01:Memories of the Drive
山を登るのは久しぶりだった。
舗装されているとはいえ歩き続けるにつれ脹脛が軋むように痛む。
懐かしい感覚に頬がほころぶと同時に気まずさがうなじに刺さるようだ。
山を離れていたにも関わらず中級者向けの山に誘われるように登ってしまっていた。
梅雨入りを間近に控えたしっとりした空気が肺を潤していく。
彼方まで臨む木々の麗しさが忙殺されていた日々を取り戻してくれているようだ。
不思議と人の気配もないが秘境を見つけたような気分となって変に浮足立っている。
こういう気分は逆に良くない。
登山部の先輩に教わった注意事項を記憶の奥底から引きずり出す。
そもそも一人での登山も良くないが、まぁまぁの距離を登っているのだからと登り続けていく。
不思議と野鳥の声や鹿やタヌキの気配もない。
熊の目撃情報もしばらく出ていないようだから安心しきっていたがこうも静かだと山の幻影を見せられている気分にもなってくる。
鼻の下に溜まる汗を拭きながら歩き続ける。
体力を消耗して疲れるばかりと思って遠ざかっていたが、なかなか楽しいじゃないか。
妻や医者から運動不足を注意されてばかりいたが、ジムに行くよりこうして景色を眺めながら歩く登山は健康にもいいはずだ。
どうして登山から離れていたのだろう。
手ごろな岩に腰かけてリュックの水筒を取り出した。
喉を通り過ぎる冷たい水道水も山の湧き水に思えてくる。
地図を確認して再び立ち上がった。
二股に分かれているが片方は崖となっているから頂上へ至る方へ歩みを進める。
風に吹かれるまま歩いていると妙な匂いが鼻を掠めた。
普段気にも留めないが山中では異物となる人工的な匂いが際立って感じ取れた。
道の端の際に寄って、選ばなかった方の道を見下ろす。
あちこちへこんだ真っ赤な車が停まっている。いや、あれは落ちていると表現した方がぴったりだ。
天井に枝が落ちて塗装も一部剝げて黒い地肌が見えている。
車体が若干斜めになっているから運転席で項垂れている男も見えた。
「なんだってこんなところで……」
どこぞの走り屋気取りが峠を攻めて失敗したのだろう。
自業自得としか言いようがないが、見て見ぬふりは後味が悪い。
ため息交じりに来た道を戻って分かれ道を辿る。
赤い車が近づくにつれて再びガソリンの匂いが漂ってきた。
運転席の窓をノックする。何度も叩いているとようやく男が顔を上げる。
額から血を流して呆然としている。それだけではなく、大学の先輩にそっくりだ。
あの頃の先輩のままではないか?そんな疑問が過る。
「あの……もしかして山野先輩……?ですか?」
「おぉ……お前、大図か……?久しぶりだなぁ~」
ぼんやりした表情にわずかな光がさした。
血が乾いていないところを見ると怪我をしたばかりなのだろう。
「先輩、窓下げてくださいよ。絆創膏とティッシュありますから血拭いてください」
「血……?あぁ……うん……いいんだよ……」
施錠されていない運転席のドアがだらしなく開いた。ドアポケットに詰まっていた紙屑が道に零れ落ちているが応急処置を優先する。
「いいわけないでしょ。ほら拭きますから……ちょっと……なんですか」
恐る恐る拭いている手を鬱陶しそうに払われる。
血を吸ったティッシュが先輩のズボンに落ちて汚れたが気にも留めていないようだ。
「なぁ。後ろ乗ってくれよ」
後部座席には何かがパンパンに詰まったナップザックやカラフルな衣類が押し込まれている収納ケースが所狭しと乗っていて人が乗れるスペースは無い。
「乗れって言ったって後部座席に人乗せる気無いじゃないですか。片付けくらいしてくださいよ」
「いやいや乗れるって。座席に尻をくっつけようとするから座れないとか言うんだろ?何でもいいから座れよ」
