第6章(3)別れ

 階段を下る。

 階下から見て十三段目の一番左側。その扉の前で、僕らは立ち止まった。

「ファーザー」は消滅し、地上でもミズカラの脅威は去っているはずだ。おそらく、以前と同様に沖の方をうろつくだけの存在となっているだろう。

「いつかまた、『ファーザー』は再生するでしょうか?」

 大場スミの問い掛けに、僕は頷く。

「きっとね。ミズカラたちは水さえあれば現れ続ける。同じように、『ファーザー』も長い時間を掛けてまた力を取り戻し始めるだろう」

 それを聞いて、彼女は深いため息をつく。

「結局、私たちがこの戦いから解放される日なんて訪れそうもないですね」

「言ってしまえば、そのとおりだと思う。でも今回、その対処法がこうして明示されたわけさ。誰かが水脈へ降りて、不完全な『ファーザー』を叩く。それをレジスタンス内で定式化していけばいい」

「言うのは簡単ですけど……」

 前途多難だわ、と彼女は頭を振る。

「そもそも僕は、ミズカラや『ファーザー』を根絶できるものだとは思っていないんだ。彼らはいつからか、人間と共に存在してきた。そしてそれはこれからも変わらない。だから、レジスタンスのように後進を育て、対処方法を引き継いでいく組織が必要なんだ」

 大場スミはまだ釈然としない様子で、そうですね、と口にする。今はそれでいい。いつか、彼女も実感するときが来る。今は彼女が水脈に降りられるが、彼女がその任を下りたとき、誰がどうやって代役を果たすのか。彼女は賢く、すぐに答えを見つけるだろう。ただ、今はその必要性に触れていないだけなのだ。僕と違って。

「この扉、覚えがあるよね?」

 僕は無理矢理に話題を変える。

「もちろん。異界につながる扉ですよね。私はもう経験済みなのでなんともないですが、初めてここを訪れた人間は、どうしようもなく扉を開けたくなる」

「そして、ひどい目に遭う」

 ただ単に、異界に放り込まれるだけならいい。しかし、多くの場合それでは済まない。大抵は、異界に存在する何かと混ざり合ってしまう。

 僕は過去に、ゾンビが蔓延る世界への扉を開けてしまった男を見たことがある。国に雇われ、この水脈へやって来た人間だ。彼は抗いがたい欲求に従って扉を開け、異界のゾンビと融合した。

 彼の顔面は溶解し、目鼻の代わりに、顔一面に指の生えた姿(ゾンビの指だ)へと変わり果てた。

 大場スミがここへやって来たとき、扉を開けようとする彼女を阻止したのが僕だった。

「これがつながっているのは、こことは違う世界線だ。僕らの経験しなかった歴史を歩む、並行世界。ゾンビもいれば、巨大ロボットもいる。僕が死んだ世界線もあるだろうし、君と僕が出会わなかった世界線もあるだろう」

 言いながら、僕はクダン先生のことを考える。憶測でしかないが、。この扉を通ってこの世界へとやって来て、破滅を阻止するヒントだけを与えてまた別の世界へと旅立っていく。彼は一時的に滞在した、孤高の旅人だったのかもしれない。

「だとしたら」

 大場スミが言う。

「だとしたら、私はこの世界線に生まれることができて幸せでした」

 僕は微笑むことしかできない。

 彼女は、寂しそうに僕を見つめる。

「桜庭さん」

「うん?」

「桜庭さんは、?」


 やはり、大場スミは僕の目的を見抜いていた。

 フユだって同じだ。少女の言葉を思い出す。

 ――ちゃんと帰ってきてね。

 彼女たちは、僕がもう帰るつもりなどないことを感じ取っていたのだ。絶対に帰って来るなどという僕の精一杯の嘘も、きっと看破されていただろう。

「どうしてそう思う?」

 問い掛けると、大場スミは笑った。無理をしているのが手に取るように分かる、そんな顔だった。

「当たり前です。桜庭さんの行動原理は全て、君野梨歩を守るため。彼女を失った今、あなたにはこの世界で生きる理由がない」

「だから僕が別の世界へ旅立つと?」

「いえ、桜庭さんはですよね?」

 参った。彼女の言葉は全て、僕の取ろうとしている行動を予測していた。

 大場スミは涙をこぼす。僕はそれを初めて見た。

 僕が黙っていると、彼女は僕の胸を叩く。

「さっきの話、覚えていますか? 私の胸に、同じように穴が空いたら、穴のある者同士で添い遂げる未来もあるはずなんです。もし今後ミズカラに関わりたくないと言うのなら、今のまま、この島で竹島一郎として生きる未来もあるはずなんです」

 彼女の目を見つめる。全て本音だろう。レジスタンスとしての打算も、いつか僕と同じ運命を辿ることへの自己憐憫もそこにはない。彼女は僕の未来を思って泣いているのだ。

 申し訳なく思う。でもそれを口にしたところで、彼女には真意が伝わらないだろう。

 何より、僕の胸には穴が空いているのだ。この世界へ留まり続けるには、あまりにも大きなものが欠落してしまった。消えたものへの渇望だけに満たされたまま、残された日々を消費していくことに耐えられるほど、僕は強くない。

「私と一緒にいてください。桜庭さん」

 絞り出した声。

 僕は、大場スミの髪を撫でる。水に濡れ、それはひどく生々しかった。

「すまない。でも、もう決めたんだ」

 彼女は顔を手のひらで覆い、また泣く。僕にはこれ以上どうしようもない。僕はそうと決めてしまったのだ。そして、それ以外の生き方を見出そうというあらゆる動機を、すでに手放してしまっている。

「分かりました。もう困らせません」

 大場スミはごしごしと涙を拭い、無理矢理に顔を上げた。

「でも、あなたがいくつもの世界を回って、もしまたここへ戻って来ることがあれば、そのときは会いに来て」

「分かった。そうするよ」

「私が困っていたら相談に乗って。そうでなくても、今みたいに撫でて、『頑張ってるな』って言って」

「うん」

「それでもし――」

 彼女は言いよどむ。「もし」のその先が、彼女の唇から離れ、霧散していった。

「もし――」

 彼女は苦しそうに、胸の辺りで拳を握る。いつかそこに空く穴の在り処を知っているみたいに。

「もし私が、胸の穴に押しつぶされそうだったら」

 そして、彼女は僕から一歩離れた。彼女は分かっている。そんな「もし」など二度と来ることがないことを。この一歩の距離が、永遠の別れそのものであることを。

「私を一緒に連れて行って」

 そして、彼女はドアノブに手を掛ける。目をひどく潤ませたまま、強引に作った微笑みで、僕の方をじっと見ていた。

「分かった。分かったよ」

 僕は頷く。それは嘘なのかもしれない。あるいは、「もし」が本当にやって来るのだとしたら、そうするつもりなのかもしれない。

 彼女はそのことをよく分かっている。きっと、僕以上に。

「僕がどうしようもなくなって、君もどうしようもなくなったときに、必ず迎えに来る」

 僕が今言える最大限の返事だった。

 大場スミは、えへ、と声を漏らす。彼女らしくないと思った。そしてそれは、彼女が今まで僕に見せてこなかった、強がりのない素の部分なのだろう。

「約束ですよ」

 そう言って、彼女は扉の向こうへ去ってしまう。

 彼女は振り返らなかった。

 扉の隙間から眩い光がこぼれ、やがて細まり、消える。

 僕はたった一人で残された。

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