07 皇帝陛下の視察

「うげっ」

「うげ……とは何だい。旧知の友の訪問を歓迎はしてくれないのかな」


 吏部にひとりの客人が訪れたのは、その日の午後のことだった。


「と、とんでもございません。いったいどんな用向きか、と」


 高威の顔色が青から紫に変わるのを吏部の官吏たちも手を止め、茫然と見守っている。そのとき白銀の髪の客人は、芙蓉と目が合うと片目を瞑って見せた。ふわ、と高威の案内を受け、その姿が遠ざかっていった後も涼やかな香りがその場に残る。


 嫌な予感しかしなかった。


「ふ、ふふふ……普亮ッ、吏部尚書の執務室に茶を淹れて持って行ってくれ……」


 声を震わせる吏部侍郎に頷き、二人が吏部尚書専用の執務室に消えるのを待たずして、茶を淹れる準備を始めた。


「なあ、あれ陛下だよなっ」

「まさか陛下に玉璽が紛失したのがバレたとか……」


 さーっと音がするほどに吏部の官吏たちの顔は青ざめていく。

 芙蓉たち臨時雇用の頑張りでいったん床が見えるほどに片付けられた吏部の部屋では、ふたたび棚の書類を勢いよくひっくり返す大騒ぎが始まった。


「よし董良、もう一度この部屋の中を探すぞ! 他の皆も手を止めて、こちらを優先させるのだ。陛下がこの部屋に戻ってくる前にっ」


 吏部尚書が執務室で陛下の注意を引きつけているうちに、もう一度捜索を始めなければ、と侍郎があたふたし始めたのだった。



 ✣✣✣✣



 飾り気のない室の中でふたりの男が向かい合って座っている――否、にらみ合っている、の方が正しいかもしれない。芙蓉が二人分の茶を淹れて吏部尚書に持っていくと、眼前にはそんな光景が広がっていた。


「こうして腰を据えて話すのは久しぶりだね、高威」

「ええ――出来ることなら主上のご尊顔を間近に見られるこの機会を逃したくないものですがあいにく立て込んでいましてね」

「そのようだね」


 どったんばったん卓をひっくり返し、書棚を引き倒す勢いで玉璽を捜索する気配が隣室からしている。茶運びが終われば芙蓉もあれに加わることになるのだろう、少々うんざりした。


 ありがとう、と言って芙蓉の持っていた盆から茶杯をとると竜藍は何のためらいもなく口をつける。すると高威は目を瞠った。


「――随分信頼されているのですね」

「可愛い妻以上に信じられるものはないと思うけれど?」


 目を細めて茶の香りを堪能する竜藍の姿を、高威はぎょっとしたように見つめ続けている。そのとき芙蓉は「あ」と思った。


(……毒味をしていないものを口にするなんて)


 皇帝が口にする食べ物、飲み物はすべて毒味役を経て供される。それをすっ飛ばしたうえ、高威が飲むよりも早く竜藍は茶を飲んだのだ。


「無謀なことを……」

「もしかして、高威はわたしの花嫁が毒を混ぜるとでも言いたいのかな」


 雪のつぶてのような声音に勢いよく高威は首を横に振った。


(怒るようなことかしら……高威様の考えの方が自然なのに)


 竜藍が吏部を訪れたのは予定が組まれていたわけでもなく突然のことだった。

 芙蓉が淹れたのは吏部でふだんから皆が飲んでいるそれなりの茶葉である――間違っても皇帝に出すような超高級品ではない。だからこそ、毒の混入する可能性は限りなく低くはあるのだが。


(いちおう、わたしがひとくち味見をして出しているから大丈夫だろうとは思っていたけれど)


 芙蓉がまじまじとふたりのようすを見つめていると、竜藍は「高威とは幼馴染でね」と晴れ晴れとした口調で語った。

 父親に連れられて宮城によく来ていたから友達になったんだ、と懐かしむように微笑んだが高威は渋い表情のままだった。


「……友、ですか……勿体ないお言葉です」


 茶を口に含んでから言ったのでよほど苦かったのか、と芙蓉が心配になったくらいだ。

 老け顔と言ってはなんだが、顔つきに苦労が滲み出た高威は竜藍ととてもじゃないが同年代とは思えない。竜藍が二十代半ばだと仮に仮定すると――そういえば実際は幾つなのか知らない――五つか六つは年上のように見える。


