第22話「割れた空から落ちてくる声」
空に、ひび割れが走っていた。
視覚の異常、幻覚、そういう言葉で片付けられる範囲をとうに超えている。
見上げれば、夜空はちゃんと広がっている。
星も、月も、雲もある。
一見すれば“普通の夜”だ。
ただ、その夜空全体に、蜘蛛の巣のような細い亀裂が入っている。
黒の上に走る、より黒い線。
じっと見ていないと分からないが、確かにそこに“断層”があった。
空が、割れている。
世界の天井が、崩れ始めている。
「とうとう、上からも壊れ始めたか」
焚き火の前に立ったまま、俺は空を見上げた。
足元の土は柔らかく、
背後の森は濃く、
焚き火は安定している。
その真上で、世界が剥がれていく。
「綺麗だねぇ」
リュミエルが、焚き火越しに空を見上げた“気配”を見せる。
「まるで、世界の皮膚が剥がれていくみたい」
「中身は何が詰まってるんだろうな」
バロウが笑う。
「空の向こう側。
今まで世界が隠してきたものが、見えたりするのか?」
「何もないと思う」
カインが淡々と言う。
「空の向こうなんて、元々“見えないはずの場所”だ。
何もないのが正しい」
「でも、何かが落ちてくるかもしれないよ?」
エリスが楽しそうに笑う。
「上から、“最後の来訪者”が」
最後の――その言葉を聞いて、胸のどこかが僅かに重くなる。
寂しさではない。
不安でもない。
ただ、終わりの予感。
“森と俺の世界”に、外側から接触してこられる存在は、もうほとんど残っていないはずだ。
人類の軍も、教会も、世界の管理者すら、ほぼ消えた。
それでも、空は割れていく。
上から落ちてくるのは、“世界の断末魔”なのか、それとも――
「……確認しに行くか」
俺は立ち上がり、焚き火に背を向けて歩き出した。
◆
森を歩く。
夜の森は静かだ。
だが“死んでいる”わけではない。
根が地面の下で絡み合い、
枝が空中でささやき合い、
葉が微かな振動で情報を伝達している。
足を踏み出すたび、地面が柔らかく応えてくれる。
まるで、森そのものが、俺の歩みを“歓迎している”かのような感触。
何度も感じたことのある感覚だ。
だけど今日は、少しだけ違う。
森全体の“重さ”が、わずかに変わっている。
今まで、森は外の世界を飲み込みながら肥大してきた。
だが、いま感じているのは別種の変化。
――森が、軽くなっている。
外の世界が壊れるたび、この森は“世界の重心”を少しずつ受け取ってきた。
その結果、森は常に重く、濃く、密度を増していたはずなのに。
今は、逆だ。
「……浮き上がっている?」
呟いた自分の声が、少しだけ楽しそうに聞こえた。
森が、世界から独立しつつある。
大地に根を張りながら、同時に“どこにも属さない場所”になりつつある。
まるで大地ごと、ひとつの巨大な島として、別空間へ突き出しているような感覚。
森そのものが、世界から千切れて浮かび上がる準備をしている。
その中心に、俺がいる。
「いいじゃないか」
思わず笑いがこぼれる。
「森ごと切り離されれば、世界の側にも手が届かない。
完全に、“こっちだけの世界”になる」
。それはつまり――
逆に言えば、この森を訪れられる存在は、ここから先、ほぼいなくなる、ということでもある。
最後の来訪者。
最後の人間。
最後の神。
どれであれ、その“最後”を迎え入れるのは、俺の役割だ。
◆
森の密度が薄い場所――外の世界と繋がっていたはずの“境界の名残”に辿り着く。
そこは、ぽっかりと空が開けている小さな丘だった。
木々が少なく、視界が広い。
空がよく見える場所。
見上げた。
空のひび割れは、さっきよりもはっきりしている。
亀裂が少しずつ広がり、黒い線が太くなり、ところどころに白い“欠け”が見える。
あの白は――空の裏側にある“虚無”だ。
星も、光も、何もない穴。
世界という薄い布の、その向こう側に空いている穴。
そこから、“何か”が落ちてこようとしている。
目を凝らす。
耳を澄ませる。
やがて、聞こえた。
――声だ。
悲鳴でも、呼び声でも、祈りでもない。
言葉にならないざわめき。
