0-4 2044年10月11日午後〇時〇四分
内心の興奮を押し隠しつつ、サホはごくシンプルに声の主へ切り込んだ。
「緊急の保安用件、とは?」
『実はここ一時間ほどの間に、テアトル・アドリアーナ館内へ何者かによって危険物質を持ち込まれた可能性があります』
「へえ。……それで、代理人さんとしては、私に何をせよと?」
『いえ、何もしなくて結構です』
「はぁっ?!」
思いっきりずっこけそうになる。やっぱり質の悪いイタズラだった! と回線を叩き切ろうとした直前、相手は何ら感情の起伏を感じさせない声で付け加えた。
『より正確には、今の時点でお話しすることはない、ということです。さしあたってシニョーラにおかれましては、このようなコンタクトがあったという事実に留意しつつ、記者会見に臨んでいただければと』
何が言いたいんだかさっぱりわからない。
「えっ、いやっ、緊急事態じゃなかったの!? ヤバいものが――」
『現在<キケロ>が喫緊に処理すべき安全保障上の重大事を抱えているのは事実です』
「だったら」
『ですが、少なくともまだ一分一秒を争う局面ではないと判断しています。と申しますか、どういう局面なのか、判断に必要な情報自体が不十分です。ゆえに、我々に考察の材料を与えていただきたい』
「それってどういう」
『どうか虚心な心持ちで会見に臨んでください。この場でのシニョーラ・イスルギの発言と反応が、本件での重要な因子になるのです』
「…………」
一介のピアニストが無断アルバイトを巡って公衆の前で言い訳することになったというだけの話なのに、なんでそれがテアトルへの危険物持ち込み事件に甚大な影響を及ぼすというのか。突っ込みたいことはヴェスヴィオ山の火山灰ほどあったが、どうもまともに答えてはもらえなさそうだ。これが本当にまっとうな筋からのコンタクトだとして、だが。
『差し支えなければ、この回線はこのまま維持していただけますよう。事態が動き次第、この続きをお話ししましょう』
「あー……これから記者会見ですんで、文字チャットでよければ」
了解しました、とさっそくテキストのコメントが左下に現れ、末尾にプロンプトがゆっくり明滅するだけになる。
あっけなく会話が終了した。いったいこんなやりとりに何の意味があったんだろうか? ついしかめっ面を宙に向けると、先ほどから場を仕切っている浅黒い肌の南アジア系MCが、ちょうど会見のイントロを終えたところだった。
「――では改めて紹介いたします。こちらが話題の震源地となっておりますお騒がせ人物、我らが愛すべきピアニスト、その名も今やすっかりワールドワイドの、サッホウ・<マッシュパイ>・イスルーギー!」
うおおおお、とプロレス会場みたいな拍手と歓呼。その時になってようやくサホは、隣で記者相手にしゃべくってる青年がよく見知った相手であることに気づいた。歓声があらかた収まったところで、ついつい冷めた声で応じてしまう。
「なんでラジューがこんなところにいるの?」
「さっそく大ボケかよ! 僕はここの司会者! たった今目の前で挨拶しただろ! 何聞いてんのっ?」
ホワイエに爆笑が渦巻いた。雰囲気はすっかり下町のコメディーショーである。別に狙ったわけじゃないけれども、イベントの滑り出しは上々ということか。結構なことだ。
「いやまあ、ぼんやり聞いてたけどさ。何かのジョークかなって。配信屋が乱入して勝手に実況中継してるのかと」
「君も大概だな! 僕は正真正銘、大会実行委員から指名を受けた、この会場の専任MCだっ!」
ラジュー・ハマーヌはサホより二歳下のインド人ピアニスト。今回のファイナリストでもあり、昨日のステージではサン・サーンスの五番 *を弾いた。イギリス在住のクラシックアーティストでありながら、プロのコメディアンとしても活躍中で、電波メディアやネット番組での経歴は結構長い。たぶん、至急現場入りできるイベントセッターということで、この突発的な仕事を任されたのだろう。あるいは彼も歩合制のギャラで心が動いた口だろうか。
ケネスやソニア同様、それほど深い間柄ではないけれども、演奏家としてのつながりがそこそこにあって、サホと比較的話のウマが合う。が、この際そんなことはどうでもいい。世間体のための会見イベントと、AI(の代理人)を名乗る謎の存在の正体について同時に考察を進められるほど、サホの頭はマルチプロセッシングに適応していないのだ。
「要するに何も聞いてなかったんだな? また一から説明しろって? 勘弁してくれよ。ログでざざっと確認してくれないかな」
言われて、ふと思い立つ。サホの画面デバイスは、舞台裏の時からずっと
