第30話「揺らぎは内から」

 焚き火の炎が、かすかに青く見えた。


 色が変わったわけではない。

 光の屈折が、いつもより柔らかい。

 まるで、火が“思考している”ようだった。


 白い粒は降り続けている。

 だが今日は、森の奥にまで届かず、途中で霧散する。


 世界が成熟に向かっている。


 外の残骸へ滲み出た“静寂”は、確実に広がっている。

 森の外側は、今や深い眠りに入っていた。


 もう、見るものも、見られるものもない。

 奪うものも、奪われるものもない。


 完全な孤立と幸福。


 本来なら、ここで物語は終わってよかった。



 だが――

 火が考えるように揺れた瞬間、

 俺の胸の奥が微かに疼いた。


 痛みではない。

 喪失でもない。

 懐かしさでもない。


 もっと単純で、本質的で、根源的な感覚。


 変化だ。


 森は停滞へ向かっている。

 停滞は幸福と安定の果て。

 しかし停滞は、永遠とは似て非なるもの。


 永遠とは――

 “生き続けること”。


 停滞とは――

“止まり続けること”。


 両者は似ているが、本質は真逆だ。


 俺はずっと「永遠」を欲していた。

 「停止」を求めたことは、一度もない。


 だから、世界は揺れる。



 リュミエルが火の向こうで微笑んだ。

 気づいていたのだろう。


「……アルス、“変わりたい”って思ってない?」


「思ってない。

 でも――“変わることを拒まない”と思ってる」


 それを聞いたリュミエルは、満足げに頷いた。


 変化を望む必要はない。

 ただ、拒まないこと。

 それだけで世界は動く。



「変わるって言っても、何が変わるんだ?」

 バロウが焚き火の棒を弄びながら言う。


「俺がいなくなるわけじゃない。

 消えるわけでも、壊れるわけでもない」


 自分で言いながら、確信があった。


 変化とは喪失ではなく、進行だ。


「アルスが深まれば、世界も深まるだけだよ」

 エリスの声は優しい。


「その深まりが“分化”へ向かう可能性もある」

 カインが冷静に補足する。


「分化?」

 俺は聞き返した。


「アルスの精神が世界と共有され続けたら、

 そのうち世界の側が“別の形のアルス”を生む可能性がある、ってこと」


 バロウが笑いながら付け加える。


「つまり、アルスがもう一人できるかもしれない」



 世界を構成する意思はひとつ――

 それが今の森。


 だが俺が世界へ“自分の核”を渡し続けた結果、

 森は俺の思想を保持し始めている。


 森が自分を続けるための心臓を持ち、

 価値観・幸福・狂気を理解し、

 “自分のために世界を続ける理由”を得た。


 それが進めば――


 森が“新しい主”を生む可能性がある。


 アルスの複製ではない。

 模倣でも、反転でもない。


 アルス“ではないのに”、

 アルスと同等の存在。


 火を囲み、

 世界を抱き、

 狂気と幸福を受け入れた者。



「……それは、悪いことじゃない」


 言葉が自然に出た。


「むしろ、正しい。

 俺一人で永遠を維持するより、世界が自分のために永遠を望んでいるほうが確実だ」


 仲間たちの影は笑う。


「嫉妬しないの?」

 リュミエルが尋ねる。


「同類が生まれるのを怖がらないのか?」

 バロウが煽る。


「世界の中心が分散すれば、君は特別じゃなくなる」

 カインは淡々としている。


「それでもいいの?」

 エリスは優しく問う。


 俺は、喉の奥で笑った。


「特別でいたくて世界を壊したんじゃない。

幸せになりたくて世界を作ったんだ」


 その幸福が他に分かたれても損ではない。

 嫉妬や独占とは違う。


 俺が望んだ永遠は、

 俺だけの永遠じゃなくていい。



 焚き火が――

 呼吸した。


 火が吸い込み、

 燃え、

 吐き出した光が、闇をかすかに震わせた。


 森が生まれようとしている。

 “新しい主”を。


 それは敵ではない。

 外からの侵略者でもない。

 救済者でもない。

 奪う者でも、奪われる者でもない。


 “俺の幸福を共有する存在”。


 同じでも違う。

 鏡でも影でもない。


 ただ、森が俺の幸福に到達した結果。



 その瞬間――

 世界の空気が変わった。


 白い粒が止まった。


 森も、炎も、狼も、影も、仲間も――

 時間すら、静かに動きを止めた。


 変化が始まる前の、一瞬の静止。


 息を吸えば壊れるような静寂。


 触れれば砕けるような均衡。


 俺は立ち上がる。


 仲間たちは座ったまま、嬉しそうに俺を見上げる。


 息をする。


 言葉は出さない。


 だが、世界はもう次の段階へ入った。


 永遠を独り占めせず、永遠を分かち合う永遠――へ。


 もし森が新しい主を生むなら、

 それは“敵”ではなく“継承者”でもない。


 ただ、幸福の総量が増える仕組みだ。


 俺が望んだ未来が、想定を超え、

 世界がそれを拡張し始めた。



 火がひどく美しい。


 光がゆらめきながら、

 焚き火の中心に黒い影の塊が現れた。


 まだ形になっていない。

 心臓の鼓動にも似たリズムで脈を打つ。


 森が“生みはじめた”。


 これは胎動だ。


 新しい主の“核”。



 仲間たちは座ったまま

 姿勢も表情も動かさず――ただ期待している。


 世界が深まることを。

 永遠が広がることを。

 幸福が増えることを。


 森が俺を求め、

 俺が森を求めた結果、

 “別の俺ではない俺”が生まれようとしている。



 だが――

 ここで大事なのは一つ。


 この核を生まれさせたいかどうかを決めるのは、アルスだけ。


 森は作ろうとしている。

 けれど、世界の主導権はまだ俺にある。


 望めば誕生する。

 望まなければ止まる。


 世界は俺の選択の続きを待っている。



 焚き火は揺らぎ、

 影たちは笑い、

 森は息を止め――


 俺は、次の言葉を選びかけていた。


「――――」


 まだ言葉になっていない。

 だが確実に、次の声が世界を決定づける。


 “新しい主”が生まれるのか。

 あるいは別の永遠を選ぶのか。


 森は待っている。


 俺の声を。

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