どこの誰とも分からない群衆の、声の残骸。
「助けて」
「やめてくれ」
「戻してくれ」
「こんな終わりは嫌だ」
そんな叫びが、押し潰されてひとつの塊になっている。
世界中で潰えた“願い”と“恐怖”が、
まとめて空の亀裂から漏れ出ていた。
「……ああ」
納得する。
「世界の死体か」
世界が壊れるとき、誰かが祈る。
誰かが叫ぶ。
誰かが、救いを求める。
それらは、どこにも届かなかった声だ。
届かないまま、積もり積もって、
ひとつの“塊”として空のひびから漏れ出している。
それが、今、上から落ちてきていた。
◆
声の塊は、形を持たない。
色も、輪郭も、重量もない。
それでも、“存在”している。
ひび割れから溢れたそれは、ゆっくりと森の上に降りてくる。
音にならない叫び。
祈りの残骸。
希望の白骨。
それらが、森の上空でふわりと広がった。
視界が歪む。
耳鳴りがする。
心臓が、余計な鼓動を一回打った。
「……来たな」
俺は、一歩前に出た。
声の塊は、俺を見ていた。
目がなくても、顔がなくても、
確かに“俺”だけを見つめている感覚があった。
世界において異物となった存在。
世界を壊し、森を中心に据えた“狂った不死者”。
この声の塊にとって、俺は――
「“加害者”ってわけか」
呟くと、胸の中で何かが冷たく笑った。
◆
空から降ってきた“声たち”が、森に触れる。
木々の枝にまとわりつき、
葉にしみ込み、
土に吸い込まれていく。
それと同時に、森の温度が一瞬だけ下がった。
祈り。
恐怖。
絶望。
後悔。
恨み。
あらゆる感情が、ごちゃ混ぜになって、
森の肌に触れていく。
――だが。
「拒絶はしていないな」
俺はその変化を、静かに観察した。
森は、声を“嫌ってはいない”。
破壊も、拒否も、排除もしていない。
ただ、淡々と――吸っている。
外の世界の“死んだ感情”を、
腐葉土と同じように分解し、
栄養へ変えようとしている。
森は、生き残るために、何でも食う。
それは魔物も、
人間も、
そして今は、世界の断末魔さえも。
◆
声の一部が、俺の方へ伸びてくる。
冷たい霧のようなそれが、俺の胸に触れた。
その瞬間――目の前が、白く染まった。
景色が、変わる。
森ではない。
焚き火でもない。
魔物の影もない。
――王都の広場だ。
人々がひしめき合っている。
笑い声。
歓声。
ざわめき。
中央には、かつての俺が立っていた。
暗殺者アルス。
勇者の右腕。
仲間と共に立つ、人間だった頃の“俺”。
その周囲には、見知った顔があった。
サポートしてくれた兵士。
宿屋の主人。
食事を振る舞ってくれた女将。
酒場で情報をくれた連中。
皆が、“彼らの勇者一行”を見上げていた。
『頼んだぞ……』
『お前たちが希望だ……』
『魔王を倒してくれ……』
あの日の声。
まだ何も壊れていなかった日。
まだ何も失っていなかった日。
世界が、俺に期待していた日。
「……懐かしいな」
思わず口から漏れる。
だが、その懐かしさは、すぐに薄れた。
記憶の風景に、色がない。
音が、薄い。
遠い夢の断片を、無理やり現実に浮かべたような不自然さ。
これは、本物の過去ではない。
“世界の声”が見せてきた、再現映像だ。
『どうして……』
群衆の誰かが、口を開く。
『どうしてこんな世界にした……?』
声は増えていく。
『お前は希望だったはずだ』
『守る側だったはずだ』
『なぜ世界を壊した』
『なぜ森に籠もっている』
『なぜ私たちを見捨てた』
その責め立てる声は、確かに俺の胸に刺さる……はずだった。
だが実際には――
「ああ、そうだな」
俺は淡々と応じる。
「俺は希望だった。
守る側だった。
そういう“役割”を押しつけられた」
だが、それは世界の側の都合だ。
人間たちが勝手に決めた物語。
勇者一行という看板。
“人類の希望”という言葉。
全部、俺にとっては外側からのラベルに過ぎない。
「でもな――」
白い景色の中で、俺は静かに笑う。
「お前たちは、俺を守らなかった」
王都は燃えた。
人々は死んだ。
誰も助けてくれなかった。