黙ってディスプレイ機器を付け替えているサホを見て、多分勘違いしたラジューが、ノリの悪い参加者をフォローするようにトークを再開した。
「失礼、改めて会見の再開といきましょうか。……目下のところ、ミズ・イズルギーの昨晩の行動については、事実関係がはっきりしておりません。ゆえに、よりネガティブな解釈もいくつか出回っており、一つにはその種の流言飛語への対処と言う意味で、本人をここに呼んでいるわけですが――」
ぐんと見やすくなった視界で通信状況を確認。さすがにネット配信で本気の儲けを画策しているだけあって、日ごろその辺では見ないような大容量のルーターが臨時設置されているようだ。つい気が大きくなり、いちばん面倒な仕事の時でも使わないようなWebアプリも一渡り起動し、クラウド上で取れるだけのリソースを全部ふんだくって万全の環境を整える。
「くれぐれもいたずらに挑発的な質問はご遠慮いただきたい。まずは昨夜の行動について、本人から説明させますので――」
「説明の必要なんてないだろう。証拠は上がってるんだ」
「その女は分裂主義者だ! 国際テロのシンパだ!」
なんだか物騒な不規則発言が複数飛び出てきて、記者席の一部に緊張が走った。どうやらコメディノリを歓迎する観客ばかりが居合わせているわけではないらしい。ヘンに政治的な拡大解釈をどんな有名人にも当てはめようとする手合いが、これを機会にとテアトルの中にまで押しかけて来たということか。
面倒そうな相手と押し問答しているラジューを尻目に、サホは自分の作業の続きへ戻った。雑音をいちいち相手になどしてられない。
とりあえず<キケロ>の周辺情報を直接確認しようとして、考え直す。先に話の真贋を固めるべきだろう。確かめるにはうってつけの知己が自分にはいるのだし。
警備アルバイト用の専用連絡アプリを開き、東洋人パートタイマー、シン・シャオリン名義で文字チャットを申し込む。相手はここの警備保安部主任だ。秘密の内職の件で対面した時に面識はあるし。さっきのあれが本物なら、無視されることはないはず。
『サホ・イスルギです。東側ホワイエでの記者会見はモニターなさってますよね? ところで先ほど「<キケロ>の代理人」を名乗るキャラクターが私に接触してきて、今もつながったままなんですけど、これって本物ですか?』
休憩中とかで寝耳に水かもしれないことも考え、少し前振りも加えてコメントを送る。どうやら保安主任は今日も休みなく勤務に励んでいたようだ。ひと呼吸分の間を置いて、返しはすぐに来た。
『私から多くは語れませんが、その通信は本物だと思います。それはともかく、もっと記者会見に身を入れてください』
思わず眉根を寄せて手近な館内カメラを正面から睨んでやる。一度ちらりとサホのピアノのファンだと言ってくれたこともあり、ただのバイトボスよりは気安く話のできる相手とは思っている。が、素顔の保安主任は有能だが寡黙で、物悲しい表情がデフォルトの超真面目キャラだ。間違っても短い文字通信に「まじめにやれよ」なんて付け加えるようなタイプじゃなかったはずなんだけど。
ともあれ、<キケロ>の
「だいたい記者会見なんて茶番だろうっ。<マッシュパイ>・サッフォーだぞ?」
「世界をカオスの魔の手に渡そうとする悪魔!」
「AIの平等社会に仇なす不均衡勢力の暴徒め!」
「あの、どうか静粛に! 進行の妨げになる発言者には、退去を命じることもあります! ご協力願います。事実を明らかにするためにこの会見がセッティングされたのですから」
散発的ながら口汚いヤジは続いていて、顔をしかめながらも何とかラジューがそれを抑え込んでいた。グリゼルダが予告していたような、サホが道化を演じて何もかもお笑いで取り繕うというような裏プログラムの話はいったい何だったんだと思う。主催者の予想範囲を超える記者層が集まってしまったということなのか、それとも――。
何にしろ、サホとしては無視を決め込むだけのことだ。むしろ、このまま会見が打ち切りにならないかな、と内心で罵声の主たちに声援を送りたい気分だったりする。
「そもそも信頼できる情報では、昨晩彼女が関わったとされるゲームは資料画像A・B・Cにあるようなもので、一部で言われている闇のサバトのようなイベントではありません。まあ、かなり派手なバトルアクションのウォーゲームであるようなのは確かですが……その上で、本人の姿と指摘できそうなのが、画像D・Eの人物ですけども、これとて……サホ、見てる?」
