第4話 「森が、俺を壊す」

 王都を離れる俺の足は、迷いなく森へ向かっていた。

 この世界で最も深く、最も危険で、最も“人が寄りつかない”――忌まわしい黒森こくしんへ。


 目的があるわけじゃない。

 復讐の計画ができたわけでもない。


 ただ、本能がそこへ向かわせていた。

 怒りでも悲しみでもなく、もっと曖昧で、もっと暗く、もっとどうしようもない衝動。


 「逃げたい」「死にたい」「忘れたい」「壊したい」

 そのどれでもあって、どれでもなかった。



 森に入った瞬間、世界が一変した。


 木々が壁のように立ち並び、陽光が地面まで届かない。

音が吸い込まれるような静寂。それでいて、どこかで無数の生き物の息を感じる。


 地面には、獣の足跡。

 木の幹には、魔物の爪痕。

 腐った肉の臭いと、湿った土の臭いが、呼吸のたびに喉へまとわりつく。


 森が“侵入者を試している”感覚があった。


 だが俺の足は止まらない。


 魔王に殺され、蘇った。

 王都で狂気の儀式を見た。

 仲間を救えず、助けられず、殺すことでしか終わらせられなかった。


 ――俺には、人を助ける資格なんて無い。


 それは、森へ踏み込む理由に十分だった。



 数日が経った。


 食料も水も尽きた。

 だが腹は減る。

 喉は渇く。

 この身体が“不滅”だとしても、生きている以上、欲求は残っている。


 森に食料がないわけではない。

 だが――ここに生息する生物はほぼ全て魔物だ。


 人間は魔物の肉を食べてはいけない。

 命に関わる毒性、精神汚染、魔力過多、形態変異――理由は無数にある。


 それでも俺は、焚き火の前で肉を焼いていた。


 理由は簡単だ。

 人間の食料がないからだ。

 それ以上の思考は、既に切り落とされていた。


 ジュゥッ……


 焼ける音。

 滴る脂。

 鼻孔を刺す獣の臭いが、腹の奥を刺激する。


 魔物の肉は食べてはいけない――そう知っているのに、

 理性より飢えが優位に立っていた。


「……なんだよ……いい匂いじゃねぇか……」


 自嘲ではなく、本気の感嘆だった。


 そして――俺は口へ運んだ。


 一口目。

 その瞬間、脳が痺れた。


「……っは……は……」


 熱さでも臭さでもない。

 快楽だった。


 二口、三口、四口。

 気づけば骨しか残っていなかった。


 吐き気よりも先に、もっと食べたいという欲求が湧いた。


 生存本能?

 違う。


 食欲?

 違う。


 欲望?

 近いようで、決定的に違う。


 これは――“渇き”だ。


 身体の奥に巣食う何かが、肉を求めて呻いている。


 この瞬間、俺は少しだけ変わった。

 何が変わったのかは、まだ言葉にはできない。

 だが、確かに何かが剝がれ、何かが生えた。



 夜、眠るたびに夢を見る。


 勇者カインが笑う。

 戦士バロウが肩を叩く。

 魔法使いリュミエルが皮肉を言う。

 聖女エリスが祈りを捧げる。


 いつもの旅路。

 酒場での夜。

 焚き火を囲んだ日々。


 普通の仲間だった。

 かけがえのない仲間だった。

 あの頃の俺は――笑えていた。


 だから夢の中の俺は、笑う。


 友情を持っていた。

 人の心があった。

 救いたいと願っていた。


 だが夢の終わりは、いつも同じ。


――“なぜ助けられなかったの?”

――“どうして死なせたの?”

――“また見殺しにするの?”

――“遅かったのは、わざとなの?”


 優しい顔で、責め続ける。

 微笑みながら、刺し続ける。


 目を覚ましたとき、喉の奥が焼けるように乾いている。

 焚き火は消えている。

 俺の横には、魔物の肉の残骸が散乱している。


 誰も来ない。

 誰も助けに来ない。

 誰も責めてくれない。


 それでも夢は、俺を責め続ける。



 森に入って十数日後、初めて言葉を発した。


「……俺は……間違ってない……」


 誰に向けた言葉でもない。

 ただ、言わなければ壊れる気がした。


 でも、言葉にした瞬間――壊れ始めた。


「間違ってない……間違ってない……俺は、俺は……間違ってないんだよ……」


 傷つけたくない人を守るために戦ってきた。

 それが結果的に全員を殺した。

 だから守らない方が正しいのか?

 じゃあ今殺している魔物は?

 俺の中に巣食う渇きは?

 それでも俺は生きたいのか?

 生きる理由は復讐か?

 復讐は俺の目的か?

 それとも……


「俺は……なんなんだ……?」


 声が震える。

 それが恐怖か怒りかも、もうわからない。


 ただ一つだけ確信があった。


 この森は俺を殺さない。

 俺は死ねない。

 そして――この森で“人間が終わる”。



 夜。

 焚き火を囲む影は、いつの間にか俺ひとりではなくなっていた。


 カインの影。

 バロウの影。

 リュミエルの影。

 エリスの影。


 気配がする。

 視界の端で誰かが笑う。

 背中で誰かが泣く。


 焚き火越しに語りかけてくる。


――「仲間だろ?」

――「置いていくのか?」

――「一緒に行こうよ?」

――「これからも、ずっと……」


 俺は笑った。


 悲しさでも、懐かしさでもない。


 狂気の笑みだった。


「……あぁ。みんな一緒だ。どこにも行かない。ずっと一緒だよ」


 そしてまた、魔物の肉を食う。


 食うたびに、記憶が鮮明になる。

 仲間たちの声が近くなる。

 夢と現実の境界が薄れていく。


 森は俺を壊し、

 壊れた俺が森に馴染み、

 馴染んでいく俺が――強くなっていく。

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