車内から酒と煙草を混ぜこぜにした匂いが漂ってくる。
言い出したら聞かないところがある性格なことも思い出してきた。
絆創膏を張り終えたので運転席のドアを気持ち強めで閉じる。
「あの……管理人さん呼んで来ますね」
くぐもった声が車から聞こえてくるが全て無視して山道を戻っていく。
先ほど通ったばかりの道が曇り空のせいで暗く閉ざしたような道に見える。
重い足取りでたどり着いた管理人が居るはずの小屋は無人となっていた。
小窓はカーテンで閉ざされており、ノックをしてみたが反応は無い。
「はぁ……何だよもう……」
仕方ないがもう一度先輩の所まで行って代わりに運転するしかないだろう。
先輩を病院に連れて行って電車かバスで帰宅しよう。
日が暮れ始めた道を早足気味で進むと先輩の車は既にそこには無かった。
存在しなかったという表現が正しいだろうか。
地面にはタイヤ痕が無く、草花も押しつぶされておらず気ままに空を目指して伸びている。
「何 ?これ……先輩?隠れてんすか?笑えないっすよ」
辺りを探して見つけたものは血の滲んで丸まったティッシュだけだった。
これだけが先輩の存在を証明している。
何故こんなにも心臓が早鐘を打っているのだろう。
先輩が居て、先輩が居なくなっていて、ただそれだけだ。きっと帰っただけだろう?
ウィンドブレーカーのポケットにティッシュを押し込むと家へと急いだ。
口を開けっぱなしにしていたせいで喉がチクチクする。
家の洗面所でうがいをすると砂粒と小さな羽虫のようなものが排水溝へ流れていった。
体を洗ってもどことなく先輩の車のこもった匂いと血の気配が漂っている気がする。
体臭に神経質な日々を送っていると大学時代の友人から電話がかかってきた。
「大図~元気?最近登ってる?」
「あぁ……聞いてくれよ……この前山野先輩に会ってさ」
明るい口調に救いを求めるかのように電話口にまくし立てようとして何も言えなくなった。
あの山での出来事を思い返そうとしたのは今が初めてだったから気が付いてしまった。
山野先輩とのやり取りが実際起きたことと異なる記憶がある。
なんだこれは?
「山野先輩?……えぇ?マジかよ?」
「……あのさ…………変なこと言うんだけどさ…………」
そこからは息が続く限り言葉が滑り出た。登山してたら山道に先輩の車があって、なんか様子おかしくて鼻血も出てて管理人さんを呼ぼうとしたらいなくて車の所に戻ったらもう先輩いないし車なんか無いみないになってるし、今思い返すとなんか違くて先輩の車に乗って山降りて家まで送ってもらった記憶もあって、でも喧嘩して麓で降ろされた記憶もあって、これってどれが正しい記憶だと思う?家までどうやって帰ったんだっけ?
「…………………………お前、一回カウンセリングとか受けた方が良いよ」
「はぁ、はぁ…………なんでだよ……なんでそんな…………」
冷たい言葉に心臓が空中に浮かんでいるような感覚に陥る。俺はどこにいるんだっけ?違う、ちゃんと…………証拠がある!
「ほんとだって!鼻血拭いたティッシュをポケットに入れたんだからこれがやっぱ正しい記憶なんだって!!」
クローゼットをかき回してウィンドブレーカーを探し出す。ポケットの中のもさもさした何かに触れた。
「ほら!ティッシュあった!」
床に跪いてくしゃくしゃに丸まったそれを広げると真っ白なティッシュが目の前に広がった。
どこにも血痕のない真っ白な、それ。
「何なんだよ!!!」
通話は切れており誰にも叫びは伝わっていない。
そのまま腕を振りかぶって床に叩きつけたが音もなくただ床を滑り、部屋の隅に沈むだけだった。
あなたの故郷に無い山 佐伯54章 @saekiiiiii0000
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