「俺は昔から、主上のお顔を見るたびに胃がキリキリと……」

「そんなにも私を心配してくれているんだね、嬉しいな」


 竜藍は高威の嫌味にも堪えたようすもなかった。にこにこしながら膝の上で組んだ手に顎をのせている。少女や童がやれば愛らしいが、成人済の男である竜藍がやっていると美貌も相俟って不気味さすら漂う。


「子供の頃から高威は『神童』と呼ばれていてね」


 突如として始まった昔話に高威は頭を抱えた。穴があったら身体まるごと埋まりたい、と顔に書いてある。


「官吏登用試験に最年少で合格したんだよ」

「まあ、すごいです」

「……過去の栄光ですよ。大体、俺は難しいことをあれこれ考えるのはあまり得意じゃないですし」

「またまた――得意じゃないからこそ、仕事はさっさと済ませる主義。君ほど問題解決に向けて迅速に動ける者はいない、と私も認めているんだ」


 竜藍は茶をもう一杯くれるかな、と芙蓉に強請ねだりながら饒舌に語った。


「当時は私もまだまだかわいい盛りの皇子だったからね。誰からも褒められる高威が羨ましくて嫉妬したものさ」

「そんな可愛いらしい時期が主上にあったとは思えませんが」

「ははっ、私にそんなことを言うのは高威ぐらいだよ。ね、なかよしだろう?」


 どちらかというとしきりに絡んでくる竜藍に辟易している高威、としか見えなかったのだが芙蓉は賢明だったので「そうですね」と頷いた。

 そういえば、と竜藍は目を細める。


「……そろそろまた官吏登用試験が始まるね。ねえ、芙蓉。我が流漣国では試験に合格すると、証明書が発行されるのを知っているかな」


 竜藍の言葉に高威の顔色が変わった。


「この証明書を持っていると、次期官吏の道が確定しているということであらゆる優遇を受けることが出来る。『流漣国官吏登用制度』は裕福な者ばかりではなく様々な身分の者を取り立てたい、という趣旨で毎年のように吏部が改良を重ねている制度だからね。合格者は何かと物入りだろう? 新たに官服を用意するだけでも金がかかる。ところがこの証明書を提示するだけで、提携した市場で買い物をすると値引きを受けたり無償で必需品を得られたりできるんだ」

「もしやこの証明書の仕組みを高威様が作られたのですか?」


 いっそう渋い顔で高威は首肯した。

 確かに立派な制度だ、と思ったのだが芙蓉はあることが気になった。


「あの、高威様。その合格証明書に、玉璽で押印を……するのですよね」

「――その通りだ」


 玉璽は証明書作成という季節行事のために吏部に臨時で貸し出されていたのではないか――。それを紛失したとあってはただでは済まないだろう。吏部尚書、侍郎含む、吏部の全員に処分が下るのは免れ得ない。


「……さて、と。私はそろそろ帰ろうかな」

「えっ、もういいのですか?」

「芙蓉妃様っ! これ以上お引止めするのも申し訳ありませんので主上には丁重にお帰り頂きたく存じます」


 早口で高威は言ったが自分でも何を言ったのかわかっていなさそうだった。おかしそうに竜藍はくつくつと喉を鳴らして笑う。

 じゃあね、とひらひら手を振って吏部執務室を出て行った皇帝を見送り、高威はがっくりと肩を落とした。


「あれはまずい」

「まずい、とは……」

「吏部で起きている諸問題をすべてわかっていて引っ掻き回しに来た顔です、あれは……芙蓉妃様――いえ、普亮も苦労が絶えないな」


 そのとき、隣室から野太い悲鳴が上がった。慌てて椅子を引いた高威が吏部執務室に駆けつける。その後に芙蓉も続いた。


「なんだ騒々しい」

「高威様、見てくださいっ」


 ころん、と卓の影から滑り出てきたものを吏部侍郎が拾い上げ、叫んだ。

 口元の髭がぴーんと立ち上がっている。


 吏部侍郎の手には、紛失したはずの玉璽が握られていた。


「再度、董良が床の書類整理をし直しているところにこれが挟まっていて……たったいまぽろりと零れ落ちたのです! さすが期待の若手だっ」

「い、いえただの偶然かと」


 董良を称える歌を歌い始めようとした吏部侍郎を吏部尚書が「うるさい」と一声で止めることで、ひと段落したのだが――芙蓉は床に散らばる書類の山と、侍郎に握りしめられた玉璽を見比べながら、人知れず息を吐いたのだった。



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