独り言
閑静な住宅街の低層マンションの一部屋。そのリビングで、エヌ氏が「そうかい。そうかい。それはよかった。仲良くやっていけそうか」と微笑した。
その様子をながめていた不動産屋の男は、辟易した表情を浮かべていた。
ふたりがいる部屋は、いわゆる心理的瑕疵物件だった。犯人不明のまま、借主が殺されていた。
借主が音大に通う美女であったため、事件は大きく報道され、しばらくの間、テレビで被害者の顔を見ない日がないほどであった。
もともと家賃が高いうえに、借主が殺され、事故物件をまとめたサイトに登録されてしまい、不動産屋は次の借り手を探すのに頭を抱えていた。
その時に現れたのが、エヌ氏であった。エヌ氏は一見、物腰柔らかいエリート・サラリーマンに見えたが、おかしなところがあった。
マンションの敷地に入るとき、「なかなかいいつくりのマンションだね。気に入ったかい」と口にしたので、不動産屋は自分に声をかけたと思い、「はい。住民のみなさまにもご好評をいただいております」と答えたが、返事はなかった。
それを皮切りに、エヌ氏はずっと意味不明な独り言を繰り返していた。変な癖のある客だが、客は客。不動産屋はプロフェッショナルに徹し、接客をつづけた。
独り言を言いながら各部屋を見たあと、前の借り主である女が殺された寝室でエヌ氏はひとり、ぶつぶつと小声でつぶやいていた。それから、冒頭の一言を口にしたあと、「ここにします」と不動産屋に声をかけた。
引っ越しした初日の深夜。
一人住まいのはずのエヌ氏が、広いテーブルのうえに、豪華な食事を三人分用意していた。
そして、だれもいない空間に向かって、ワイングラスをかざしながら、次のように言った。
「一目ぼれした相手と一緒に暮らせるからって、そんなにはしゃがないでくれよ。……次は君の番だって? いやいや、僕はいいよ。君たちを見ているだけでお腹いっぱいさ。ラブラブじゃないか」
そんな独り言が静かな部屋に響いた。
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