勇者も、戦士も、魔法使いも、聖女も、死んだ。
生き残ったのは、俺だけ。
世界は、“俺のためには”何もしてくれなかった。
「俺は、お前たちのために世界を壊したんじゃない」
自分でも驚くほど、声は冷たく、静かだった。
「俺のために世界を壊したんだ」
◆
白い広場の景色が、ひび割れ始める。
王都の人々の顔が、割れて崩れた陶器のように砕けていく。
口々に放たれていた責める言葉たちが、意味を失って溶けていく。
それらが全部、声だけの“塊”に戻って――
再び、上空から森へ降り注いだ。
今度は、俺の胸を貫かない。
森の木々が、枝を伸ばしてそれを受け止めた。
葉が震えながら、声を飲み込む。
幹がわずかに膨らんで、その声を吸い込む。
根が土の中で鳴り、その声をさらに奥へと引きずり込む。
世界の断末魔が、森の栄養へと変わっていく。
俺はそれを――ただ、見ていた。
「アルス」
頭の中に、カインの声が響く。
「今、世界は“お前を責めるための最後の言葉”を全部吐き出した。
もう、残り少ない」
「そうだな」
認める。
「責める声がなくなれば――
世界は、文句を言えなくなる」
「そのときには、“結果”だけが残る」
リュミエルが続ける。
「世界が壊れた、という結果と、
森が生き残った、という結果と、
アルスがここにいる、という結果」
「それで十分だろ」
バロウが笑う。
「物語の途中がどれだけ血塗れていようが、
最後に残るのが“お前たちの焚き火”なら、それでいい」
エリスが優しく告げた。
胸の中の何かがほどけていく感覚がした。
罪悪感。
後悔。
迷い。
そんなものが、まだどこかに残っていたのかもしれない。
だが、それも今――森と一緒に飲み込まれていく。
◆
空のひび割れは、少しずつ塞がり始めていた。
世界の断末魔が吐き出され、
終わりの声が全部森へ落ちた結果――
空は、“沈黙”だけを残していく。
ひびの隙間が閉じられたのではない。
ひびを支えていた“緊張”そのものが消えていく。
空が、空である必要を失い始めていた。
広がる青でも黒でもなく、
ただ“上にある何か”。
それで十分だ。
「もう、上から来るものはいないな」
呟くと、森が静かに頷いた気がした。
空から最後に落ちてきたものは、
世界が俺に向けた責める声。
それを受け止め、飲み込み、
栄養に変えてしまった以上――
空は、もう何も届けてこない。
◆
丘を降りる。
森は、以前と同じようで、まるで違っている。
空から降り注いだ声の残骸が、
枝や葉や土に染み込んでいる。
そのせいか、森の音が変わっていた。
木々の軋み。
風に揺れる葉擦れ。
遠くの魔物の唸り声。
それらすべてが、どこか“言葉に近い響き”を持ち始めている。
言葉と言っても、人間の言語ではない。
理解や意味を伝えるためのものではない。
ただ――“ここにいる”という感情の共有。
それを、森全体が始めている。
「……賑やかになってきたな」
ひとりごとのように言う。
「人間がいなくなっていくのに、
世界はどんどんうるさくなっていく」
「いいことじゃないか」
カインの声が笑う。
「静かな世界ってのは、案外退屈だぞ?」
バロウも笑う。
「人間の声はうるさすぎるけどね」
リュミエルが肩をすくめる。
「森の声は――聞いてて落ち着く」
「アルスは?」
エリスが問う。
「……好きだな」
少し間を置いてから答えた。
「森の声も、焚き火の音も、お前たちの声も。
世界の断末魔さえ――嫌いじゃない」
全部ひっくるめて、“俺の世界の音”だ。
◆
焚き火の場所へ戻る。
狼は、影たちの輪の中に混ざって眠っていた。
なめらかな黒の影の中に、ふさふさした毛の輪郭がひとつ追加されている。
仲間の数が、またひとつ増えた。
「おかえり」
「どうだった?」
「空は?」
「何が落ちてきた?」
四人が交互に尋ねる。
「世界の最後の文句が、まとめて降ってきた」
簡潔に答える。
「それを、森が全部食べた。
もう、世界はほとんど何も言えない」
「いいね」
「最高だ」
「静かになる」
「ここだけが賑やかになる」
