第40話 懺悔室

 圧し掛かる睡魔を朝まで耐えようと本を読んでいると、僕の病室の扉が開いた。入ってきたのは、ロウソクの明かりが灯る燭台を手に持った鷺宮さんだ。




「また寝てないの?」




 鷺宮さんは若干僕に呆れつつも、表情は笑顔を保っていた。僕は本を枕元に隠し、枕に背を預けて窓の外を眺めた。暗い夜の所為で何も見えないが、何も見えなくていい。本当に外の様子を眺めるなら、陽の光がある朝か昼にする。今やっているのは単純にバツが悪いからだ。


 僕以外誰もいない病室内で、僕じゃない体温が近付いてくる。何かが置かれる音、衣服が擦れる音、リップノイズ。鷺宮さんがすぐそこにいる。


 


「眠れないなら子守唄を歌おうか?」




「眠れないんじゃなくて、眠る事が出来ないんです」




「それって、同じじゃない?」




「夢を見るのが怖いんです。夢は僕にとっての最大の脅威。燃え盛る炎に飛び込むよりも、目を瞑って夢を見る方が恐ろしい。僕は夢が嫌いで、夢も僕が嫌いなんです」




「夢と仲良くなれないの?」




 鷺宮さんの細長い指が、僕の耳の輪郭をなぞっていく。雫が落ちた紙のように、鷺宮さんの体温が身に染み込んでくる。心地よい温かさで気分が良くなるが、毒を流されているような気さえする。


 敦子姉さんを思い出した。この毒は、敦子姉さんからも注がれていた憶えがある。全く同じではないが、どちらも人の思考を無くしてしまう程に心地良く、無害で有害だ。




「願望や不安といった心の内を現す鏡であり、今までの出来事が思い返される足跡。それが夢なのよ。特に、佐久間さんのように恐怖を覚えてしまう程の夢は、鮮明に憶えている出来事が意思を持ち、夢を見ている人に語りかけてくる」




「語りかけるって、何を?」




「それは分からない。だって、佐久間さんが見ている夢は佐久間さんにしか理解出来ない。そこだけは助言する事が出来ない。でも、多分だけどね? 夢は、佐久間さんに気付いてほしいんじゃないのかな? 佐久間さんが鮮明に憶えている記憶の欠けた一部を」




 僕の記憶の欠けた一部? 鮮明に憶えているとなると、あの出来事の事か。両親と共に乗っていた車が崖から落ちた記憶。両親が亡くなり、僕だけが生き残ってしまったトラウマ。


 もし鷺宮さんの言葉の通りなら、その記憶に何か欠けているものがある。それを思い出させようと、あの悪夢と幻の僕が僕を訴えかけてきている事になる。あの出来事は今も鮮明に、ハッキリと思い返せる。故にトラウマなんだ。欠けているといえば、気を失っている間の出来事だろう。


 考えても答えが浮かばない。ただひたすらに、罪悪感や自己嫌悪ばかりしてしまう。なんであの時、僕だけが助かってしまったのかと。


 


「佐久間さん。贖罪は誰にでも出来る事です。でもその為には、自分の罪に気付かなければいけません。自分の内に隠しているか、あるいは隠されている真実に辿り着かなければいけません」




「どうすれば……」




「自ら不調に気付くのは簡単ではありません。人は自分の事を自分が一番理解していると妄信するものです。自分の知らない自分の一面を恐れるがあまり。その恐れに臆さず、他人を受け入れてください。知らない自分を知る怖さから、体が拒むかもしれませんが、あなたの意思であなた自身の体を屈服させなさい。救いの道は、そこにあります」




「それって……なんだか」




 振り返ると、既に鷺谷さんは僕の隣から消えていた。音も無く、気配も無く、初めからそこにいなかったかのように。


 静寂に包まれた病室は、広い空間であるというのに、とても狭く感じた。夜はまだ長い。本を読む気分じゃなくなってしまった。




「……聞こえるか? 聞こえているのなら、返事をくれ」




 僕は自分の内に宿る幻に語りかけた。顔も見たくないし、声も聞きたくない相手だが、今の僕は幻が必要だ。


 しばらく返事を待ち続けていると、僕の隣にある椅子に、一人の少年が座っていた。その少年は、両親の愛を受けていた頃の僕だった。




「呼んだ?」




「……ああ」




「ようやく僕に体を渡す気になった?」




「……体を手に入れて、お前は何がしたいんだ?」




「現実で生きる事だよ。幻に縛られたままじゃ、僕は生きて死ぬ事が出来ない。君が死ねば、僕は幻のまま消滅してしまうんだ」




「死ぬのと、消えるのとでは違うのか?」




「僕は君になりたいんじゃない。僕は僕自身になりたいんだ。佐久間水樹である君ではなく、佐久間水樹である僕になりたい」




 分かっていた事だが、期待外れだ。心の内を見るのに相応しい存在だと思っていたが、彼には既に僕とは別の意思がある。僕と彼の間には乖離がある。 


 でも、おかげで気付いた事がある。自分でも信じられないくらい馬鹿馬鹿しい考えだが、彼に尋ねてみた。




「僕が君に体を渡したとして、僕は幻になれるだろうか?」




「……意思を持っていても、幻は幻。現実で生きる人の幻覚にすぎない。君が見て聞いている僕は君の幻覚。君がその体から離れれば、君は幻になんかならずに何処かへと消える。例え僕が幻を見るようになっても、その時見える幻は君ではない別の幻だ」




「……そうか……なら、体は渡せない」




「どうして? 生きていても、辛い事ばかりでしょ?」




「それでも生きていたいんだ」




「どうしてそこまで生きる事にこだわるの?」




 言葉が出ない。いつまでも生きていたいが、その理由が分からない。死ねば楽になる事は分かっているのに、生きていれば何があるのかが分からない。死に対する恐怖や、知人との別れが悲しいからじゃない。別の何か。本来なら分かり易い何かが理由のはずなのに、それが分からなくなっている。


 


「君が生きる事を、本当に君が望んでいるの?」




「僕が望んでいないとしたら、誰が望んでいるんだ?」




「思い返してみて。君が生きる事を君以上に望む人がいる。きっとそこに、君の悩みを晴らし、君が救われる最期があるから」




 そう言い残し、彼は幻らしく消えていった。初めて、僕に助言らしい助言をくれた気がする。意思を持った事で、情が芽生えたのだろうか。


 僕が生きる事を僕以上に望む者……それは多分、敦子姉さんの事だ。明日、というより今日か。午後の何時かに花咲さんが見舞いに来る。その時、また電話を借りよう。電話を借りて、敦子姉さんに話すんだ。


 敦子姉さんが、僕に何を望んでいるのかを。

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