死んでるのか?」

「ミーが救急呼んだ。死んでない。けど、斉京に喧嘩売った命知らずだから、あとは知らない」

「……なんでお前が、あいつを」

「たまたま通りかかっただけさ。で、助けたら“お礼”にユーの情報をくれた。面白いよねぇ、人って」


 雨の中、Mr.Jがサングラスを指で弾く。カチ、と小さな音。


「それで?」

「ユーは斉京グループの令嬢と恋愛関係にあった。で、人生を潰された。……ここまで合ってる?」

「……あぁ」


 Mr.Jは、サングラスを外した。

 俺は息を呑んだ。


 左目が、ない。

 正確には、そこに“深い溝”があった。目があった場所だけが、過去ごと削ぎ落とされたみたいに。


「斉京の黒い噂を嗅ぎ回ってた時、やられた。ミーの勲章さ」

「……」


 怖い。

 斉京が、思っていたよりずっと。

 サッカーの強豪とか、金持ちとか、そういう次元じゃない。


「さて。そろそろ話を聞く気になったかな?」

「……どけ。自分で座る」

「オーケー」


 Mr.Jが手を離す。俺は濡れた地面に腰を落としたまま、呼吸を整える。

 逃げる選択肢は、最初から薄い。薄いのに、目の前に“道”が見えるのが腹立つ。


「話を戻そう、ボーイ。斉京の推薦権を失ったのは本当か?」

「……あぁ。選手権も無理だ。俺みたいなアホを拾う学校なんて、もうない」

「残念。正解だ。強豪校の多くは斉京の息がかかってる。一般で入っても、部には入れない。プロ志望?止められる。つまり——」

「詰み、って言いたいんだろ」

「ユー、話が早い。じゃあ質問だ」


 Mr.Jは、人差し指を立てた。


「もし、今の人生を変えられる博打があるとしたら。ユーは、賭ける?」

「……勝ったら何が起きる」

「ユーはプロになれる。親父さんも、死ななくなる」

「ありえねぇ」

「ちっちっち。焦るな。最後まで聞け」


 Mr.Jはスマホをスワイプし、何かの資料画面を見せる。

 大会ロゴ。スポンサー名。放送予定。やけにリアルだ。


「斉京グループ主催。U-18男女混合サッカー大会。日本、そして一部海外でも放送が決まってる。奴らはこれで“支配”を見せつける」

「……そんなの、聞いたことねぇ」

「当然。上層部しか知らない情報だ。ミーも、喋りたがりの記者がいなきゃ知らなかった」


 脳内で、琴音の声がもう一度響く。

『嫌いよ』

 あれも、斉京の盤面の一部だったのか。


「……待て。俺は選手として出られねぇだろ。睨まれてるんだ」

「出なくていい」

「は?」

「ユーは、コーチとして出ろ」


 言葉が理解できず、俺は口を開けたまま固まる。


「コーチ……?俺が?」

「そう。弱いチームを鍛えて、斉京を叩き潰す。全国中継で。公開処刑。最高の復讐だろ?」

「……弱いチームって、どこだよ」

「二子石高校女子サッカー部」

「女子……?」


 混乱が追いつかない。

 だが、Mr.Jはその混乱を踏み潰すみたいに、淡々と積み上げてくる。


「コーチとして結果を出せば、ユーの経歴が“止まる”。調べた奴らが気づく。斉京に潰された得点王だって。メディアが嗅ぎつける。斉京にとって一番嫌な形でね」

「……お前のメリットは分かった」


 俺は唾を飲む。

 ここまで話を用意してる相手が、タダで動くわけがない。


「じゃあ、俺のメリットは」

「斉京以外からのスカウト。斉京にムカついてるクラブは山ほどある。得点王で、指導もできる。欲しがる奴は出る」


 胸の奥で、火がついた。

 悔しさの火。

 でも、それだけじゃない。希望の火。

 サッカーが、まだ俺を呼んでいる。


(……うますぎる話だ)


 うますぎる話には、刃がある。


「Mr.J。俺が失敗したら?」

「借金。二千万円」

「……は?」

「親父さんの治療費。衣食住。環境。全部ミーが出す。その代わり、失敗したら返す。シンプル」


 二千万円。

 数字が現実すぎて、笑えない。


「親父の治療費も……?」

「当然。ユーの“弱点”は、親父さんだろ?守りたいなら、守らせてやる」


 雨音が、少しだけ遠のいた気がした。

 俺は気づく。

 この男は、俺を救いに来たんじゃない。俺の“折れた場所”に縄をかけに来たんだ。


 でも——縄でもいい。

 今の俺は、自分で立てない。


 選択肢は、実質ひとつだ。


 俺は濡れた拳を握り直し、Mr.Jを見上げた。


「……俺は、お前に協力する」

「おぉ」

「だから——俺の人生を変えろ」


 Mr.Jが口角だけ上げる。


「交渉成立だ。これからよろしくな、豆芝ボーイ」

「……よろしく。Mr.J」


 雨がごうごう降り続ける。

 その音が、まるで試合開始の笛みたいに聞こえた。

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