ラジューがつついてきて、ようやくサホは、自分が会見ライブの特設コミュにそもそもログインすらしていなかったことに気づく。今日びの記者会見だから、印刷された資料などはない。ネットと連携していないジャーナリストなどちょっと考えられないので、Web上に進行をサポートする仕掛けを色々並べ、参加者全員にそれらへアクセスしてもらうのが普通だ。今回も配信ライブに付帯する形で、テキストログとか資料ファイルとかが並んでるテンポラリサイトがあって、ここにいるパパラッチも、ネット上の視聴者たちも、今はラジューの司会に合わせて同じ画像をチェックしているところのはず。
仕方ないので視界の隅に申し訳程度にコミュ用のウィンドウを開き、資料とやらを閲覧してやる。……一目見て、ふっと鼻から笑いが漏れた。
「嗤ったっ。鼻で嗤った!」
「不謹慎だろう! 反省の意志はあるのかっ!?」
「司会者、あの女こそ退場させるべきではないかっ!?」
決して多数派ではなかった〝困ったちゃん〟マスコミ人が、じわっと増えた印象だ。ラジューも、事態を会場の端で見ているディレクター役のカーディンも、そろそろ偏見まみれの妄想クレイマーズを止めきれなくなっている感じである。
「極東アジア人をファイナリストなんかにするからだっ」
「イエローは国に帰れっっ」
「ユーラシアの文化を守れぇ」
際限なく文脈が脱線しているようなのに逆に興味を感じて、サホはこの場でログインしているパパラッチたちの個人情報を確認し始めた。あることに気づいたからだ。というより、直感が働いた。そもそもさっき聞いた、ここ一時間で急に館内に危険物質が持ち込まれた件って、それは単に――
『質問、いいかな?』
待機状態で沈黙したままの「代理人」との回線を呼び出し、打ち込んだ。
『今問題になってる保安上の一大事って、もしかしたらそれ、ただ<キケロ>がヘマをやったってだけの話じゃないの?』
リターンまでは思いの外長かった。三、四秒ほどの沈黙の後、木で鼻をくくったような返事が来る。
『今の時点でその問いにはお答えしかねます。それはそうと、今少しマジメに会見に臨んではいただけないでしょうか?』
(なんなの、どいつもこいつも!)
ついテーブルの脚をがしゃんと蹴とばしてしまう。四苦八苦しながら会見イベントを何とか形にしようと奮戦していたラジューが、ついにしびれを切らした。
「ちょっと、サホ、さっきから何やってんの!」
両手を宙に浮かせて、腕と指先をぐねぐねと動かしていたサホは、いわれのないツッコミにきょとんとした顔を返した……振りをした。使っているのは自分専用に徹底的なカスタマイズを施したマルチ関節グローブなので、キーボードなどと違って入力文字の中身などまず盗み読みできるものではない。とは言え、ここ数分間のサホが公衆の面前でこの場と全然関係ない作業を色々やっているのは、もう誰が見ても丸わかりだったようだ。
「そんなイノセントな顔してもダメ! さては質問集計もろくに見てないな! 少しは真面目に受け答えしてくれよ!」
「心配しなくても質問そのものがふざけたものばかりなんだし、こんな会見、どうせ私の返事一つで終わるじゃない」
それまでのどのパパラッチよりも挑発的な一言に、会見場がごわっと沸き立った。あるいは破れかぶれな開き直りと見なされたのか。
「優越階層の傲慢だあ!」
「コンクールから出ていけ! 二度と舞台に立つな!」
「殺人狂に芸術家を名乗る資格などないっ!」
ばぁんっとバカでかい打撃音が轟いた。ラジューが自分の前のテーブルをぶっ叩いたのだ。わずかに生まれた静寂の合間に、今度こそマジギレした大声でサホへ吠えかかる。
「もういい! もうたくさんだ! だったら一言で答えてくれ! 一体君は、そもそも昨日の夜に何やってたんだ!?」
「ゲームプログラムのバグフィクスで臨時アルバイトやってたけど? AIモジュールのエンジニアマスターとして、ね」
「…………は?」
ラジューの目が点になり、ホワイエは唐突な沈黙に包まれた。
*サン・サーンスの五番
十九世フランスの大御所的作曲家兼ピアニスト、サン・サーンス(1835~1921)のピアノ協奏曲第五番「エジプト風」のこと。1896年作曲。演奏時間は二十五~三十分ぐらい。
サン・サーンス最後のピアノ協奏曲で、かついちばんの人気曲とされている。今日的な耳で聞き流してると「これのどこがエジプト風なんか」と突っ込みたくなるようなフランスロマン派風の音楽ですが、よく聞くと第二楽章なんかで音色とかメロディーとか、〝この時代の保守派作曲家にしては〟色々冒険してます。古典的な趣味の良さが大前提としてまだぎりぎり通用した時代の、開放的で豪華絢爛な技巧性も併せ持った、異国情緒が漂う名曲の一つ。
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