第8章 ハトの世界

第22話 引いてダメなら押してみよ


「ふ~ん、ふ~ん、ふふふ~ん、ふふ~ん」

明の鼻歌が、耳に入る。

それと同時にベーコンの香ばしい匂いを卵の柔らかい香りが包み込む。

多分……、ハムエッグだ。

朝食が毎朝用意される日常。

こんな日が来るとは思ってもみなかった。

朝から、嗅覚、聴覚が刺激され、満たされる。

幸せというのは、こういう風景のことをいうのだろう。


もう少し、この幸せを貪っていたい。

二度寝の喜び、そして食事が準備されているという日常。

これは、誰しもが求め、そして、その安心感に浸りたいというと考えてもおかしくない。

私は、手放しかけた夢を再度手繰り寄せる。

この幸せのときをまだまだ、貪っていたい……。


「もう~、弘毅~!

 朝だよ~。ご飯もできたから~。

 私もそろそろ準備しなきゃだから、起きて一緒に食べよ~よ~」

明がベットに近づいてくるのがその足音から、わかる。

軽やかに、だが少しの期待を込めた歩き方だ。


「ほら~。

 いつまでも起きないと、お姉さんがいたずらしちゃうぞ~!」

明の顔が近づいてくることが、その香りからわかる。

淡い桃と柑橘系の混ざる香りが、私の鼻腔をくすぐる。

私は、腕を伸ばすと明の身体を掴み、ベットに引き込むと同時に身体を反転させ、明の胸に顔を埋める。


「うん~……、もうちょっと~……。

 このふかふかで、モフモフっとする~……」

いままでは、こんな話し方なんてしたことは無かった。

幸せとは、人を幼稚化させ、弱体化させるものだと、最近知った。

私は、こんなにも人に甘えることができるとは思ってもいなかった。


「ん……もう……。この甘えんぼさんは、いつから私の子どもになったのかしら……」

明の両腕が私のアタマを強く抱きしめ、そして、その二つの幸せの中に深く鎮める。

この中で、私は幸せで溺れてしまうのではないだろうか?

そんなことを考えていると、明の両腕にチカラがこもる。


ん……?

あれ……?

苦しい……、息が出来ない……。

あれ? オカシイ……。

アタマを動かそうとしても、明の両腕のチカラが強くて動かすことができない。


「秘技:極楽スリーパー……」

明の艶めかしい声が、私の耳元に吐息と共に届く。

それと同時に私のアタマを締め上げる、明の腕にチカラがこもる。


「んごぉ! んごおぉおおぉ!!」

マジで息ができない!

確かにこの「二つの幸せの中で溺れたら」とはいったが、それは比喩表現であろうが!

このままでは、冗談抜きに窒息してしまう。

しかし、相手は元女子ハンドボール部主将。

その腕力は未だに衰えていない。


「ふふ~ん。

 観念したかね、ワトソン君……。

 いつまでも惰眠を貪っているから、こういうことになるんだよ……」

明の意地悪な声が、耳元にコダマする。

イカン……。このままでは、マジで「あっちの世界」に連れていかれるヤツだ……。


朦朧とするアタマを強く振る……、が一向に明の腕のチカラは弱まらない。

「く……、引いてダメなら、押すだけだ!」

私は、両手で明の二つの希望の丘を、両側から私のアタマに押し当てるように寄せる。

それと同時にアタマをグリグリと、その胸骨中央により深く押し当てる。


「ちょ……、こ、このバカぁ~!!」

明は私のアタマから腕を引きはがすと、右肘を私の左頬に喰らわせる。


嗚呼、これも含めて、幸せなのだと私は噛みしめるのだった。


―――――――――――――――――――――

「今日は、ゴミの日だから。

 じゃあ、後は弘毅、よろしくね!」

朝食を済ませると明は、バタバタと身支度をし、ハンドバックを手に取り玄関へと向かう。

私は、朝食が乗っていたお皿を流しへとゆうるりと運ぶ。


「ん、んぅ~。いってらっしゃ~い。

 今日は、遅いの~? 夕飯は勝手に作っておくよ~」

朝食は明が。夕食は私が。

それがいつの間にか、私たちの生活に定着してきている。

「うん! 任せたよ~!!

 あ、今日はオムライスがいいな~!」


「へい、へい。

 心を込めて作らせていただきます~」

明のこういうところがしっかりしている。

そんな話をしていると、明が振り向く。

「あ、忘れていた!!

 弘毅も頑張って!

 じゃ、行ってきま~す!」

振り向きざまに明は私にキスをすると、慌ただしく出かけていった。


「ッ……とう、に……。

 コイツが、幸せってヤツか……」

そう独り言ちると、私は背筋を伸ばす。

「うっし!

 んじゃあ、今日もやりますか!」


私は、ノートパソコンを開き、キーボードを叩きはじめた。

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