第4話 「森が、俺を壊す」
王都を離れる俺の足は、迷いなく森へ向かっていた。
この世界で最も深く、最も危険で、最も“人が寄りつかない”――忌まわしい
目的があるわけじゃない。
復讐の計画ができたわけでもない。
ただ、本能がそこへ向かわせていた。
怒りでも悲しみでもなく、もっと曖昧で、もっと暗く、もっとどうしようもない衝動。
「逃げたい」「死にたい」「忘れたい」「壊したい」
そのどれでもあって、どれでもなかった。
◆
森に入った瞬間、世界が一変した。
木々が壁のように立ち並び、陽光が地面まで届かない。
音が吸い込まれるような静寂。それでいて、どこかで無数の生き物の息を感じる。
地面には、獣の足跡。
木の幹には、魔物の爪痕。
腐った肉の臭いと、湿った土の臭いが、呼吸のたびに喉へまとわりつく。
森が“侵入者を試している”感覚があった。
だが俺の足は止まらない。
魔王に殺され、蘇った。
王都で狂気の儀式を見た。
仲間を救えず、助けられず、殺すことでしか終わらせられなかった。
――俺には、人を助ける資格なんて無い。
それは、森へ踏み込む理由に十分だった。
◆
数日が経った。
食料も水も尽きた。
だが腹は減る。
喉は渇く。
この身体が“不滅”だとしても、生きている以上、欲求は残っている。
森に食料がないわけではない。
だが――ここに生息する生物はほぼ全て魔物だ。
人間は魔物の肉を食べてはいけない。
命に関わる毒性、精神汚染、魔力過多、形態変異――理由は無数にある。
それでも俺は、焚き火の前で肉を焼いていた。
理由は簡単だ。
人間の食料がないからだ。
それ以上の思考は、既に切り落とされていた。
ジュゥッ……
焼ける音。
滴る脂。
鼻孔を刺す獣の臭いが、腹の奥を刺激する。
魔物の肉は食べてはいけない――そう知っているのに、
理性より飢えが優位に立っていた。
「……なんだよ……いい匂いじゃねぇか……」
自嘲ではなく、本気の感嘆だった。
そして――俺は口へ運んだ。
一口目。
その瞬間、脳が痺れた。
「……っは……は……」
熱さでも臭さでもない。
快楽だった。
二口、三口、四口。
気づけば骨しか残っていなかった。
吐き気よりも先に、もっと食べたいという欲求が湧いた。
生存本能?
違う。
食欲?
違う。
欲望?
近いようで、決定的に違う。
これは――“渇き”だ。
身体の奥に巣食う何かが、肉を求めて呻いている。
この瞬間、俺は少しだけ変わった。
何が変わったのかは、まだ言葉にはできない。
だが、確かに何かが剝がれ、何かが生えた。
◆
夜、眠るたびに夢を見る。
勇者カインが笑う。
戦士バロウが肩を叩く。
魔法使いリュミエルが皮肉を言う。
聖女エリスが祈りを捧げる。
いつもの旅路。
酒場での夜。
焚き火を囲んだ日々。
普通の仲間だった。
かけがえのない仲間だった。
あの頃の俺は――笑えていた。
だから夢の中の俺は、笑う。
友情を持っていた。
人の心があった。
救いたいと願っていた。
だが夢の終わりは、いつも同じ。
――“なぜ助けられなかったの?”
――“どうして死なせたの?”
――“また見殺しにするの?”
――“遅かったのは、わざとなの?”
優しい顔で、責め続ける。
微笑みながら、刺し続ける。
目を覚ましたとき、喉の奥が焼けるように乾いている。
焚き火は消えている。
俺の横には、魔物の肉の残骸が散乱している。
誰も来ない。
誰も助けに来ない。
誰も責めてくれない。
それでも夢は、俺を責め続ける。
◆
森に入って十数日後、初めて言葉を発した。
「……俺は……間違ってない……」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、言わなければ壊れる気がした。
でも、言葉にした瞬間――壊れ始めた。
「間違ってない……間違ってない……俺は、俺は……間違ってないんだよ……」
傷つけたくない人を守るために戦ってきた。
それが結果的に全員を殺した。
だから守らない方が正しいのか?
じゃあ今殺している魔物は?
俺の中に巣食う渇きは?
それでも俺は生きたいのか?
生きる理由は復讐か?
復讐は俺の目的か?
それとも……
「俺は……なんなんだ……?」
声が震える。
それが恐怖か怒りかも、もうわからない。
ただ一つだけ確信があった。
この森は俺を殺さない。
俺は死ねない。
そして――この森で“人間が終わる”。
◆
夜。
焚き火を囲む影は、いつの間にか俺ひとりではなくなっていた。
カインの影。
バロウの影。
リュミエルの影。
エリスの影。
気配がする。
視界の端で誰かが笑う。
背中で誰かが泣く。
焚き火越しに語りかけてくる。
――「仲間だろ?」
――「置いていくのか?」
――「一緒に行こうよ?」
――「これからも、ずっと……」
俺は笑った。
悲しさでも、懐かしさでもない。
狂気の笑みだった。
「……あぁ。みんな一緒だ。どこにも行かない。ずっと一緒だよ」
そしてまた、魔物の肉を食う。
食うたびに、記憶が鮮明になる。
仲間たちの声が近くなる。
夢と現実の境界が薄れていく。
森は俺を壊し、
壊れた俺が森に馴染み、
馴染んでいく俺が――強くなっていく。
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