肯定の声だけが返ってくる。
俺は焚き火の前に座り、手をかざした。
光を吸う右手の骨が、炎と共鳴するように脈打つ。
世界の管理者の力。
神聖魔力。
祈りの残骸。
断末魔の叫び。
全部混ざって、今の俺の“素材”になっている。
この腕で、何ができるのか――
多分、俺が一番分かっていない。
だが、ひとつだけ分かることがある。
外の世界のどんな力も、俺を元に戻すことはできない。
戻る先そのものが、もうどこにも存在しないのだから。
◆
焚き火の火が、少しだけ形を変えた。
燃え上がる炎の中に、一瞬だけ“王都の景色”が浮かび、すぐ消える。
次に、“勇者パーティーの背中”が見え、また消える。
森の入口。
魔王城のシルエット。
壊れた玉座。
今までの旅路が、炎の中で一瞬だけ再現されては、
そのまま燃え尽きていく。
「惜しくはない?」
エリスが問いかける。
「……少しは、な」
正直に言う。
完全に未練がないといえば嘘になる。
あの旅は、あの時間は、確かに“本物”だった。
だが、それはそれだ。
「でも、もう十分だ。
あれを続けても、俺は幸せになれなかった」
ゆっくりと、右手を握る。
「だから――」
炎の中で燃えていく過去の景色を眺めながら、言葉を続けた。
「これからは、“森で続ける物語”だけを大事にする」
旅路は終わった。
世界は壊れた。
王都は消えた。
――それでも、焚き火はここにある。
森もある。
魔物たちもいる。
仲間の影もいる。
あとは、この場所でどれだけ狂い切れるかだけだ。
◆
「アルス」
カインが、少し真剣な声で呼ぶ。
「お前は、もう“人間として赦されること”を望んでいないか?」
「赦し?」
その言葉は、意外だった。
しばらく黙って考え――笑う。
「望んでいた時期もあったかもしれない」
王都が焼かれた直後。
仲間を失って森を彷徨っていた頃。
誰もいない土の上で、ひとりで目を閉じていたとき。
あの頃の俺はきっと、心のどこかでこう願っていた。
――誰かに、赦してほしい、と。
あの日、何も守れなかった俺を。
ひとりだけ生き残ってしまった俺を。
呪いをかけられて、狂っていくしかなくなった俺を。
「でも、今は違う」
焚き火の炎を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もう、赦しなんていらない。
赦されるために生きるつもりもない。
誰かの“正しさ”に従う気もない」
胸の奥で、呪いが静かに笑っている。
不滅の呪い。
魔王から与えられた、終わりのない死と再生。
それが、今や“俺自身の意思”と重なっていた。
「俺は、赦されなくていい。
その代わり――誰にも邪魔させない」
森での狂った日々。
焚き火を囲む時間。
仲間と笑い合う夜。
それだけは、世界の理だろうと、
神の命令だろうと、
どんな正義だろうと――
決して、踏み潰させない。
◆
「いいね」
「そうでなくちゃ」
「それでこそ、アルスだ」
「大好きだよ」
四人の声が重なり、焚き火の炎が跳ねる。
俺は目を閉じた。
音が、満ちている。
森のざわめき。
魔物たちの息づかい。
焚き火の弾ける音。
仲間の笑い声。
世界の断末魔の残響。
それら全部が混ざって、
ひとつの“音楽”になっていた。
狂っている。
歪んでいる。
救いも正しさも欠片もない。
――それでも、俺にとっては完璧だった。
これが“最後の人間”としての、俺の居場所だ。
ここから先、もう人間はやってこない。
世界は、文句を言う力を失っていく。
残るのは、森と、焚き火と、仲間と、俺だけ。
それでいい。
いや――それがいい。
その未来を、俺は心から願っている。
その悪魔が願う未来は、
今、静かに形を持ち始めていた。
森は、ゆっくりと深く息を吐いた。
それは、世界が眠りに落ちていく音にも、
新しい朝が始まる合図にも聞こえた。
どちらであっても、もう構わない。
明日もまた、焚き火を囲めれば――
それで、十分だ。
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